#05 こころを繋ぐ手紙
早朝。
珍しく智花とほぼ同時に目を覚ました僕は、二人で手分けしてささっと弁当を作ると、早々に出発した。
行き先は決まっている。バスに乗って橘のマンションに向かった。しかし、眠そうな顔で出迎えた夏樹さん曰く、もう学校に出発してしまっていたらしい。
避けられているな、と思った。無理もない。この間拒絶されたばかりなのだから。
けれど、これぐらいで諦めるわけにはいかない。たとえ橘が事件のことを知ったとして、その上で乗り越えてもらう方法をひねり出すしか無い。
学校に到着して自分の席に座ると、机の中に橘に渡したノートが入っているのを発見した。
なんとなく中身を見ると、ありがとうございました、というメモ切れが挟まっていた。これをやったのは紫苑だから、彼女に伝えておこう。願わくば、彼女の成績もよくなりますように、と。
テストは明日から始まる。第四週なので土曜日は休みとなり、金曜から翌週の木曜まで計五日間行われる。そして来週からは七月だ。
僕は教室内を見渡してみる。まだ早いがちらほらと生徒がいた。勤勉にテスト勉強している奴もいれば、下敷きを団扇代わりに扇いでいる奴もいた。橘は机で何をするでもなくじっとしているようだった。
僕が声をかけあぐねていると、気が付けば予鈴がなって担任が朝のショートホームルームを始める。
「知っての通り明日からはテストだ。各自、復習はきっちりな。土日を挟むからって、終わってもだらけるんじゃあないぞ。赤点者は夏休みに補習もあるからな」
気だるげに話す里森に、クラスメイトたちがえー、と負の歓声をあげる。僕も補習で無駄な時間を使うわけにはいかない。
一日の授業を終え、結局その日橘と話をすることは叶わなかった。
テスト期間はさらに慌ただしい。
中学と違って一日あたりの教科数は少ないが、合間の休み時間は多くの人が教科書やノートを広げてギリギリまで最後の追い込みをかけていた。当然、周りに人のいない橘も、穴が開くくらい机の上を睨んでいる。僕も目の前の試験に集中することにした。
夏は始まったばかりだ。まだ時間は残っている。
焦る必要はない。
「平井くん。ここ、どうしてもわからないんですけど」
テストの合間の僅かな休憩時間、紫苑が不明な点を聞いてきた。そういうのはできれば直前じゃなくもっと余裕を持って聞きにきて欲しかったものだけれど、僕がてきぱきと教えるとなんとか理解してくれたようだ。
人にものを教えるということは、そのままその物事の復習にもなるのだな、と僕は知った。
一日あたり二から三科目の試験を終え、加瀬と買い食いをしながら下校する。七月の第一週は、概ねそうして終了した。
***
七月八日。週明けにテストの返却があった。
橘は、再び学校に来なくなった。
「里森先生」
放課後、僕は担任の里森に声をかけた。ある申し出をするためだ。
「ん、どうした平井。俺の採点に間違いでもあったか?」
「いえ。試験の話ではないのです。……橘の試験結果と、それから保護者向けの配布物。よければ僕に届けさせてください」
僕は単刀直入に言った。
「橘か……わかった。助かるよ。くれぐれも中身は見るなよ。糊付け剥がすとバレるからな」
「わかってます」
里森はやや葛藤したようだが、最終的には申し出を受け入れてくれたらしい。散らかった机から資料を集め、封筒にまとめた。これでいい。何でもいいから、橘に会う口実が欲しい。
──あの頃のことを思い出す。
A4サイズの封筒を受け取りながら、僕は幾度目かもわからない思い出に浸る。
宝物、あるいは宝石か。僕は当時の記憶を病的に神聖視していた。
結局のところ、橘本人に当時の記憶があろうがなかろうが、僕の初恋の相手は橘桃華で、同時に今僕が好きなのも彼女に他ならないのだ。
例のマンションにやってきて、以前と同じく数分ほどエントランスで待ち、出てきた人と入れ替わるようにマンション内に入る。今度は五分ほどで入ることができた。エレベーターに乗って10階を押すと、いよいよ緊張が押し寄せてくる。
心臓の高鳴りを落ち着けるように深呼吸をしていると、やがて軽々しい音とともにエレベーターが停止する。開いた先には、橘のお姉さんがいた。
「……あれ、また来たの」
夏樹さんは珍しいものでも見るかのような目で僕を一瞥した。
「こないだ、桃華に突き放されてたでしょ。いいメンタルしてるわ、あんた」
「……どうも」
横を通り過ぎようとすると、腕を掴まれる。振り返ると、夏樹さんは言った。
「桃華はいないわよ」
「……どういうことですか?」
「どうもこうも。あの子、昨晩飛び降りたのよ。近くに海があるでしょ。そこの崖から」
「……は?」
思わずそんな声が出た。夏樹さんは今なんと言った?
