#04 『この私』

 あれから、僕は半分放心したようにとぼとぼと帰宅した。どこを通ってどのように帰って来たか記憶にない。居酒屋の安酒で酔っ払っても家に辿り着いてしまうように、気付けば僕はアパートの玄関前に立っていた。


「おかえり、お兄ちゃん」


 いつものように智花に出迎えられる。その時智花は、花柄のエプロンを身につけていて、どうやら夕飯の支度をしているようだった。


「……どうしたの?」


 僕の顔を見て、智花はギョッとしていた。


「ああ……。いや、何でもないんだ」


「なんでもないことないでしょー、今日は特にひどい顔だよ?」


 まるで普段から酷い顔をしているとでも言いたげだな、と僕は智花の頭をくしゃくしゃに撫でた。

 正直、智花に話したところで解決には近付かないだろう。


 そもそも僕は、この5年間の逆行の事実を口外できないようになっている。あの日、紫苑を前にして走った喉の痛みは、もう二度と味わいたくないほどの苦痛だった。


「智花は好……気になる奴とかいるのか?」


「な、なに急に……」


 智花はそっけない返事をしつつ、目を逸らした。その顔はみるみるうちに赤くなっていた。どうやらいるらしい。


「いや、別に。ちょっと気になっただけだ」


「ふうん、気になったんだ……」


 智花に選ばれた男は、心底幸せなことだろう。なにせ中学三年の時点で一通りの家事がこなせるのだ。将来はきっといい奥さんになるに違いない。


 僕に選ばれた橘桃華は、果たして幸せになれるのだろうか。



 夏が終わるまで。

 それまでに、僕は橘の抱える問題を解消しなければならない。



 ***



「なあ、紫苑。それに加瀬も」


「なんですか?」


「俺はついでか」


「ちょっと来てくれ」


 翌金曜日の朝。早めに登校した僕は、二人を捕まえて屋上へ続く踊り場に連れ出した。



「わざわざ場所変えて、どうしたんだ?」


 加瀬の言葉に、僕は一瞬逡巡してから口火を切る。


「……橘のことで相談があるんだ」


 すると、加瀬はやれやれとでも言いたげに肩をすくめた。


「何を考えてるのかは知らんが、やめとけ。前も言ったが、知らずに関わらないほうがいい」


「それでも、なんとかしたい。昔、橘に何があった? いいや、彼女は何をしでかしたんだ?」


 最悪、動くのは僕一人でもいい。でもまずはその前に、僕の知らない、彼女の過去を紐解かなければならない。


 加瀬と紫苑は互いを見合わせた。どうやら紫苑も少なからず思い当たる節があるようだ。


「いいんじゃないでしょうか」


 紫苑は事もなげにそう言った。


「橘さんのことは、私も聞いたことがあります。曰く、彼女は──」


「おーい何やってんだ!屋上は立ち入り禁止だぞ!」


 紫苑が決定的な一言を放とうとしたまさにその時、運の無いことに、学年指導の教諭である萩原が廊下を通りがかった。


「すいませーん! すぐ教室に戻りまーす!」


 怒号に怯まず加瀬はそう返すと、「降りようぜ」と呟いて階段を下っていった。萩原先生もそれ以上何かを言うつもりはないようで、早足で去って行った。


「紫苑、さっき……」


「真。どうしても知りたいなら、放課後ちょっと付き合え」


 僕の言葉を遮り、加瀬は真剣な目付きでそう言い放った。紫苑は僕たちを一瞥すると、先に教室に向かって行った。


「……ああ。わかったよ」



 ***



 放課後。加瀬に連れて来られたのは、学校に附属する図書館だった。


「ほらよ」


 彼は図書館に保存されていた新聞から一つを抜き出し、一部をこちらに寄越した。

 それは、前年の秋頃に起きた強盗事件に関する記事の切り取りだった。


 銀行強盗殺人事件。

 1995年11月26日水曜日午後1時14分。地域警報が出るほどの大雨の日だった。37歳無職の男性が刃物を持って銀行に押し入り、客の二人を人質に取って現金を要求したという事件だ。


