#06 La Vie En Rose

 8月12日は快晴であった。とうとう、橘から指定された朝がやって来た。

 布団から上体を起こす。首を振った扇風機が、横から僕の寝癖をなびかせた。


 カーテンで遮られた窓の向こう側では、鳥のさえずりとカラスの鳴き声、そして蝉の鳴く声で大合唱が繰り広げられている。


 ──贈った手紙、読んでくれたのかな。

 一行だけの返事に、僕は期待とも不安ともとれる複雑な感情を抱いていた。


 時間については、特に言及されていない。


 昨晩は夜更かしをしていたのか、智花はまだベッドで寝息を立てていた。今朝くらいは僕が作ろう、とキッチンに向かう。炊飯器には昨夜の米が少しある。卵をフライパンの上に落として目玉焼きを作り、つあでに冷蔵庫からウィンナーを出して軽く焦げ目がつくまで焼き上げる。


 手早く平らげ、智花の分はラッピングして書き置きを残し、僕は歯磨きをしてシャワーを浴びた後、一番お気に入りの服に着替え、『御守り』をポケットに入れて家を出た。


 バスに乗って総合病院に向かう道すがら、僕は、なんとなくこれまでのことを思い出していた。

 春先に僕の知る歴史とはわずかに違うこの世界にやってきた。家族と再会し、友人や橘とも再会した。


 多くの疑問が浮かび上がる。これまで考えまいとして誤魔化してきたあれやこれが、途端に気になってきた。

 雨女は、どうして僕を連れてきたのだろう。

 春以前の僕の意識はどこへ行ってしまったのだろう。


 バスが停車する。病院に着いたらしい。思考を中断して降りると、玄関口にはぽつんと橘の姿があった。


「「あ」」


 二人して声を漏らす。不意打ちだった。心の準備がまだできていなかった。どくんと脈打つ心臓を深呼吸一つで抑えつけ、僕は橘の元へ歩き出した。


「おはよう、橘」


「……うん、おはよう」


「退院したの?」


「うん。ついさっき」


 橘は小さく笑った。

 よかった。この調子なら施設送りにはならなさそうだ。

 僕は胸を撫で下ろし、ふと橘の家族が来ていないことに気が付いた。


「迎えは? 誰も来ないのか?」


「……もうすぐ、お姉ちゃんが来てくれると思う」


 夏樹さんが来てくれるなら安心だろう。

 しかしそうなると、僕がわざわざこの日に呼ばれた理由がわからない。まあ、理由がなくたって、橘のそばにはいつでもいたいけれど。


「あの、これから迷惑をかけるかもしれないけど……よろしくね」


「うん……? ああ、もちろん」



 程なくして夏樹さんがやって来た。車に詳しくはないが、 レンタルしたらしい軽自動車になぜだか僕も同乗し、すぐに発進した。

 十数分ほど走って、着いたのは橘の住むマンションだった。


「ほら、行って来なさい」


 夏樹さんが言うと、橘だけが降りて行った。僕がドアに手をかけようとした時、夏樹さんはこう言った。


「ああ、マコちゃんの家どこ?」


 疑問に思いつつ、僕がおおよその特徴と住所を伝える。彼女はふむふむと頷いて、


「あの子が戻ってきたら君のうちに寄るからさ。荷物をまとめて来て。服とか、宿題とか、いろいろね」


「……?」


 まさか、これから旅行にでも行くと言うのだろうか。

 僕の適当な予想は半分だけ正しかった。


「そのあと、お婆ちゃんが住んでた実家に行くわ。あんたたちはそこで、夏休みが終わるまで二人で過ごしなさい」


「な……、」


 絶句する。夏樹さんは今なんと言った?


「正気ですか。……言うまでもないことですけど、僕だって男ですよ?」


「そうね。でも、そういう観念的なものはしっかりしてると私は思ってる。君の恋心は限りなく無垢でけがれが感じられない。それに、あの子が悲しむようなことはしないでしょ。……そういう男だと、私は思っているけど?」


「…………」


 たしかに、橘を悲しませるつもりなど毛頭ない。けれど、ギクシャクは続いたままのはずだ。僕の手紙一つで、橘の中の何かが揺れたとでもいうのだろうか。

 しかし、それにしたって荒治療が過ぎる。


 渋々、僕は了承する。10分後に橘が戻ってきて、今度は僕の住むアパートに向かう。その道中、夏樹さんは銀行に立ち寄った。


「軍資金がいるでしょ。下ろしてくるけど、車で待ってる?」


 橘と二人にされると、少し気恥ずかしい。そしてそう思ったのは僕だけではなかった。橘が車を降りるのを見て、僕もまたドアを開けて降りて行った。



 思えば軽率な判断だった、と思う。



 三人で、ATMに向かっているときだった。

 