自殺の二文字が脳裏を席巻する。雨女の言葉がじわじわと思考を蝕んでいく。冷や汗をかく僕をよそに、夏樹さんはふう、と息を吐いて続けた。
「……安心して。桃華は生きてるわ。今は病院にいる。波に押し流されて、飛び降りる瞬間を目撃したランニング中のご婦人が駆けつけて助けてくれたみたい。右手と左足を骨折してて、全治1ヶ月ぐらいで治るらしいわ」
「全治、1ヶ月……」
それでは、橘は8月の上旬頃まで病院で過ごすことになる。
「お見舞いに行きたい、っていうなら、病院教えるけど?」
「……教えてください」
迷うことなく言った。
僕は彼女を助けなければならない。
***
手術は終わったものの、意識はまだ回復していないらしい。
市内の総合病院の二階。清潔すぎる白に包まれた空間。面会手続きを済ませた僕は、ベッドの上で眠り姫みたいに微動だにしない橘の横で、パイプ椅子を引っ張り出してそこに座った。
綺麗な横顔に、小さな傷跡がある。おそらく飛び込んだ際に岩か何かで切ったのだろう。患者衣から伸びる手足にも傷や打撲の痛々しい跡が残っていた。言われていた通り、右手と左足にはそれぞれ包帯とギプスがしてあり、その凄惨さが伺える。
──僕も、あの時自殺を考えていた。
それがどれだけ愚かしいことだったのか、ようやく正しく認識する。
死は何も生まない。死は、ただの死だ。それを一番わかっているのは、僕だったはずなのに。
なんとなく、橘の頰の傷跡を指でなぞってみる。本当に血が通っているのか心配になるくらいひんやりとしていた。
ともかく、橘が無事でよかった。
今は、それを喜ぼう。
***
「とうとう夏休みですね」
七月十九日。一学期の終業式が終わり、大掃除をして解散となった。一息ついた後、紫苑が話しかけて来た。
「ああ……」
「テンション低いな、真。これから自由だってぇのによ」
加瀬に肩を叩かれ、適当に手を払う。
「ずばり、橘さんのことでしょう」
「入院してんだっけ? 一足早い夏休みか」
「……」
何気ない一言に、僕は腹を立てる。けれど、それを表に出すわけにはいかない。
加瀬は悪くない。彼女が自殺未遂を犯したことは、ほんの一握りの教師と、そして僕しか知らないことだ。
「……夏の終わりって、いつだと思う?」
ふと、僕はそんなことを問いかける。
つまり、期限のことだ。
雨女は言った。夏の終わりに橘は自殺すると。
だが、実際はそれよりも早く実行された。けれど、橘は命を落とさなかった。
今度は上手くやる、ということなのだろうか。
「夏の終わり……やっぱり、八月三十一日じゃないですか? 夏休みの終わりですし」
「紫苑ちゃん、カレンダー見てないの? 今年の夏は、九月一日が日曜日なんだぜ」
「あ、そうだったんですか。一日伸びるんですね。やったあ」
無邪気に喜ぶ紫苑をよそに、僕は思考を巡らせる。
紫苑が雨女と瓜二つの容姿をしているからといって、あの雨女と中身が同じだとは断言できない。身に纏う雰囲気も声色も違う。演技をしているのだとしたら相当のやり手だろう。けれど、彼女からそれを聞いた時、僕はすとんと納得したような気分だった。
期限は、九月一日。
橘が海に飛び込んでから、既に約三週間。数日後に意識は回復したものの、目を覚ましたと聞いても、僕は未だ会いに行けていない。
期限まで四十日と少し、か。
「あ、平井くん。よかったら橘さんのお見舞いに行きませんか?」
紫苑のその提案は願ったり叶ったりだった。僕がちらりと加瀬の方を見やると、彼は「しょうがねぇな」と悪態をつきつつも、嫌がってはいないようだ。
そうと決まれば話は早い。僕たちは早々に帰り支度を済ませ、バスに乗って市内の総合病院に向かうことにした。
***
「あ、ごめんなさい。私、学校に宿題の忘れ物したかもしれません」
バスに乗る直前、紫苑はそんなことを言った。
夏休みに入るとなると、忘れ物は深刻だ。
「マジか、一旦取りに戻るか?」
加瀬がそう問いかけると、紫苑は首を横に振りながら、
「いいえ、せっかくここまで来たんですし、お二人で行ってあげてください。ほら、多分、平井くんは一人だと心細いと思うので。お願いしますね、加瀬くん」
「そっか。んじゃ、夏休み中に遊びに誘うかもしんねーけど、また二学期な」
「……じゃあまた」
加瀬に続いてぎこちなく挨拶を交わし、僕と加瀬の二人でバスに乗る。空調が効いていて、炎天下の中歩いていた間にかいた汗はぴたりと引いていった。
「どうしてあいつにこだわるんだ?」