 読み進めると、この男は見せしめとして一人目の人質を刺殺し、もう一人の人質の女性を盾に再三金銭を要求したらしい。ところが、男は何かの拍子に刃物を落としてしまった際、人質女性の子供に件の凶器で刺され、そのまま出欠多量で亡くなったそうだ。


「……まさか、その人質の子供っていうのが」


「橘桃華だ、というのがもっぱらの噂だ。十中八九間違いないが、教師陣も知らんぷりだよ。

 強盗犯が執行猶予付の相当な前科者で一人殺したあとだったせいか、事件は正当防衛が認められて無罪になったみたいだけどな。

 ともかく橘はその時のショックなのか、それ以前の記憶を失くしてしまったらしい」


 殺人。

 想像以上の事柄で、僕は頭が真っ白になっていた。


「俺は、このことで橘のヤツをどうこう言う気はないし、お前にも思って欲しくない。だから、知らないならそのまま知るべきじゃないと思ったんだが」


「……いや。僕だって、それについて橘を軽蔑するつもりはないよ」


 親に刃物を向けられての人質強盗。

 更に言えば、見せしめとして既に一人が殺害されている状況だという。

 もし、犯人が刃物を取りこぼして、偶然それが自分の手の近くにあって、さらに偶然が重なって犯人がこちらに警戒していなかったとしたら。


 大切な人のために、手を伸ばせるのだろうか。

 橘はあくまで、親を助けるために無我夢中だったのだろう。

 

「……教えてくれて助かった」


「それを知って、どうするつもりだ?」


「決まってるだろ。……そんなつまらない理由で孤立しているなら、僕が彼女の友達になる」


 問題はどうやって彼女の心をケアするかだ。

 幸い明日からは土日で休みとなる。考える時間は山ほどある。



 けれど結局、二日で考えがまとまる事はなく。

 新たな問題は、その後容赦無く発生した。



 ***



「うーむ、今日も休みか」


 翌週の水曜日。

 担任の里森はホームルームで生徒の出席を確認する。しかし、今週に入って一人だけが欠席を続けていた。


 橘だ。

 彼女は、不登校になった。



「今日も来てませんね、橘さん」


 昼休み、自然と僕と紫苑や加瀬が集合する。それぞれ弁当をつついていると、ふと紫苑が橘について言及した。この間のことで、僕が橘のことを気にしている、と気付いているらしい。


 僕はもう、雨女の問題は隅に置いている。もしかしたら雨女は、この紫苑の体を借りている霊的存在なのではという疑念すら浮かんでいる。彼女が口を割らない以上、気にしても仕方のない話だ。今はそちらにリソースを割く余裕はなかった。