「動くな!」


 男の大声に、場がしんと静まる。誰もが手を止め、振り返った。


 声の主は、あろうことか受付の女性に右手のナイフを突きつけていた。そのまま、もう片手に持つ口の広い鞄をデスクにどさりと置いた。


「ここに金をありったけ入れろ。いいか、誰一人! 動くんじゃねえぞ!」


 ナイフを振り回して牽制しながら、男はゆっくりと周囲を見渡す。

 心臓が鷲掴みされたかのように錯覚する。

 冷や汗が垂れた。


 まずい。

 まずいまずいまずいまずいまずい。


 強盗だ。


「なあ、オイ。知ってるかぁ?」


 心底不快な声で、女性の方を向きながら声を張り上げる。


「去年の話だ。刃物を持って銀行に立ち入った俺みてえな強盗男が、のことをよぉ。

 ここにもいねえのか? オレを止めてやろうっつう正義のヒーローさんは?」


「ひ……っ」


 傍に立つ橘が、思わずといった様子で手荷物から手を離した。静寂に包まれた中で、小さなカバンが落下する。タイルに金具が当たったのか、かつんという音がいやに響いた。


 ぎろりと、男がこちらを睨む。橘が腰を抜かしてその場に倒れかけ、夏樹さんが慌てて支えるのが横目に見えた。

 からりと喉が渇いていく。


 動けない。

 男がその気になれば、彼の目の前の女性が餌食になってしまう。


 くそ。なんだってこんな時に。

 強盗は、橘にとって最大級のトラウマだ。


「お前、今何した」


 音を聞いた男が僕たちを逃がさないとばかりに睨め付ける。


「なにも、してない。ビックリして荷物を落としただけだ」


 一歩、また一歩と男がこちらに近づいて来た。

 男は意味もなく標的をこちらに変えたらしい。くそっ、厄介なことになった。


 男はおもむろに歩きながら、再び声をあげた。


「……いいかぁ、ポケベル、ないと思うが携帯電話とか、そういうの。あとブザーや手荷物も全部だ。手に何か持ってる奴はゆっくりと床に置け。外に連絡するそぶりを見せてみろ。てめえのせいで、関係ねえ奴が一人死ぬぞ」


 ぎりり、と歯ぎしりの音がした。思わず歯を食いしばっていたらしい。

 このままでは捕まって人質になる。僕か、橘か、あるいは彼女を支える夏樹さんか。


 僕ならいい。でも、彼女たちが連れて行かれてしまったら、全ては終わりだ。


 僕はじりじりと距離を詰めるように、床に足をつけたまま右足を出す。少しでも前へ。あわよくば僕を一番最初に狙うように。


 男と目があった。そこで、奇妙な違和感が僕の脳裏を過ぎった。

 ──こいつ、まさか。


 ぞろぞろと、周りの客や従業員が指示通りそれぞれ手荷物を床に置いている。僕もゆっくりと、ポケットに忍ばせた『御守り』を静かに床に置いた。


「……んだぁ、そりゃ」


 対面する男との距離は、5メートルほどにまで詰められている。僕が置いた薄型の液晶パネルの『御守り』を見て、男は怪訝な顔をした。しかしすぐに興味を失くしたようで、さらに大声で続けた。