「……別に」
「それよりも、紫苑ちゃんみたいな子の方が従順だし可愛げあるだろうに」
「なんで紫苑の名前が出てくるんだ」
適当に返すと、加瀬はなぜか肩を竦めた。
「はあ。気付いてねえか。紫苑ちゃんな、あれはお前に気があるぜ。授業中の4割ぐらいはお前の方を見てっからな」
そんな馬鹿な。それは好意というよりは、監視に近いんじゃないか、と僕は心の中だけで呟く。
「つーか、なんかお前ら似てるんだよな。顔……いや、表情っつーかよ」
「はあ?」
加瀬は暇さえあれば、中身のない適当な話を振る奴だが、今日の彼に至っては本当に訳がわからない。
「あの子の無表情になる瞬間見たことあるか? ありゃ、お前にそっくりだぜ。そういう意味でもお似合いっつーか……ったく羨ましい奴だ」
だいたい、似てるといえば紫苑と橘の方が似ているだろう。二人とも可愛らしさと綺麗さという方向性の違いはあれど、生き別れの姉妹……いや、従姉妹と呼べる程度には似ているといっていい。
これは雨女の嫌がらせなのか、はたまた……。
適当な雑談をしていると、一つのバス停に停車した。まだ降りるには早いが、なんとなく乗り場に目を向けると、そこには予想だにしない人物が立っていた。
「「あ」」
目が合った。同時に声が出た。彼女は目を輝かせながら乗車し、僕たちの前までやって来るとこう言い放った。
「真君! それに拓哉君もいるじゃない。久しぶり!」
「……恵? なんかめっちゃレアじゃね?」
唖然とする僕をよそに、恵と加瀬は再会を祝して変なポーズを取り合っていた。
……ややこしいことになった。
しかし、なるほど。僕と旧知の仲ということは、同時に加瀬とも長い付き合いということになるのか、恵は。
「真君たち、今帰り? このバス、二人とも家の方向と違ったよね?」
「俺ら、これからクラスメイトの見舞いに行くんだよ」
僕が答える前に、やたらと得意げに加瀬が言った。
「へえ、二人とも友情アツいんだね〜」
「いや、正確には真のツレの女の子なんだけどな」
「……そうなの? 真君」
以前の出来事が脳裏を
「……まあね」
「ふうん。あ、私もお邪魔していい? 実はお婆ちゃんが総合病院で入院してて。このバスに乗っているってことは、同じ病院だよね?」
断る口実が見当たらない。渋々僕は首肯する。恵は笑顔を浮かべると、首のリボンタイを緩めて空調の冷気を送るように手で扇いだ。
「ありがと。あー、やっと夏休みだね〜」
手すりに手首をひっかけながら、加瀬が気だるげに続く。
「ほんとだよ。まあ、俺はバイト入れまくってるから、あんま休みって感じじゃないんだけどさ」
恵と加瀬は親しそうに話していた。
前にも言った通り、僕は井上恵という女の子を知らない。
彼女に纏わる記憶は、『以前の僕』ごと『この僕』が上書きしている。変に会話に入ってボロを出したくない。
僕はなるだけ存在感を消そうと癖でポケットに手を伸ばす。けれど、今はウォークマンなど持っていないのだった。
それから程なくして、総合病院に着いた。内部はバスの中よりも空調は緩やかで、保健室にも似たアルコールの匂いが鼻腔をくすぐった。
体が緊張しているのを感じながら、受付で面会の手続きを済ませ、橘のいる病室へ向かった、
「こんにちはー!」
「おい、病院内では静かにしとけよ」
病室が近付き、僕が何を話すか考えていると、何を思ったのか恵はいきなり橘の病室に突撃した。
「ぇ……あ……」
当の橘も完全に唖然としている。広げていた本のタイトルはブックカバーで見えなかった。
「……やあ、橘」
目を合わせられたのは一瞬で、すぐに橘は目を伏せた。沈黙する病室の中、カツカツとローファーの靴音を鳴らしながら、恵がベッドに近付いていった。
「初めまして。私、井上恵。真君とは小学校でずっと一緒だったの。あなたは?」
「え……?」
「おい、俺の存在は」
まずい。
恵のペースに飲まれている。
僕は意を決して口を開いた。
「悪い。二人とも、ちょっと席を外してくれないか」
「ん、おう」
「……はぁい」
加瀬たちの退室を見届け、僕はパイプ椅子を手繰り寄せてベッドの隣に座った。
何を話そうかと考えていて、けれど、何も思いつかない。
あの頃は、なんでも話せた。どうでもいい話に大笑いして、いたずらに服にカエルをくっつけたりして怒られては謝って、先の暗い将来を忘れるように、ひたすら今を楽しんでいた。
けれど、今はどうだ。
