#03 ファースト・ラヴをもう一度

 翌朝、また体を揺さぶられて目を覚ます。

 前日はベッドを智花に譲っていたので、布団の上だった。僕が目を開けたのを確認すると、智花は「おはよ」とだけ言い残しさっさとキッチンにかけていった。どうやら朝食を作ってくれているみたいだ。


「ん、悪いな、智花」


「んーん。住まわせてもらってるし」


 ここの家賃を払ってるのは親父だけどな、と小声で呟きつつ、洗面台で顔を洗い、歯を磨いて寝癖を直す。


「休み、いつまでって言ってたか?」


「今日まで~」


 持ってきていたらしいピンクのエプロン姿がやけに似合っていて、僕は思わず目を逸らした。彼女は彼女で、橘とは別方向に整った容姿をしていた。たぶん、両親が美男美女のカップルだったんだろうと僕は睨んでいる。


「はい。目玉焼きとトーストだけだけど」


「ん、ありがとう」


 ささっと朝食を済ませ、僕は家を出た。



 登校中、嫌でも橘のことを考えさせられる。

 ──雨女曰く、今の彼女は記憶喪失であるらしい。


 どこからどこまでを忘れているのか、その辺りの細かいことは聞きそびれた。しかし、どうも直接聞くのも憚られた。



 正直なところ、僕はビビっていた。あらゆる全てが忘れ去られているとしたら、僕と彼女に接点はない。小学六年生の一年間の、あの黄金の思い出が消失しているとは考えたくなかったのだ。あの宝物を永遠に失ってしまえば、それは即ち、僕の人生はまるごと否定するということだ。


 だから、その日。同じクラスとはいえど、僕と橘の席はやや離れている。接触できるのは朝のホームルーム前や、休憩時間、昼休み、放課後ぐらいだ。


 僕はあの日以降、むしろ橘を避けて回った。彼女は時折こちらに視線を送ることがあったが(自意識過剰というわけではないと思いたい)、そのすべてに気づかないふりをした。



「真」


「ん、ああ。加瀬か」


「バイトダメだったわ。また探さなきゃなんねえ」


「そりゃお気の毒に、大変だな」


「ま、学費ぐらい稼いでやらなきゃなー。お前んとこも親父だけなんだっけか。俺はお袋しか居ねえもんだから、稼ぎが悪りぃったらねえ」


「ああ……」


 そういえば、うちも父親の手一つではあるが、親父はバブル景気時代に稼いだ金をかなりの額貯蓄していたという。たぶん、僕が医者を目指すと言っても金銭的な問題が浮上しなかったのはそのおかげだ。


「加瀬くん、アルバイトしてるんですか?」


 紫苑が会話に入ってきて、僕はびくりと身を震わせた。雨女と瓜二つの顔。今の橘に恋ができるか。そう囁いた彼女の肉声が、今一度頭の中で再生される。けれど、緊張する僕とは裏腹に、彼女は自然体のように見て取れる。


「正確にはこれから始めるとこ、だけどな。ナイショだぜ? 一応、家庭のクソつまらねえ事情って話は学校に通してんだけどさ、ズルいとか言い出す奴も出るかもしんないし」


 基本的に、アルバイトは禁止らしい。と言っても、僕はもうアルバイトをする必要はないけれど。


「へえ、頑張ってるんですね」


 そう言いながら、紫苑は同意を求めるように僕に笑いかけてきた。しかし、その笑みは、昨日の忠告を念押しするようで、僕は思わず顔を逸らした。


「おうおう真。学年一の美女に微笑みを投げかけられて顔を逸らすなんていい度胸してんじゃねえか」


「学年一の美女って……」


「言い過ぎですよ、加瀬くん」


 確かに、学年の全員を確認した訳ではないが、加瀬の言は一概に否定できない。

 そこから橘を除けば、だけれど。



 ***



 その日以来、僕たちはよく三人でつるむようになった。たまに別のクラスメイトも混じっていたが、僕は別に人付き合いが苦手だった訳じゃない。すぐに仲良くなって、クラスの和に入っていけた。