「次はゆっくりと両手を上げろ。全員だ。早くしろォ!」


 その声を聞いて、違和感が確信に変わった。

 時が停滞する。

 1999年の夏の終わりの記憶が、急速に頭の中で広がっていく。



 ***


 ゴン! と骨を打つ音が僕の頰から響いた。

 あれは1999年の8月29日。蝉が最期の力を振り絞って鳴き叫ぶ、夏祭りの中でのことだった。


 外で安酒を飲み歩き一人酔っていた僕は、道中である男と肩をぶつけた。ムカついた僕は、振り返ってそいつのかかとを蹴りつけた。それがいけなかった。


 次の瞬間、僕は土の上に転がっていた。


「オイオイ。誰に喧嘩売ったかわかってっかぁ?」


 そいつは秋元庵あきもといおりといった。彼は職人が研ぎ澄ました刃のような鋭い目付きの、背の低い痩せた男だった。

 庵は格闘技の経験者だ。腰を落として一瞬にして身を捻りながら右拳を振り抜き、あっという間に僕を路上に転がして見せた。口の中の血を吐き出し、僕はそいつを睨み付けた。


 当時腐っていた僕にとって、肉体的に痛めつけられることなど、なんのダメージにもならなかった。


「……イイなァ、その眼」


 僕の態度が、庵の中の何を満足させたのかわからない。

 ともかく、彼は構えていた両手を解くと、右手を差し出して尻餅をつく僕を立ち上がらせ、僕の背中をばちんと叩いていった。


「オレは秋元だ。お前は?」


「……真。平井真だ」


「オーケー、真。今日からオレたちは仲間だ。夜露死苦!」


 繋いだ手をがっちりと握り、庵はにっと笑った。

 僕はその日、半ば強制的に、不良グループの仲間入りを果たした。



 ***



 2メートルを切った。

 頭の奥で、逆流するみたいに記憶が流れ込んでくる。


 ──いいか真。覚えとけ。男ってえのはな、譲れないもんと譲れないもんがぶつかったとき、拳で勝者を決めるもんだ。


 斜め後ろには橘たちがいるが、それ以外には誰もいない。好都合だ。


 ──だがな、よーいドンで自分より強え奴に勝てる道理はない。当たり前だ。ならどうすりゃいいか? 決まってる。不意を突くのさ。手段はなんだっていい。足元の砂を掴んでぶん投げてもいい。何もなけりゃ唾を吐きかけるのも手かもな。それから……。


 僕は男に目を合わせたまま、ゆっくり両手を上げて。


 ──あとは、そーだな。相手が想像もしていない言葉で揺さぶりをかけてみる、ってぇのもおススメだぜ。



「お前──?」


「あん? 誰だおま」


 彼はじろりと僕をよく観察しようとした。

 その僅かほんの少しの隙。コマ撮りを合わせた映像を切り替える瞬間に生ずるような、紙一重の隙間。


 僕は握りしめた右の拳を、庵の顔面に思い切りめり込ませた。



「んがッ!?」


 決まった。

 渾身の右ストレートに庵がふらついた。しかし、この体では筋力が足りないと歯噛みする。続いて低い位置の顔を蹴り上げようとしたその時、彼は鋭く反応した。


「!?」


 強靭的な体幹ですっと仰け反った体の芯を正すと、僕の蹴りは余裕で避けられた。そのまま右手のナイフがまっすぐ突き出される。

 だが凶器から目を離す僕ではない。。思わぬ衝撃に庵が凶器を取りこぼす。くるくるとナイフが床の上を転がった。

 武器はなくなった。これで互角だ。


 いや、互角ではない──勝機はある。


 結局、僕は一度もケンカで庵に勝てたことはない。

 けれど、今は1996年の夏だ。辿った歴史に致命的な誤差がないと仮定すると、庵はまだ格闘技に手を出していない。精々、路上の喧嘩ぐらいしか知らないはずだ。


 そして。


 庵がわずかに腰を落とす。僕は目線を追いかけた。左の肺。ヒュンッと鋭い音と共に庵の掌底が突き出される。僕は左足を後ろに引き、半身だけ軸をずらして寸毫すんごうの差でそれを躱した。


 僕は庵の弱点を熟知している。


 伸び切った右手の手首を掴み取り、重心の乗った右足を払う。だが予想とは違い庵は対応してみせた。僕の足を軸足とは逆の左足で踏み付け、逃げ道のなくなった僕の顔面を、今度こそ左の拳が捉えた。