少なくとも、橘に病気による死の気配はない。今回の自殺未遂を除けば、未来は明るい。
だというのに、肝心な部分が抜けている。
それは僕と橘を繋ぐ糸だ。
根本的に、文字通りの意味で、僕と彼女では住む世界が違うのだ。
橘の方を覗き見ると、顔の傷はもう治っているようだった。けれど、未だにギプスで固定された腕がまだ痛々しい。
「…………、」
「……昔、一度だけさ。僕も重い病気にかかって入院したことがあるんだ」
下を向き続ける橘に向けて、僕はぽつぽつと話し始める。
「その時、橘が毎日見舞いに来てくれたんだ。勉強はわかる? とか、寒くない? とか言ってさ。これは今でこそ言えることだけれど、ここには何もなくて暇だっただけに、とてもありがたかった」
語りかける思い出に意味はない。
目の前にいる橘は僕の知る橘とは別人だ。
けれど、だからといって、今目の前にいる橘をこのまま見殺しにすることなんてできない。
あの日、陰っていた日々に彩りをくれた橘に、恩返しができるとしたら。
それは、きっと今だ。
「……なに、それ」
「…………」
「……そんなの、私知らない」
そうだろうとも。もしも彼女に記憶があったとしても、やはり同じ反応を返すことだろう。なにしろこれは、僕ですら知らない作り話なのだから。
気休めでもなんでもいい。記憶がないなら関係ない。とにかく今、橘を元気付けたい。そのためなら嘘だって厭わない。そう決意した。
「無理して思い出す必要は、ないと思う」
「…………」
「……今日は、帰って。お願い」
啜り哭くような声が辛うじて聞こえた。僕はそれ以上、何も言えなくなった。
「……わかった。また来るよ」
僕は立ち上がり、足音を殺しながら病室を出た。
「おお、橘どうだった?」
「まだ調子はよくないみたいだ」
出迎えたのは加瀬だけだ。恵はどこへ行ったのだろうか。
「ふうん。ああ、恵は、ばあちゃんトコに行ったよ。多分長引くだろうから、早めに済んだら先に帰ってくれってさ」
「……そっか」
彼女に顔を合わせなくていいのは、気が楽だ。
今日は一歩を踏み出せた。それでよしとしよう。
「じゃあ……帰るか」
家に戻ると、智花が何やら慌ただしくしていた。ワンルームの一部に衣類が積み重なっており、周辺にはバスタオルや歯磨きセットや水着やしぼんだ浮き輪や小さな水鉄砲が並べられている。
「智花、どうしたんだそれ」
「……? お兄ちゃん、お父さんから何も聞いてないの?」
「親父から? ……いや、なにも」
「明日の昼から旅行行くらしいよ。私も昨日聞いたんだけど。ほんといつも急だよねー」
旅行。
耳に捉えたその単語が、頭の中でぐるぐると廻る。
得体の知れない何かが蘇る。
強烈な赤が脳裏でフラッシュバックされる。
ハンマーで叩かれたかのように頭が衝撃を受け、思わずその場に膝をついてしまった。
全身から冷や汗が吹き出た。
「ちょっとお兄ちゃん、どうしたの!?」
「……ダメだ」
「なに? どこか痛いの?」
「旅行はダメだ」
「……お兄ちゃん?」
小首を傾げながら智花が眉をひそめた。僕は思わず声を荒げて──。
「旅行に行ったらダメだ!その先で親父と智花が──、ぐ」
ぐちゃりと。
なんの前触れもなく首が掴まれた。
いいや。錯覚だ。でも呼吸ができない。喉仏を押し込まれたような苦しさが永遠にも感じるほど続く。ペナルティか。じわじわと吹き出す汗の気持ち悪さよりも、熱と痛みでどうにかなりそうになる。
「く──ぁ」
「ちょっと、お兄ちゃんってば!」
智花が慌てて僕の背中をさすった。違う。ものを詰まらせた訳じゃない。これはただのペナルティだ。じきに収まるはずだ。
今度は意識を飛ばさずに持ちこたえた。喉を抑えながら深呼吸を繰り返す。得物が首に刺さっている様子はない。もちろん、誰かが僕の首を締めていた形跡もない。
「本当に大丈夫……?」
智花が差し出してくれたコップ一杯の水を飲み干した。
「ああ、ちょっと、唾が気管に入っただけ。……とにかく、旅行はやめよう。親父にもそう伝えてくれ」
「えー、なんで? 行こうよぉ」
智花が甘えた声を出しながら僕の腕を引っ張る。
僕の歩んだ歴史と異なるこの世界において、智花と親父が事故に巻き込まれ死亡するという確かな保証はない。けれど、仕方がないじゃないか。二度とあんな思いはしたくないと、誰だって思うはずだ。
あるいは、今度は僕の番なのかもしれない。ぬけぬけと甘ったれた世界へやってきた僕に、死神が鎌を担いでやってこないと、誰が言い切れるだろうか?