 遊園地に行った。水族館に行った。公園でガキンチョに混じって、缶蹴りや靴飛ばしやケイドロやベーゴマに明け暮れ泥だらけになった。

 加瀬の家で一日中ゲームに明け暮れ、朝日が出るころに眠りこけては揃って寝坊しズル休みするなんてこともあった。


 僕は橘への想いも忘れて、ひたすらに友人たちと遊びに暮れた。新しい友達もできた。正直な話、僕はそれでもいいとさえ思っていた──あの雨の日までは。



 ***



 6月の中旬に入った。学期末テストが近づいて来て、クラス内の雰囲気がピリピリしている頃、梅雨の到来を示唆するかのような大雨が降った。


 その日、加瀬はバイトに行ってしまい、他の友人たちは家が別方向なので、帰路は僕一人だった。その道中、ヤツは現れた。


 僕は一瞬、橘にばったり出くわしてしまったと焦って避けようとした。しかし、いやに耳に残る雨の音が僕の記憶を刺激した。


 目の前にいたのは、例のだった。


「切望していた高校生活はどうでしたか?」


 あの日と一言一句同じ文言を、彼女は口にする。

 クラスメイトの茨紫苑とこの雨女が同一人物なのかどうか、僕はついぞ知ることができていない。


 でも、もう、どうでもいい話だ。


「……楽しいよ。感謝はしておく。僕はまともな人生を取り戻しつつある。あんたのおかげで──」


「いいえ、そうではありません」


 彼女は、僕の言葉を遮って。


「記憶を失った橘桃華は愛せませんか?」


 ついにきたか、と思った。内心、僕は焦りを感じていた。


 この状況は恐らくこの雨女によってもたらされたもので、動機は謎だが、どうやら橘との再会が目的らしかった。

 僕は橘と再会したものの、彼女と接触したのはあの入学式の翌日、一回きりだ。

 でも、動機がわからない。一体なんのために。


「橘は……関係ないだろ」


「関係なくなんてありませんよ。彼女──橘桃華の心を救わなければ、夏の終わりに、彼女は自殺することになります」


「……なんだって?」


「話はそれだけです。くれぐれも、宜しくお願いします」


 雨女はそれだけ言うと、まばたきした次の瞬間には暗がりに消えた。雨は依然として続いていた。


 そこに至って。僕はどうしようもない絶望感と焦りを感じた。胸にぽっかりと穴を開けられたような気分だった。


 橘の死が伝えられた日。僕の時間が止まったあの日。涙が枯れるまで泣いたあの日のビジョンが、僕の頭に何本もの釘を刺す。


 白状すると、僕は今の青春に満足していた。わざわざ接点のない橘の心を射止めるよりも、友人と遊びに暮れる楽な青春を謳歌できればそれでいいとさえ思っていた。


 もう一度彼女に触れたとして。もしも、あの思い出が否定されたとしたら。

 ならば、触れずに綺麗なままで、あの愛おしい時間を残しておきたいと、そう思っていた。


 けれど、そんな甘えはもう許されない。


「…………、」


 僕は校舎の方を振り返り、学校へ逆戻りするように走り出す。


 二度とあんな後悔はしたくない。

 そのために僕は戻ってきたのだ。


 この時代に。




 橘がどこにいるかは知っていた。学校に付属する図書館に、いつも彼女は居た。別に自分で探ったわけではない。人づてに、勝手に入ってきた情報だ。


 彼女は置き傘をしない性格だ。だから、その日の突発的な夕立で、止むまで雨宿りをしているに違いないと僕は睨んだ。


 図書館に入ると、インクと紙の匂いに包まれる。

 不思議なことに、中は閑散としていた。てっきり雨宿りで人がごった返していると思ったけれど、ぽつりと橘が読書スペースの端を陣取っているだけだった。


 予想通りだ。その方が都合がいい。


「橘」


 意を決して、僕は橘に声をかけた。びくりと肩を震わせ、小さく振り返るその顔にはかすかに怯えがあった。しかし、僕の顔を見るとわずかにホッとした表情を見せ、小さくこぼした。