「んぐッ……!」


 一撃だった。当然だ。あの頃とは違って、は体なんて鍛えていない。


 庵は倒れた僕に馬乗りし、容赦なく拳を振るった。


「やめて!」


 橘が叫ぶ。


「ハッ。カノジョの前でヒーロー気取りかよ。ダッセェな、お前」


 拳が振るわれるたび、鮮血が舞った。口の中が鉄の味に染まる。鼻先がどろりとして気持ち悪かった。


 くそ。しくじった。庵を舐め腐っていた。

 僕が庵を知っていても、やはり目の前の庵とは別人だ。あいつは僕が指摘するまで足技に無警戒だったはずなのに。


 思えば、レフェリーとルールが存在する格闘技それ自体よりも、そのどちらもない路上のケンカの方が、ある意味では危険なのだと、僕は失念していた。


「ナイフを奪えばまだ勝機はあったかもしんねえのによぉ」


 違う。それではダメなのだ。

 バチンと肌を打つ音がこだまする。

 ああ。痛えな、ちくしょう。


「助けて!」

「助かんねえよ」


 好きな女の子の叫び声が聞こえてくる。腹の上で庵がわらっている。意識が遠のいてゆく。


 あわよくば、この間に誰かが助けを呼んで、警察が来ることを祈ろう。


 ああ、でも。


「──くん! ──ことくん!」


 それまで庵が橘にまで手を出さないか、心配だ。


「お願い! 誰か、助けてよおおおおお!!」



 ぴろりん、と場違いな電子音が聞こえたのはその時だ。

 液晶パネルの『御守り』がちらりと視界の端に映る。

 薄れゆく意識の中でひとりでに起動したその画面には、こうあった。



 、と。



 バチィ! と骨を撲つ音で、僕は意識を失った。



 ***



 目を覚ました時、僕は病院のベッドの上だった。


 白い天井が見える。お腹の上が重い。首だけを起こして下を見ると、黒髪のポニーテールがちらりと見えた。


「橘……?」


「……ん、よかった。起きてくれた……」


 うたた寝をしていたらしい。僕が声をかけると、橘はすぐに体を起こした。彼女の首元から垂れた黒髪の塊がふわっと翻って、懐かしい匂いがした。


「……ごめんなさい」


 そしてパイプ椅子に座ったまま、彼女は頭を下げる。


「……橘が謝ることはないだろ」


「ううん。私なんかに付き合わなければ、こんな、怪我することもなかったのに」


「これぐらい、怪我なんて言わないよ」


 橘は泣きそうな顔していた。思わず涙を拭おうとして右手をあげると、手のひらが包帯でぐるぐる巻きにされていることに気付いた。


 そういえば、ナイフを握ったんだっけ。

 痛みはないが、これでは何もできない。


「……聞いてもいい? あの後のこと」


 トラウマを刺激するかもと思ったけれど、聞かずにはおれなかった。

 橘はこくりと首肯すると、ゆっくりと話し始める。


「うん。……あのあと、この板が変なサイレンの音を出して、すぐに警察が入ってきたの。たまたま近くを巡回していた白バイ隊の人が、犯人を拘束して、私たちはなんともなかった」


 橘の手のひらには、件の『御守り』があった。

 もしかしたら彼女は、万が一こういうことが起きた時のために、それを用意してくれていたのかもしれない。


「……そっか。格好悪いところ見せちゃったな」


「そんなことない」


 橘が包帯の上から右手を握った。

 気恥ずかしくなって、僕はそっぽを向いて黙りこくってしまう。

 病室に沈黙が訪れる。


 そこで初めて、僕は周りを見渡した。左には色褪せたカーテンがあって、その奥に夕焼けが見えた。四人部屋のベッドには、僕を除いて患者はいないらしい。


 僕と橘の他に誰もいない。夏樹さんもいない。


 まさに、千載一遇のチャンスと言えた。


 僕が口を開きかけるその寸前に、橘がごそごそと鞄の中身をいじくりだした。


 彼女が取り出したのは、だった。



「……え?」


「……覚えてる? 小六の修学旅行。私がイタズラで取った帽子が、風で吹き飛ばされちゃった時のこと」


「…………ぇ」


 それは。

 それは。


 それは、


 まさか。

 いや、そんなはずがない。

 でも、だって。

 沸々ふつふつと、疑問があぶくのように沸き上がってくる。


 何かがおかしい。一体何が食い違っている?