「……明日、僕とプールに行こう。それで手打ちにしてくれ。頼むよ」
「……わかった。お兄ちゃんがそう言うなら」
その後、親父にも電話をした。言葉を選びながらの説得は困難を要したが、連休早々の車での外出は、一斉に出掛けた他のペーパードライバーの存在もあって事故に遭う可能性が高いというでまかせを信じこませ、事無きを得た。
幸いにも、僕がかつて経験していた通り、行き当たりばったりの旅行で宿泊先は予約どころか決めてすらいなかった。
正直、一日足りとも無駄にはしたくないけれど、こうして智花と遊ぶことだって、本来は叶わないはずだったのだ。
心のリフレッシュも兼ねて、明日は思い切り遊ぼう、と思った。
夏休み初日というだけあって、プールはかなりの数の客で賑わっていた。晴天に晒された肌が眩しい。子供も大人も高齢者も関係なく、プールが人混みに埋まっていた。
「すごい人だねー」
パラソルを立てて自分の陣地を作る。智花は下に水着を着ているらしく、躊躇なく服を脱ぎながら言った。
ワンピースタイプの水着がよく似合っていた。僕はなんとなく照れ臭くなって、そっぽを向きながら答えた。
「初日だしな。あんまりはしゃいで迷子になるなよ?」
「もう、そんなに子供じゃないよ、あたし」
にっと笑いながら、僕の手を引いて智花とともにプールへ向かう。
浮き輪はいいのか、と言うと、今はいいや、と答えた。
加瀬や紫苑の奴にも声をかけようか迷ったけれど、智花に気を遣わせてしまっては本末転倒なので、僕たちは二人だけで来ていた。
たまにはこんな日もいいかもしれないなと思いながら、次の瞬間、智花に引っ張られてプールにダイブしていた。
***
そうして、気が付けば8月に突入していた。僕は課題をこなしたり、時たま加瀬や友達から遊びの誘いを受けたりして過ごしていた。
あれから、また橘には会えずにいる。
プールに行った翌日も病院に向かってみたところ、受付で弾かれた。どうやら誰にも会いたくないという。
けれど、そのまま放っておくことだけはできない。
手詰まりだ。
……そもそも、僕は彼女に会って、それからどうするつもりなんだろう。
最近、橘に会えば会うほど、その関係にヒビが入るばかりだ。
後悔をしないために僕はここにきた。
だとしたら、答えは決まっている。
僕には彼女が必要だと、それを伝えなければならない。
ふと、僕は夏樹さんに会いに行こう、と思い至った。
「マコちゃん、ちょっとぶりだね」
「どうも」
橘家のマンションを訪れると、夏樹さんもちょうど仕事が行き詰まり散歩に出掛けるところだったらしい。なんとなく職業を聞いてみると、駆け出しの商業作家をやっているようだった。
僕たちは街に出て適当な喫茶店に入った。飲み物を注文して、夏樹さんに相談を持ちかけた。
「橘……桃華さんに会いに行っているんですが、面会を断られてて」
「一昨日私が行った時は普通に会えたけど」
一昨日といえば、8月6日か。
ここまで露骨に避けられていると、僕も気が滅入ってくる。
「……そういえば、まだ退院できないんですか?」
「うん。骨折と怪我はほぼほぼ治って、歩けるようになったみたいだけどね。……今、自殺未遂患者の保護施設に入れるかどうか話し合ってるトコ」
「保護施設……ですか」
「もう一回やらないとは限らないからね。ま、保護施設なんかでどうにかなる問題でもないとは思うんだけど」
それは、困る。
もしも夏休みの間に会えないとなれば、結果どうなるか見当もつかない。雨女の言葉を丸ごと信用しているわけではないが、命を落とす危険性が高まるのは間違いない。
「ま、会えないっていうなら手紙でも書いたらいいんじゃない? なんなら、私が届けてあげるけど」
それは字書きを生業とする夏樹さんらしい提案であると同時に、僕にとってはまさに渡りに船といえる一言だった。
「手紙……」
手紙と聞いて連想するのは、やはり小六当時の記憶だ。
埃が溜まった記憶の奥底から、優しい手で宝物が掘り起こされる。まるで追体験でもするかのように、僕の意識はまたあの愛おしい時間に没入してゆく。
***
僕と橘には、文通をしていた頃がある。
ポケベルもまともに扱うことができなかった子供な僕たちは、小学校の卒業を控えた三学期ごろから、どちらともなく遠距離での連絡手段を模索していた。