「病気じゃねーの」


 加瀬の言葉に、どきりとする。橘がこの世を去ったあの日の光景がフラッシュバックして、食べていたご飯を思わず戻しそうになった。


「……お見舞いに行かないと」


 僕は一人でに呟く。加瀬がやれやれという顔を浮かべ、紫苑は笑った。


「平井くん。よければ、これを持って行ってあげてください」


 紫苑が一冊の大学ノートを渡してきた。中身を見て、僕はその意味を察した。



 その日の放課後、橘の家に寄ることにした。自宅へ向かう途中のバス停から実家のある方面へ移動する。

 国道が事故で通行止めになってしまっていたので、僕は渋々途中で下車した。その近くには僕たちが通っていた小学校があった。橘との、思い出の場所だ。


 ふと、幸せな記憶が脳裏をよぎる。

 あれは僕たちが出会って半年ほどが過ぎたある日のこと。

 確か道徳かなにかの授業で、タイムカプセルを埋めた日の話だ。




「真くんはなんて書いたの?」


 内容は各々自由だった。未来の自分への展望を記している奴もいれば、季節外れの七夕みたく願い事を込めた奴もいた。僕は前者だった。


 ただただ橘の病気を治して欲しい。『大人になった僕は橘の病気を治せていますか?』という素朴な一言は、僕に呪いを残した。


 当然、元の腐った世界で、僕がそれを掘り起こすことはなかったけれど。


「世界は平和になってますかって書いた」


「あはは。へんなの」


「そういう橘はどうなんだ?」


「……ナイショ」



 イタズラが成功したように笑う彼女を思い起こしながら、僕の足は小学校の裏庭へと向かっていた。


「ここだ」


 校舎裏の小さな庭スペースは、久々に来てみれば物凄く狭く感じた。それだけ自分が成長したという証なのだが、主観的に見るとやはり驚かされてしまう。

 花壇にはたくさんのアサガオが植木鉢と一緒に並んでいた。おそらく、児童たちのものだ。


 僕はおぼろげな記憶を辿って埋めた場所に当たりをつけ、近くの倉庫からスコップを拝借して掘り始めた。夕方に差し掛かっているせいか児童は人っ子一人いないらしい。


 十五分ほど裏庭を穴だらけにすると、ようやく見つかった。タイムカプセルと言っても、アルミ製の和菓子の入れ物に、各々手紙を詰めただけのものだ。僕は土を軽く払いながら中を覗いてみた。懐かしい匂いがした。


 すぐに、僕の書いたものが見つかった。僕はいけないことだと思いつつも、橘の書いたそれを探してみた。しかし、何度確認しても橘のものはなかった。


「自分で回収したのかな……」


 その問題はさておき、僕はなんとなく、自分の書いた手紙を開いてみた。


 内容は覚えている。

 けれど、開いて愕然とした。


 そこにはこうあった。


めぐみちゃんとけっこんできますように』


「……なんだ、これ」


 一瞬、別の誰かのものと間違えたかと思ったが、裏には汚い字で僕の名前が書いてあったし、筆跡も僕のものにかなり似ている。もう一度、一つ一つ手紙を全て確認してみたが、橘のものはもちろん、他に僕の名前が書かれた手紙は見当たらなかった。ということは、この手紙はやはり僕が書いたものなのだろうか。


「……誰だ? 恵ちゃんって」


 僕が呟いた直後、背後でがさりと足音がした。


 心臓が飛び跳ねた。僕は咄嗟に手紙を抱えて振り返る。そこには見知らぬ女子高生がいた。年齢は、僕と同じくらいだろうか。


「……真君?」


 黒髪にショートカット。鼻がやや高く、日本人にしてはかなり整った顔立ち。背は女子の平均以上で僕より少し低いくらいだろうか。ともかく、名前も知らない彼女は、僕の名前を不安げに呼んでいた。


 そこで、僕はようやく再認識する。

 全ては加瀬の言う通りで。

 この世界は、僕が元いた世界とは致命的にズレているのだ、と。


「真君、だよね。覚えてる? 私、井上恵いのうえめぐみだよ」


 井上恵。

 そんな名前に心当たりはない。


「あ、ああ。……久しぶり」


 僕はぎこちなくそう言うと、井上恵と名乗った彼女はにこりと眩しい笑顔を浮かべた。


「すごい偶然だね。タイムカプセル……私もたまたま、思い出して見に来たんだ」


「……そっか。僕も近くを通って、なんとなく気になって」


 僕が掘り進めた穴から自分のものを見つけたらしく、彼女はそれを拾い上げて軽く砂を払いながら嬉しそうに言った。


「えへへ。やっぱり気が合うのかな、私たち。あ、そうだ。これから予定とかある? 折角だし一緒にお茶でもどうかな」


 予定はある。この後は橘に会いに行かなければならない。


「……ダメかなぁ」


 しかし、不安そうに呟く彼女の気持ちを、無下にすることもできなかった。


「いや、ちょうど暇してたところなんだ。……付き合うよ」


 僕は道中で見つけた公衆電話で家にいる妹に外で食べてくると伝え、街に出て喫茶店に入った。


「妹さんがいるんだっけ。何年生?」


「一つ下。中三だよ」


「へえ。学校は? 真君と同じところに来るの?」


「いや……そういえば、進学先は聞いたことないな」


「そっか。真君はどう? 最近、元気?」


「ああ。うん。……そっちは?」


「聞いてよ、期末のテストで、数学満点だったの。凄いよね?」


「それは、凄いね」


 心の底から賞賛の言葉が出た。けれどその裏で、僕は考えずにはいられなかった。


 もしも。

 『』がこの平井真を上書きしていたとしたら。


 かつてのこの体の持ち主の意識は、いったいどこに行ったのだ?