 加瀬は言った。小中共に橘と僕はと。それは、確かに間違いない。この世界の小学校では、僕達は出会っていない。

 恵はなんと言っていた? 。ああ、これも間違いない。あの日タイムカプセルを発掘した時、恵も同じ小学校にいた辻褄が合う。


 ──けれど、橘は確かこうも言っていたじゃないか。「」と。


 心の中でぽつりと雫が落ちて、波紋が広がった。


 ……僕が通っていた学校の担任が、原田先生とやらではなく、贄川先生だと知っている。

 とっくの昔に、彼女は僕にそれを伝えていた。

 でも。

 まさか。


 橘は緊張した面持ちで僕の目を見ていた。

 ぎゅっと握られた青い帽子が、彼女から初めてもらった手紙の記述を思い出させた。


「……もしかして、君は、


 唖然とした僕が呟くと、橘は困ったように笑った。


「他の、誰に見える? ──


 ……意味がわからなかった。

 驚愕と、感嘆と、歓喜と疑問が同時に浮かび上がる。どんな表情をすればいいのかわからなかった。


 だって。そんなはずは。

 混乱する頭で、どうにか僕は核心を突く質問を絞り出す。


「橘は……記憶喪失じゃ、なかったのか?」


「……半分は正解だよ。私には、1127の」


 11月27日。

 忘れるはずもない。それは橘の命日だった。

 そして奇しくも、かの銀行強盗事件が起きた翌日でもあった。

 つまり、それは。僕と同じで。


「まさ、か……」


 点と点が繋がっていく。頭の中でピースがはまっていく。


「じゃあ、なんで。入学式の次の日、橘は僕のことを知らないって」


 手持ち無沙汰に青い帽子を弄りながら、彼女は言葉を紡いでゆく。


「去年の事件のあと、私、周りに避けられていたから。噂はすぐに広まった。そんな中で知らない人に声をかけられて、びっくりしちゃったの。

 だって真くん、背も大きくなったし、声も低くなってるし、なにより前よりずうっとカッコよくなっちゃってるんだもん」


「……………………、」


 だとしたら。

 あの時も、またあの時も。

 僕の頭の中で、この世界に来てからの橘とのやり取りの記憶がこれでもかと流れてゆく。


「打ち明けられなかったのは……ごめんなさい。事件で人を刺したこと、真くんに知られたら幻滅されると思って。それだけは耐えられなかった。だから、そのまま記憶喪失ということにしておいたほうが都合が良かったの」


 二度目に会った日を思い出す。6月に入って雨女に釘を刺された、あの日だ。


 事件を知られたくないと言いながら、彼女は「私は何をしてしまったんでしょうか」と言っていた。


 一見矛盾している。けれどそこに、「橘は僕と同じ世界からやってきた転移者である」という仮定を置くと、納得もできる。


 橘は事件の詳細を出さずに、僕がそれを知っているかどうかを探ろうとした。

 そして、彼女は同時に僕との思い出話を聞きたがった。


 僕にとっての橘がそうであるように。彼女にとって、『この僕』が『橘桃華の知る平井真』であるかどうか調べるために。


「でも、これをもらったから」


 橘は一枚の便箋を広げる。

 僕が彼女に向けて綴った、手紙だった。



 ***



 "橘へ。


 僕は直接言葉にするよりも、手紙にするほうが楽だと思う。だから、お姉さんを経由して手紙を書かせてもらうことにした。


 今から僕は、僕のことを話そうと思う。思えば僕は、君のことばかりを知ろうとして、思い出にすがって、僕の考えてきたこと、僕が思ってきたことは一つも伝えたことはなかったから。


 実を言うと、僕には、2001年の記憶がある。荒唐無稽こうとうむけいな話かもしれないけれど、嘘は言っていない。夢の話だとでも思ってくれたらいい。


 僕の知る2001年は、灰色だ。いや、もっと黒に近い。墨を垂らして無理やり黒に染めたような、そんな色をしていた。


 そこには、橘がいなかったからだ。


 僕は、橘のいない5年間を孤独に過ごしてきた。自殺に思い至ったこともあった。それぐらい、僕の中で橘の存在は大きいものだったんだ。


 なぜだと思う?

 それは、橘が僕を救ってくれたからだ。

 誇張だ、とは思わない。小学5年生まで、僕は人生を楽しく思ったことがなかった。ある日、僕は君に会いに行く理由ができた。そうして僕たちは出会った。その瞬間、僕の住む世界は変わった。橘が、僕の人生に彩りをくれたんだ。


 だから、ありがとう。

 記憶喪失だから、とか。人を刺してしまったとか。橘が聞くと傷付くかもしれないけれど、そんなの、僕にとってはどうでもいいことだ。


 僕はこれからも、橘と一緒にいたい。同じ景色を見て、同じことを知って、同じものに触れてみたい。それだけのことなんだ。


 これから困ったことがあったら、いくらでも力になる。僕だけじゃない。歩み寄ればわかってくれる人は絶対にいるはずなんだ。だって、こんな僕にだって、友達ができたんだから。声を掛けてくれる人がいたんだから。


 長くなってごめん。でも、これだけは伝えたかったんだ。

 また会いに行くよ。



 平井真より"



「……こんなこと、思ってんだね」


 橘は丁寧に折りたたんだ便箋と帽子をベッドの脇に置くと、今度は鞄から、とあるノートを取り出した。

 それは、やはりこの世には存在しないはずのものだ。


 いいや、違う。、それを持ち込むことが許される。すなわち、意識が転移する瞬間だ。

 僕が、濡れた衣服と、まだ発売もしていなかったはずの壊れたウォークマンを身につけていた時のように。


「交換日記……」


 それを見て思わず僕は呟いていた。橘はにこりと笑うと、それを開きながら言った。


「11月26日、余命が幾許いくばくもないとお医者さんに宣告されたあと、私はこれに遺書を書いて橋のロッカーに入れておこうと思ってたの。でも、そのあと、セーラー服を着た女の人が病室にやってきた。彼女はこう言った。『あなたの病が治るとしたら、あなたはどんな代償でも支払う覚悟がありますか?』って」


 セーラー服の女。それが誰であったのかは、聞くまでもあるまい。


「……その提案を、受け入れたのか」


「うん。あのまま死にたくなかった。もう二度と真くんに会えなくなるなんて耐えられなかったから。それに、なんだか真くんと雰囲気が似ている人で、無条件に信用できちゃったの。