僕が私立中学の受験に臨む数ヶ月前、1993年の1月22日。当時多くの中学受験希望者が既に四年生頃から勉強している傍ら、六年生の夏から受験レースに参加した僕は一歩も二歩も遅れていた。
死に物狂いで知識を吸収し、最終的に、僕はどうにかこうにか私立中学への切符を手にすることができた。
当然、三学期に入った頃から橘と一緒に過ごす時間は減ってしまった。初夏とは違って席が近いわけでもない。じっくり話ができるのは、毎週月曜日の『任務の日』か、昼休みや放課後、そしてそれ以外の日の下校時間のみ。そこで橘が提案したのが、文通だった。
「文通?」
僕がおうむ返しに聞くと、橘はいたずらを思いついた子供らしい笑顔を咲かせて言った。
「そう、文通。毎週月曜日、真くんは私のお家にプリントを届けてくれているでしょう?」
「うん」
橘はランドセルから便箋を取り出し、
「その時に、この手紙を渡すの。まず私が書いて、その内容についての返事を、週末に真くんが返してね」
「なるほど」
僕は便箋の束から数枚を受け取り自分のランドセルにしまった。二人で過ごす時間が削られるのは、僕だって辛い。嬉しい提案だった。
初めて送られてきた手紙は何度読み直したかわからない。内容を今でも覚えている。薄い桃色の便箋には、女の子らしい小さめな字でこう綴られていた。
"真くんへ。
会って話をするときよりもきんちょうしています。なんだか不思議だね。
今日は、ふだん真くんに言えない感謝の気持ちを書こうと思う。言っておくけど、恥ずかしいから学校では文通のやりとりの話はなしね。ちゃんと週末に手紙で返すこと!
えっと、まずは、毎週月曜日、プリントとか届けてくれてありがとう。最初に真くんが来た時びっくりしちゃった。いつもは先生が直接渡しにきてくれてたから、同年代の男の子がうちに来てくれるなんて思いもしなかったの。
それから、真くんとはすぐ仲良くなったね。病気のせいでなかなかクラスにとけ込めなかった私のとなりには、いつも真くんがいてくれた。
たぶん、いままでの学校生活の中で、六年生の今が一番楽しいと思う。
あと、修学旅行のとき、帽子で遊んじゃってごめんなさい。真くんは気にしてないって言ってくれたけど、風で飛ばされて失くしちゃったの、今でも反省しています。私が大きくなったら、かっこいいやつをプレゼントするね。
変な文でごめんなさい。自分で言っててなんだけど、実は手紙とか書いたことないんだよね。
とにかく、本当にありがとう。これからもよろしくね。
桃華より。"
今はもう消えてしまった手紙。
この世には決して存在しない手紙。
小学校を卒業し、『月曜日の任務』という軛から解き放たれても、僕たちの文でのやり取りは続いた。ただし、進学する学校が分かれたのを境に、「文通」は一冊の大学ノートによる「交換日記」に変わった。
僕たちの住んでいたマンションのほぼ中間には、塗装の剥がれが目立つ青い橋が架かっていた。へこんでボロボロになった立ち入り禁止の小さな看板を越えると、橋の下のコンクリートでできたスペースに侵入できる。小学校の卒業式のあと、僕は橘をそこに案内した。
橋の真下には、寂れたロッカーが一つだけ転がっていた。どうしてこんなところにあるのかはわからないけれど、ともかく、そこを『交換場所』とした。雨風も避けられて、人目につかない、絶好の場所だ。
私立中学に通うに当たって引っ越ししたことで多少遠くなったものの、橘との唯一の繋がりであるこの交換日記は、毎週の楽しみだった。このために勉強を頑張れた、といっても過言ではない。
けれど、橘の死後、最終的に僕がその日記に目を通すことはなかった。「橘の番」が来る月曜日、その日の朝に彼女はこの世を去ったのだ。
僕があの世界に残してきたものに未練があるとしたら。
それは、橘と交わした手紙と、そしてあの交換日記に他ならないだろう。
***
「文通……か」
「?」
突然ぽつりと呟いた僕に、夏樹さんは首を傾げた。
「……ありがとうございます、夏樹さん。手紙を贈ろうと思います」
「う、うん。まあ、出来たら教えてよ」
「あ、待ってください。これから便箋を買いに行って、すぐに書き上げますから」
僕の提案に夏樹さんは驚いたらしい。目を見開いた時の表情が橘とそっくりで、やはり姉妹なのだなと思いながら、僕は心の中で内容を考える。ふと、僕は文章中でのペナルティはどうなるのかと思い至る。