「真君は、テストどうだった……?」


「こっちはまだ。明後日の金曜日からなんだ」


「あっ、そっか。学校によって違うもんね」


 恵が着ている制服がどこの高校のものかはわからない。僕なんかよりも頭は良さそうだ。


「それにしても、会うのはほんとうに久しぶり。小六以来だから、4年振り?」


「もうそんなになるんだね。……なかなか連絡できなくて、ごめん」


 僕は適当に話を合わせる。もしもこの体の持ち主が、井上恵という少女に恋をしていたとしたら。今の状況は『』にそれを奪われたことに他ならない。


 今後、『』の意識がどうなるかはわからないけれど、彼女と良好な関係を続けた方がいいだろう、と思った。


「ううん。私の方こそ。でも、久し振りに会っても、気兼ねなく話ができるのが親友だと私は思うの」


「親友?」


「うん、親友」


 ……どうやら、彼女はに特別な感情を抱いている訳ではないらしい。


 話し込んでいると、ウェイトレスが注文したコーヒーなどを持って来た。恵はデザートも頼んでいたらしく、テーブルに置かれたフルーツケーキの匂いが僕の方にまで届いている。

 僕がそれを眺めていると、彼女は何を思ったのかこう言った。


「真君も食べる? はい、あーん」


「えっ、いや……いいよ」


「えー、遠慮しなくてもいいのに」


「ほら……もう子供じゃないんだしさ」


 尻込む僕の言葉に、彼女は儚げに笑いながら「そうだね」と返した。

 何か、よくない反応だっただろうか。


「ねえ、真君。……?」


 そうして彼女は、とんでもない爆弾発言を投下した。

 ──そうだ。

 ここに来て、妙な話であるが、僕はどうしてか安堵していた。

 この時間、前とは少し違ったこの世界に来てただ唯一。

 誰も知らぬ『』にただ一人だけ懐疑心を抱く井上恵との出会いに、僕は言い知れぬ安心感を抱いたのだ。


「──僕は、平井真だよ」


 どんな表情を浮かべているのか、自分でもわからなかった。

 どうしたって、それ以外の回答はない。


「……なんか、変わったね、真君」


「そうかもね」


 それきり会話はなかった。コーヒーなどを片付け、しばらくして恵は紙切れを取り出してこちらに寄越すと、「今日はありがとう、またね」と言って席を立った。テーブルに280円きっかり置いていくと、彼女は店から出て行った。


 僕は紙切れを見る。そこには恵のものと思しき家の電話番号と、そして住所が綴られていた。折り曲げてポケットに入れて、僕も席を立つ。

 自分から連絡することはないだろうな、と思いながら。



 暫く歩くと、橘の住むマンションが遠目に見えてきた。

 彼女は、『僕』の世界には、居ない。

 始めから接点などない。

 僕が語って聞かせた諸々の思い出は全て、頭のおかしい奴がでっちあげたウソの記憶に他ならない。


「……だからって、見捨てられる訳がないだろ」


 あの日、灰色がかった憂鬱な月曜日に初めて彼女の家を訪れたあの日。橘桃華に確かに救われた。渇いた人生に彩りと潤いをくれた。

 なら、今度は僕が助けなきゃ。



 高級マンションに立ち入ると、第一関門がある。

 橘の住むここは、セキュリティの一環として、部外者はまっすぐ入れないようにできている。基本的に、エントランスで機械に部屋番号を入力して家主に一階の扉を開けてもらわなければならない。