「なんですか? ……ええと、平井、真くん?」


 ぎこちないフルネームの呼び方に、僕は苦笑する。


「傘、ないんだろう?」


「えっと……はい」


「僕、大きめのやつがあるから……よかったら、送って行くよ」


 その性急な申し出に、失敗した、と僕は思った。

 初日での反省がまるで活かされていない。

 けれど意外なことに、橘は少し微笑みながら頷いた。


「じゃあ、あの、お願いします」



 ***



 こうして橘と二人で並んで歩くのは、体感的には実に九年ぶりのことだ。女の子特有の甘い香りが微かに鼻先を漂って、その懐かしさに安心感を得ていた。


「実は、私、記憶喪失なんです」


 僕の傘に潜り込み、くすぐったそうに身をよじりながら、橘はそう言った。


「そうらしいね」


 知っているとも。僕は努めて冷静に返した。


「あの日は、すみませんでした。でも、嬉しかったです。わざわざ私なんかに話しかけてくる人は居ませんでしたから」


「……そんなことは」


「あるんですよ。正直、怖かったんです。私の家族はみんな、失くした私の記憶について保守的で。『無理して思い出さなくてもいい』と口を揃えて言うんです。だから、嬉しかった。『昔の私を知っているかもしれない人』がいてくれて」


「……」


 なんと声をかけたらいいか、わからなかった。

 僕はどれだけ愚かなんだろう。記憶喪失なんていうわかりやすい大きな問題があったにも関わらず、我が身可愛さに彼女に手を差し伸べられなかったのだ。


「私の過去に何があったのか。私は中学に入って以降、たまに日記を書いていたようなのですが、ここ数ヶ月は何も書かれていなくて……」


 橘はやや迷いながらも、まっすぐと僕の方を見て言った。


「私は、何をしてしまったんでしょうか」


「……さあね。悪いけど、僕と橘がつるんでいたのは、小学校六年生の一年間だけなんだ」


 なので、恐らくその日記にも大した事は書かれていないだろう。


「そうですか……」


「その原因を探したい?」


「はい。でないと、一生私は橘桃華じゃない誰かのままなんじゃないかって思うんです」


「妙な喩え方だ」


 不幸な人生を放棄し、この時代に戻ってきた僕は、本当に平井真と呼べるのだろうか。

 僕は僕が受け入れられることに何の疑問も抱いていなかった。けれど、僕が高校入学したことで、その枠に本来はいるはずだった誰かだっているはずだ。


「教えてください。私たちは昔、どんな景色を見て、どんな言葉を交わしていたんですか?」


 彼女の言葉に、僕の表層意識は、かつての記憶の中に没入する。




 思い出されるのは、小学六年生の11月ごろの学校帰りのことだ。


 その頃になると、月曜日の『配布物を届ける任務』なしでも、僕の隣にはいつも橘がいた。


 本格的に秋が始まって、みんなが思い思いの上着を着るようになったその日の帰りも、僕らはいつものように橘のマンションに寄り、エントランスをくぐり、エレベーターで10階のボタンを押した。


 二人きりの時。僕はいつも照れ臭くて、素っ気ないような態度を取っていたことを覚えている。


 その日、右手でキツネみたいなジェスチャを作り無邪気に微笑んでいた橘の顔を直視できなくて、僕は廊下から外の景色を見ていた。


 そこからは、当時僕が家族と住んでいた県営マンションが見えた。その中から自分の部屋を見つけると、ちょうど一足早くに帰宅していた智花が、飼い犬のリードを持ちながら散歩にでかけるところだった。