いいや、直接的な言葉を避ければ、伝え方はいくらでもあるはずだ。
個人経営の小洒落た文具店を見つけ、夏の暑さを忘れさせる涼しい青色の便箋を購入した。そのまま夏樹さんも引き連れて近くの市立図書館に移動し、僕は早速鉛筆で文字を書き連ねる。
書いては消していると、ぽつりと夏樹さんは言った。
「……マコちゃんは、どうして桃華にそこまでしてあげられるの?」
「どうしてって……」
……どうしてだろう。
ふつふつと、沸騰した泡のように疑問が浮かんでは消えてゆく。しばし考えて、やはり答えは一つだけだと思った。
「……、桃華さんが好きだからじゃないですかね」
「……じゃあ、最初からそれを伝えればいいんじゃない? あの子、友達とか全然いないから、喜ぶと思うよ」
夏樹さんは自嘲げに笑っていた。
友達がいない、か。
僕が手紙に向かったまま何と返すか迷っていると、彼女はこう続けた。
「今から、ちょっと嫌なことを言うね」
「……? はい」
夏樹さんに向かって僕が首肯すると、小さく溜息を吐きながら、彼女は懺悔みたいに話し始める。
「……できる妹を持つと苦労するものなのよね。あの子、私と違って見た目も頭も良いし。
知ってると思うけど、去年母親が銀行で襲われたことがあって、足が竦んで動けなかった私をよそに、桃華はそれを撃退したの。
……私は、何もできなかった」
それは、嫉妬とも取れるし、羨望とも取れる言葉だった。
「実を言うと、その後あの子が記憶喪失になったと知った時、やった、と思ったよ。ああ待って。怒らないでよね。今は思ってない。……当時の私はどうかしてた。私は大学受験があって頭がいっぱいいっぱいだったし、そのくせ昔から両親には優秀な桃華と比べられて、こころが参ってたのよ」
結局、進学を諦めて本を書いたら、たまたまそれが出版社にウケて作家になったんだけどね、と夏樹さんは続けた。
妹が姉に比べられて凹むと言う話はよく耳にするが、逆のパターンもあるのかと思い知らされる。確かに、僕も智花が実の妹で、そして母親もいれば、ずぼらな僕に文句の一つでも言われるかもしれない。
不躾に、夏樹さんの顔を改めて見てみる。玄関口にいるときは恐らくノーメイクで、たしかに橘に比べてしまうと全体のバランスは劣るかもしれない。けれど、こうしてお洒落をしている分には、橘にも引けを取らないぐらいには綺麗だと思う。
「……ごめんなさい。急に変なこと言って」
じろじろと見ていることをようやく自覚し、思わず僕は目を逸らした。
「いえ。僕も、家事とか万能の妹がいるんですけど、いつも頼ってばかりで、自分のダメな点なんてこれっぽっちも見ていませんでした。……それに比べたら、夏樹さんは凄いと思いますよ」
「……ありがと」
僕は再び便箋に向き直る。
癖でペン回しをしながら、思いついた内容を綴る。
内容は、あの時の焼き直しに近い。軽い挨拶から入って、僕は"橘への感謝"を書き記した。記憶喪失であるのなら、むしろ都合がいいともいえた。僕は普通なら小っ恥ずかしい言葉の羅列を文字に起こす。僕の中に眠る記憶を掘り起こして、最後には橘に僕の気持ちを伝えようと思った。
結局、記憶のあるなしなど関係はないのだ。
今ならあの日の質問にも答えるだろう、と僕は思った。
ボールペンで清書し、乾いた後に消しゴムで鉛筆の跡を消す。懐かしい気分に目頭が熱くなって眉間を抑えた。
完成した手紙を、丁寧に折りたたんで夏樹さんに渡す。
「恥ずかしいので、読まないでくださいね」
「そんなことするほど、私は腐ってないよ」
希望を込めた一通を託し、僕たちはそこで解散した。
帰り道。なんとなく散歩したい気分で、バスも電車も使わずに歩いていると、ぽつぽつと雨が降りだした。
しまったな。鞄の一つも持ち歩いていないから、当然折り畳み傘の類もない。
仕方なくバス停を探そうと歩き始めると、頭上で雨が何かに当たる、パラパラという音がした。
「……?」
「や、真君」
振り返る。そこに居たのは、私服に身を包み、開かれた透明のビニール傘をこちらに突き出している井上恵だった。
全身が硬直する。
僕に対して唯一懐疑心を抱く恵は、できれば顔を合わせたくない存在だ。
悟られないように静かに深呼吸してから、僕は言った。
「……偶然だね、恵ちゃん」