 橘の部屋にかけるのも一つの手ではあったが、文字通り門前返しされる恐れがあった。できれば玄関までは行きたい。

 僕は警備員からは見えない位置で辛抱強く待ち、しばらくすると中から腰を曲げた年寄りのお婆さんが杖をつきながら出てきた。僕はにこやかに挨拶を交わして入れ替わるように侵入した。


 エレベーターに入る。かつて、幾度も押した10階のボタン。けれどきっと、ここに僕の指紋が付くのはこれが初めてなのだろう。同じように、僕の頬に口付けされた事実はないのだろうなと思うと、心に雲がかかるようだった。


 1009号室に到着する。部屋が同じであることは、朝橘を迎えにいった日に確認済みだ。

 第二関門は、橘の家族が出て来た時の対処だろう。

 しかし、深く考えても仕方がない。僕は意を決してインターフォンを鳴らした。どこにでもある軽快な電子音が響く。十秒ぐらい経つと、がちゃりと扉が開いた。


「……誰?」


「あ……」


 出てきたのは、眠そうな顔をしている二十代くらいの女性だった。薄着なせいか胸元が見えているし、ホットパンツからは健康的な小麦色の太ももを覗かせていた。


「えっと」


「桃華の友達? ……な訳ないか」


「そうです!」


 咄嗟に僕が返すと、びくりと女性の肩が跳ねた。それから、彼女は僕の頭の上から爪先までジロジロ観察した後、言った。


「……なに、あんた桃華の友達なの?」


「はい。……平井真といいます」


「ふうん。私、あの子の姉の夏樹ね」


 まさか橘に姉がいるとは知らなかった。僕のいた世界と、人の存在まで差異がある訳でもあるまい。きっと、たまたま出会わなかったのだろう。


「よろしくお願いします」


 握手を交わすと、夏樹さんは申し訳なさそうな顔をした。


「悪いんだけど、あの子誰にも会いたくないって言ってるのよね」


「……そこを何とか。僕が来たってことだけでも伝えてもらえませんか?」


 真摯に頼み込むと、夏樹さんは意外と早く折れてくれた。


「……モノ好きね。ちょっと待ってなさい」


 夏樹さんは肩を竦めながら言い、扉が閉まった。

 数分ほど待つと、私服姿の橘が扉を開けてくれた。橘の目の下には隈があった。


「……こんにちは」


「うん、こんにちは」


 思い出す。

 小学生の時に、幾度も繰り返した玄関先での出会い。けれど、橘はそれを知らない。記憶喪失の有無とは関係なく、そもそも、僕たちが出会った事実は、この世界にはないのだ。


 僕はあらかじめ、用意していた封筒を取り出す。


「はい、これ」


「え……?」


 封筒はやや分厚い。中には、ノートがいくつか入っている。橘が休んでいた間の授業内容をまとめたものだ。やったのは、僕じゃなくて紫苑だけれど。


「昨日と今日の、授業をまとめたノート。週末からテストだし……体は大丈夫?」


 まくし立てる僕に、橘は少し困った顔をした。


「……どうして、私なんかにそこまでしてくれるの?」


「友達だからだよ」


「……人殺しと友達になりたいんですか?」


「人殺しって……」


 おかしい。橘は記憶を失っているから、その件については知らないはずだ。

 まさか……聞かれていた?


「あの時、私も図書館にいました」


 目を伏せながら橘はそう零した。

 涙が溢れているのが見えた。

 かける言葉が見つからない。


「……私に関わらないでください。お願いします。それから、ごめんなさい。ノート、ありがとう」


 早口で言い切ると、橘はバタンとドアを閉めた。

 取り残された僕は、放心していた。コンクリートの廊下に落ちた涙の染みを、意味もなく眺めていた。



 橘が自分の過去を知ったという。

 そのショックで、学校を休んだ。そういうことなのだろう。


 ひょっとしたら。僕が彼女のことを探ろうとしなければ──、

 胸の奥でじわじわと思考を蝕む『なにか』を、僕は黙って消し去ってしまう。


「……」


 心地いい風が廊下を通った。

 ふと、時間に似合わず蝉の産声が聴こえてきた。


 夏の始まりだ。

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