 橘は無言で僕の横顔を見ていた。と思う。僕は目を合わせられなくて、ずっと我が家の智花の方を見ていた。


 そして、不意に、頬に何か熱いものが押し付けられた。


 びっくりして横目で見ると、目を閉じた橘の顔が視界の端にあった。僕はめちゃくちゃ混乱し、慌てて目を前にやった。


 ほんの一瞬のことだったけれど、僕にはそれが永遠のようにも感じられた。

 頬に残る唇の感触に、僕の顔はたぶん真っ赤だったことだろう。顔中が熱くなっていく感覚はあれが初めてだった。

 やっぱり僕は彼女の方を見ることができなくて、どうしてそんな行動に出たかについても、もう知り得ることができない。


 これは推測だけれど、彼女は両親からの愛が少なかったのだと思う。別に愛されていないわけではなかっただろうけれど。


 しかし、橘がやたらと名残惜しそうに僕と過ごしていたあのわずかな時間と、何より、扉を開けて帰っていっても「おかえり」の声がなかったことから、彼女の両親は橘と過ごす時間が極端に少なかったのであろうことは窺える。


 同時に、彼女は他人に対する愛……というよりも、好意、あるいは善意みたいなものを持て余していた。どういうわけか、その矛先が僕に向いた。たぶん、それだけのことだ。


「今日は帰るよ」


 僕は恥ずかしさでいっぱいになり、早口でそう告げて階段を駆け下りた。10階から1階まで駆け下りた時には、僕の顔は上がった息もあわせてさらに真っ赤だった。


 よく覚えている。口付けをされたと何度も頭の中で反芻し、顔を朱に染めながら、僕は帰路にある川の青い橋を渡っていた。今日はお風呂に入れないな、と冗談交じりに思ったものだ。


 結局、その後、口付けの真意を橘に聞くことも、彼女の方から何かを言うこともなかった。



 ***



「平井くん?」


 想いに耽け、ぼうっと遠方を眺めていた僕を呼ぶ橘の声が、ようやく意識を現在に戻した。気付けば傘からはみ出た肩がずぶ濡れになっている。


 顔が赤くなっていないかと心配になり、僕は思わず手で口元を隠す。雨音に隠れてこほん、と一つ咳払いし、


「いや……なんと言ったらいいかな」


 と、そんなごまかしの言葉を吐いた。

 正直なところ、橘桃華と平井真の関係性は親友と呼ぶべきものではあったが、最愛の恋人同士か、と聞かれれば簡単に肯定はできなかった。


 僕も、当然彼女も、お互いの気持ちを言葉にして伝えたことなど一度もなかったし、まだまだガキだったところもあった。


 僕は夏に医者になると宣言したあと、猛勉強して小学校では珍しかった受験を受け、私立の中学校へ行くことになった。橘は最寄りの公立中学に通うことになって進路が分かれ、忙しくなってからは会うこともほとんどなくなってしまった。連絡を取る手段はないこともなかったけれど、会って話をする回数は、一ヶ月に一度あるか、という程度になった。


 そうして三年になった秋のある日、橘はこの世を去った。



「言いづらいことなんですか」


 ずい、と橘が顔を近づけてきた。同じ傘に入っているせいで、へたに離れることもできない。

 よく見ると、やはりその風貌は雨女とは似ても似つかなかった。似ていると言えば間違いないが、成長の方向性が全然違って見えた。姉妹とは言えないが、従姉妹と呼べる程度には似ているな、とそんな感じだ。