「……うん。三週間久しぶり。偶然ついでに、ちょっとお話ししない?」
「歩きながらでよければ」
「いいよ。私もバス停までだから」
「傘、持つよ」
「ありがと」
二人並んで雨の中を歩く。車道の脇に溜まり始めた雨水が、自動車のタイヤに薙ぎ払われていく。話題を振れなくて、僕はそんな光景を横目に見ていた。
雨といえば、やはり橘と紫苑のことが頭に浮かぶ。この平井真は恵ともこうして相合傘をした歴史があるのだろうかと、ふと疑問が浮かんだ。
「こうしてると懐かしくなるね」
「……小学生の頃の話か?」
小学校が同じ、ということを咄嗟に思い出し、僕は話を合わせる。
「うん。六年生の頃。急に雨が降った時、真くんが担任の原田先生に黙って職員室の傘を拝借して帰っては、すぐにバレて怒られていたよね」
「……懐かしいね」
僕にそんな記憶がないのは、もはや言うまでもあるまい。
僕からあれやこれやと思い出話をされる橘の気持ちが少しだけわかった。確かに、これはちょっとキツいかもしれないな。
……これからどうするべきか。とにもかくにも、夏樹さん待ちだ。期限はもうじき三週間になろうとしている。一刻も早く、橘を病院から出してやりたい。
「私、ここのバスだから。傘、あげるね」
「ああ、うん。……ありがとう」
気が付けばバス停の一つに到着していたらしい。けれど、方向は僕の家とは全然違う。時間をかければ着くだろうけれど、わざわざ恵と同じ場所で待つというのも気が引けた。
僕は簡潔にお礼を言って軽く手を振り、再び歩き始める。
暫く歩くと、雨が止んだ。
頭上の雨雲が消失し、青空が顔を覗かせる。遠くでは虹が架かっていた。
水を切って傘を畳み、夢中で虹を眺める。
あの虹の根元には何があるのだろうな、と思った。
***
アパートに帰り着くと、驚くことに、そこには紫苑がいた。
つくづく心臓に悪い。雨女か、はたまた紫苑なのか。身構える僕をよそに、彼女はにこりと微笑んだ。
「ご無沙汰です、平井くん」
「……久しぶり。どうしたの?」
どうして家を知っているのか──と考えを巡らせると、そういえば加瀬の奴と一緒に、一度僕の家で遊んだことがあったな、と思い至る。
「実はこの度遠くに引っ越すことになりまして。お別れの挨拶をしにきました」
「引っ越し? ……突然だな」
「はい。家の都合で。明日には発つそうです」
ずいぶん急な話だ。いいや、もしかしたら夏休みに入る前後あたりには決まっていた話で、打ち明けるのをためらっていただけなのかもしれないけれど。
「短い間でしたが、お世話になりました。橘さんのこと、応援しています」
「……ありがとう」
「これ、『御守り』です。出掛けるときは常に持ち歩いてください」
紫苑が右手を差し出す。そこにあったのは、見たこともないものだった。
もしや板チョコではあるまいなと思ったが、違う。それは長方形の、手のひらサイズの薄い板だった。厚さは1センチにも満たない。表はどうやら液晶画面でできていて、裏は樹脂か何かに見える。全体が真っ黒で、とても『御守り』と呼べる代物ではないように思えた。
「スマートフォン、と呼んでいます」
「スマート、フォン……」
聞いたことがない。何かの道具なのだろうか。
「……これを、身につけていたらいいのか?」
「はい。防水なので少々の水なら大丈夫ですが、持ったまま川や海はやめておいてくださいね。……それでは、お元気で」
紫苑はぺこりと小さく頭を下げると、踵を返して去って行く。最初から最後まで丁寧語の取れない奴だったな、と思った。
その後、御守りのスマートフォンとやらを軽く弄んでいたものの、使い方は全くわからなかった。薄い側面にはいくつかのボタンがあったが、どれもうんともすんともいわなかった。
名前を分解する限り、イヤフォンやヘッドフォンよろしくなんらかの機械や道具であると考えられるけれど、説明書もなしにこんなものを寄越されても困るぞ、と文句を言いたくなった。
なんの意図を持って紫苑がこれを僕に託したのかも、もはや推測の域を出ない。諦めて僕は学校から出されていた課題をこなして時間を潰していた。
手紙の返事が来たのは、それから三日後のことだ。
***
"明日8月12日、病院に来てください"。
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