 ……その翌日、世界はがらりと切り替わった。私には、『お母さんを助けた時にナイフで男の人を刺し殺した』という歴史が与えられた。つまり、それが代償ってことなんだと思う」


 言葉が出なかった。いろんな感情がごちゃ混ぜになる。今になって、僕の知る橘を前にして、僕は何を言うべきなのかわからなくなっていた。


 再び、静寂が訪れる。


 ……あるいは、今こそチャンスなのかもしれない。

 バクバクと、心の蔵が叫んでいる。

 今しかないぞ、平井真、と。


 長い時を経て、僕の知る橘に会うことができた。

 あの日伝えられなかったことを伝えられるのは、もしかしたら今しかないのかもしれない。


 ──だというのに、また逃げるのか?


 ──今逃げたら、お前は次も逃げるぞ。次の次も。その更に次も。そうして全てを喪ってからいうのだ。『やり直せたらな』って。


 それはただの一度きりのチャンスだった。


 言え。今言えと、脳裏で誰かが叫んでいる。

 やがて高鳴る心臓を意識しながら、しばしの沈黙を破るようにして、僕はその三文字をどうにか絞り出した。


「……好きだ」


 びくりと橘が肩を震わせた。

 余りにも場違いな告白だったと、自分でも思う。

 でも、どうしようもなかった。溢れてくる想いを抑えきれなかった。その一言を告げるために、僕は9年も待ったのだ。


「……また、怪我するかもしれないよ」


「かまわない」


「……これから、たくさん迷惑がかかると思う」


「いいさ。どんどん頼ってくれたらいい。僕にできることなら」


「……いっぱい、いろんな人に人殺しって言われた。私とつるんでいると、真くんまで何か言われちゃうかも」


「気にするもんか」


 橘は涙で顔をくしゃくしゃにしながらぽつりと呟いた。


「私と一緒にいると、たぶん、不幸になると思う」


「……それでもいいよ」


 地獄は見てきた。あの、腐敗と堕落だらくまみれた5年間に比べたら。少しの障害なんて、ハードルにすらならない。


「軽々しく幸せにするなんて、僕には言えない。僕はなんにも持っていないから。

 ……でも、橘と一緒なら、不幸でも、辛くても、やっていけると思う。

 僕は君のために。君は、僕のために。お互いのために、生きていきたい」


 次の瞬間、橘が僕の胸に飛び込んできた。左手を背中に回してとんとんと叩くと、彼女は僕の胸に頬ずりした。とても懐かしい匂いがして、目頭が熱くなった。


「……大好き」


「うん、僕も」


「だめ。ちゃんと言って」


「……好きだよ、橘」



 しまいに、橘が僕を押し倒した。ベッドのスプリングが軋む。全身の柔らかさが感じられた。僕に体重を預けたまま、橘は両足をバタバタとさせた。


「──ねえ、キスしよっか」


 男女が逆だな、と心の中で苦笑いしつつ、僕は目を閉じてそれを受け容れる。

 一秒と経たず、唇が塞がれた。それは、長くて深い、僕たちの大きな溝を埋めるようなキスだった。


 涙の塩辛い味がいかにも僕たちらしくて、思わず笑ってしまう。

 口でするのは初めてだな、と僕は心の中で感想をこぼす。


「……ファーストキスだな」


 僕が呟くと、橘は体を重ねたまま首を振った。



「え?」


 思わず動揺して間抜けな声が出る。

 橘が、僕の唇に人差し指を押し付ける。


「……さっき、寝ている間にしちゃった」


 イタズラが成功した子供みたいに、橘は笑った。



 ***


 僕が運び込まれてから目を覚ますまで5時間、橘は僕に付き添ってくれていたらしい。目覚めてから程なくして面会時間が終わり、橘は名残惜しそうに帰っていった。


 顔の痛みは引いている。救急車で運ばれたのが早く、処置も迅速だったようだ。左手で触ってみると、腫れもほとんどない。

 よかった。橘にこれ以上の恥を晒さなくて済んだらしい。


 二日間の経過観察の後、右手の傷は自宅療養することとなった。なぜか夏樹さんが迎えにきて、僕たちは橘の祖母の旧家に向かった。


 橘の強い希望もあって、当初の予定通り、残る二週間の夏休みを僕たちは二人きりで過ごすことになったようだった。



 ***



 ちりん、と風鈴の音が鳴った。木造二階建ての家は、木と、蚊取り線香の匂いが混じったなんとも言えない匂いに包まれていた。

 祖母は二年ほど前に亡くなったらしい。

 その後、主人のいないまま、家を取り壊すのも忍びなく、このまま放置されていたそうだ。

 もっとも、中は時折掃除に来ているようで、多少木張りの廊下に埃がたまっている程度だった。



「真くん。はい、あーんして?」


 二人だけの夏休み。右手の自由を奪われた僕を介護するのを橘はやけに楽しんでいた。


「流石に、それじゃそうめんは食べにくいと思うよ」


 苦笑する僕に、橘はむっとする。


「じゃあ、あとで林檎剥いてあげるから。それなら食べてくれる?」


「うん、喜んで」


 林檎ならそれこそ左手でも余裕だったけれど、僕は首肯する。



「紫苑には感謝してもしきれないな」


 林檎を口に運びながら僕がそう呟くと、橘は「誰?」と聞いてきた。


 おかしい。橘も何度も会っているはずだ。お世話になったクラスメイトだと説明すると、橘は「そんな人知らないよ」と答えた。


 これは後になってからはっきりしたことだけれど、茨紫苑という女の子は、僕以外みんなの記憶から綺麗さっぱりと消えていた。

 橘はもちろん、加瀬からもだ。電話をしてみると、彼は知らないの一点張りだった。


 紫苑の功績は、あろうことか全て僕のものになった。テスト対策で大学ノートに書き込まれた二日分の授業内容は、僕の汚い筆跡に変わっていた。


「……なあ、橘。井上恵って知ってるか?」


 僕はふと気になったことを問いかけてみた。


「……知らない」


 アヒルみたいに口を尖らせて、橘は答えた。確かに、二人きりなのに別の女の子の名前を出した僕が悪かったかもしれない。

 ヤキモチを妬いた橘が二人分、二回のキスを要求する。僕はそれに応じた。



 三度目と四度目のキスは、林檎の果汁の味がした。



 ***



 そうして僕たちは結ばれた。9年と少しの時を経て、ようやく僕の初恋は実った。

 橘と過ごす二週間は、あの日失ったはずの青春を取り戻すかのように、頭にこびりついた思い出を簡単に上書きしてしまうほどの濃密で幸せな時間だった。


 しかし忘れてはならない。この夏の物語には、まだ多くの謎が残されている。

 その全てが解けたのは、夏休みの延長戦とも言える日であった。



 ***



 9月1日、日曜日。夏休み最後の日が訪れる。

 この日を橘と無事に迎えられたことに心底安堵する。しかし、生憎にも、天気は雨だった。


 日付が切り替わった深夜、橘が寝静まったあと、僕は何となく縁側に座る。ぽつぽつと降る雨の中。星空が雨雲に隠れた中でも、満月だけがぽっかりと輝いていた。

 思えば遠くまで来たものだ。

 僕は意味もなく、その月をずっと眺めていた。


「……月が綺麗ですね」


 ふと、夏目漱石が説いたその言葉を口にしたのは、僕ではなかった。

 振り返る。橘はすやすやと眠っている。寝言という線も考えにくい。


 だとしたら。



「──こんばんは。平井真さん」


 お久しぶりです、と彼女は続けた。


 あれもちょうどこんな暗い雨の中だったな、と僕は思い出す。

 モノクロの世界から飛び出してきたかのような深い紺色のセーラー服に、赤いリボンタイ。

 あの日と違って、今日は透明なビニール傘を差していた。



 思えば、彼女の到来を、僕は心待ちにしていたような気がする。



「……雨女か」


 紫苑はくすりと笑った。


「わたしのこと、裏ではそんな風に呼んでいたんですね。いつもみたいに、親しみを込めて紫苑と呼んでくれてもいいんですよ」


「君だって、僕をさん付けで呼んだじゃないか」


「そういえば、そうでしたね」


 沈黙が訪れる。無言のまま、傘を閉じて紫苑は隣に腰かけた。

 僕はもう一度振り返って橘の方を見た。起きる様子はない。


「……聞きたいことが、いくつかある」


「ええ。何でも答えましょう」


 紫苑の了承を得ると、僕はやや時間をかけて言葉を選ぶ。


「……どうして、僕たちをここへ連れて来た?」


 そう。

 結局のところ、雨女──茨紫苑にどんな怪異が起こせようとも、それを無条件で僕たちに振るった理由がわからない。ただの気まぐれにしては規模が大きすぎる事象だ。

 つまり、彼女にとって、僕と橘が結ばれる利点について。


 紫苑はたっぷり10秒ほど勿体ぶって、それから、したり顔で言った。



「……?」



 そう微笑んだ彼女。初めて見た柔らかい笑顔は、相も変わらず橘にそっくりだった。

 その顔を見て、ようやく僕は得心する。

 ああ、それで、僕に似ていると。


「……ひょっとして、君は」


 告げようとした僕の唇を、紫苑の指が制した。


「それは、わたしの口からは言えません。わたしがそれを言ってしまったら、タイムパラドックスが起きるかもしれませんから」


 よくわからない単語を聞き流し、僕は自らの不甲斐なさに、天を仰いだ。


「……はは。僕は、娘に背中を押されて、やっと恋を成就させられたわけだ」


「あなたの本来歩む歴史は、あなたが落雷で死を迎えたあの世界です。それに、同年代の男の人に、娘とか言われるとむず痒いのでやめてください」


 紫苑は苦笑していた。この雨の音を聞くたびに、僕は彼女を思い出すのだろうな、と思った。

 僅かに沈黙があって、僕はもう一つ気になることを口にする。


「……井上恵という女の子は、本当に実在していたのかな」


「ああ。安心してください。彼女はわたしのアバターです。加瀬拓哉さんを含めた、あなたの交友範囲の友人たちの記憶をいじり、タイムカプセルを歪め、あなたに懐疑心を抱き、誘惑を試みたのもわたしです」


 はあ、と思わず溜息をつく。あばたー、とやらが何かはわからないけれど。やりたい放題じゃないか。


 本来、この世界で平井真と橘桃華が結ばれることはなかった。

 けれど、紫苑がなんらかの細工をして、彼女の誕生する未来を確定させた。

 多分、そういうことなのだろう。


 その答え合わせを、僕は自分が想像していた以上にあっさりと受け入れていた。


「他には何か?」


「……君の本当の名前はなんなんだ?」


 茨紫苑という名前が偽名であることは言うまでもあるまい。茨──薔薇の意味も持つこの姓は、僕の母親の旧姓にあたる。思えばこれもヒントだったのだ。だとしたら、紫苑はどこから来たのだろう。


「さあ。それは、お父さんかお母さんに決めていただかないと」


 むず痒い思いをしながら、僕は思考する。もしも、その決定権が僕にあるとしたら。


「……じゃあ、わたしはそろそろ」


 彼女はそう言って、最後に後ろに振り返った。そこで幸せそうに眠っているのは橘だ。彼女にとっては若く映るであろうその姿を、紫苑は名残惜しそうに見ていた。


 ややあって、ついに彼女は立ち上がる。雨滴が制服を避けるように弾かれる魔法が見えた。

 歩いていく紫苑の背中を見送る。

 ふと、2001年頃、僕が腐っていたあの時に知った、とあるミュージシャンの名前が浮かぶ。

 同じくミュージシャンである父親曰く、「突然変異」の意味を持つ『ミュータント』をもじったその名前は、確か。


「──美雨みう


 その名を呼ぶと、少女はぴくりと反応した。


「また会おう。きっと、数年後に」


「──はい」


 その小さな返事にはきっと、いくつもの想いが込められていた。

 そして、僕が瞬きした次の瞬間、彼女は目の前から消えた。ぽつりと雨が止む瞬間を、僕は見た。


 次に彼女がこの世に生を受けたとして、それは僕の知る彼女ではないのだろうな、となんとなく思った。



 ポケットから長方形をした手の平サイズの、板チョコのような薄い板を取り出す。


「返しそびれたな」


 未来におけるひみつ道具。きっと数十年後に誕生する新しい携帯電話、スマートフォン。結局、あの事件の際に警察を呼ぶことくらいしか役に立たなかった。

 いや、もしかしたら、あれこそが重要なターニングポイントだったのかもしれない。


 わざわざ未来から両親の恋路を手伝いに来るなんて、僕と違ってかなりの親孝行者だ。


 ふと、画面に触れてみる。スマートフォンはひとりでに起動し、何かの画面を映し出した。


「……そういうことか」


 液晶の向こうには、花があった。放射状に伸びる綺麗な紫の花。

 画像の下には注釈がついていた。


 紫苑の花言葉。『あなたを忘れない』『追憶』『遠くにいる人を想う』『思い出』。



 雨上がりの静寂の中、僕は今一度橘の方へ振り返る。僕は立ち上がって彼女に近づき、なんとなく左の頬にキスをした。

 眠り姫はくすぐったそうに顔を綻ばせる。願わくば、この小さな幸せが永遠に続きますように、と。



 ふと、橘の手のひらに、紫の花弁が握られていることに気付いた。

 涼しい風が流れる。ちろりんとまた風鈴が鳴って、今も彼女はどこからか見守ってくれているのだな、と感じた。



 将来産まれてくるであろうあの子には、真っ先に、花の名前を教えようと思う。

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