 その吸い込まれそうな瞳に見つめられ、僕はたじろいだ。


「言いづらい……というか」


「待ってください、私が当ててみます」


 橘は急にそう宣言し、指を顎に当てて上を向きながら考察を始める。


「単なる友人知人……にしては、私の日記には平井くんは出てきていないんですよね」


 当然、そうだろう。中学以降ということは、僕は橘に全く関与していない。彼女はありもしない記憶を、後天的に獲得した情報から客観的に分析する。


「当然、肉親の関係にあったという事実もないはずです。そうだとしたら、これまで私がその話を聞かされていないのが不思議ですから」


「……昔、橘は病弱だっただろう?」


「え……?」


「あれ……違ったっけ」


 また記憶が……いや、歴史が食い違っているのか。

 たしかに、彼女が命を落としていないということは、彼女を蝕む原因不明の病も存在しないということになるのだろうか。

 ここで何かを言っても墓穴を掘るだけだろう。


「まあ、仲が良かっただけだよ」


「……そですか」


 知らない男子と仲が良かった事実。

 衝撃的なんだろう、橘は僅かに頬を赤く染めていた。僕は見ないふりをしながら、手持ち無沙汰に傘をくるくると回した。



 『夏の終わりに橘桃華は自殺する』と、雨女は言った。

 それを丸々信じるわけでは無いが、雨女によってこの状況がもたらされたのは疑いようがない。信憑性は否定できないし、警戒するに越した事はない。


 僕はそれから、橘とできるだけ多くの時間を過ごす事にしよう、と決意した。




 この時、僕は実に多くの物事を見落としていた。

 橘と近付けたことに安堵し、そこにある謎の意味を探求しようとしていなかった。


 ヒントはいくらでも転がっていたのに。




 橘をマンションまで送り届け、僕はそこからバスに乗って自宅まで帰ってきた。彼女の家にほど近い、実家である県営マンションにいた小学生の時とは違い、今の僕のが住んでいるアパートはやや遠い場所に位置していた。


「おかえり、お兄ちゃん」


「ん、ただいま、智花」


「いいことでもあったの?」


 鋭いな、と僕は舌を巻く。「別に」と答えると、それほど興味はないのか「ふうん」と流された。


「お風呂沸いてるよ。ごはんはもうちょっと待ってね」


「ありがとう。先に風呂に入るよ」


 智花もこのワンルームに住み始めてかれこれ二ヶ月ちょっと経っている。今なら多分、僕よりもこの部屋のことを熟知しているだろう。


 台所には食器が増えたし、家具も増えた。カーテンの色も鮮やかになった。


 朝も昼も夜も飯を用意してくれるし、多分この子の狙いは僕をダメ男にすることなんじゃないかと思えてくる。



「智花も受験生なんだし、あんまり無理しなくてもいいんだぞ」


 風呂から上がり、僕は智花にそう言った。オレンジ色の花柄のエプロンに身を包み髪をくくった格好の智花は、見る人が見ればコロッと恋に落ちてしまいそうな笑顔を浮かべて返した。


「いいの。私がやりたくてやってるんだもん」


 これくらい苦じゃないよ、と言いながら作業に戻る智花を見て、僕はなんとも言えない罪悪感に駆られた。


 智花には感謝してもしきれないな。




 翌日、僕は早めに起きて家を出た。


 バスに乗って実家近くのバス停で下車し、そのまま橘の住むマンションに向かった。エントランスで部屋番号を押すと、橘が小さく「はい」と応答した。


「僕だ、平井真だよ」


「えっ……ちょっと、待って。待っててください。すぐに降ります!」


 慌てだす橘に「ゆっくりでいいよ」と答えると、程なくしてエントランスと部屋の通信が切れた。


 橘が現れたのは、それから15分後のことだった。もしかしたら、いつもより少し早いのかもしれない。


「おはよう……ございます」


 僅かに頬を朱色に染めながら、彼女はエントランスから出てきた。そろそろ衣替えの季節だから、ブレザーは着ていない。薄着になってボディラインが露わになった体は、想像よりも細めだった。


「おはよ」


「……どうしたんですか、急に」


 問われて、ハッと気付く。理由を考えていなかった。昨日のことといい、明らかに不自然だ。


 いや、いい。僕には彼女と過ごした一年間がある。


「僕達が小学生だった頃の話、しそびれたからさ」


 僕がそう言うと、橘はぱっと花が咲くような笑顔を浮かべた。


「昔話ですか! あの、是非聞きたいです」


「はは。もう友達なんだから、敬語なんて使わなくてもいいよ」


「友達……ですか」


 苦笑する橘に、僕は首肯する。もしかして友達だと思われていないのだろうか。


「あの……聞いてないんですか? 私の、中学生の頃の話」


「……? まだ何も聞いてない……よね」


 僕の答えに橘は俯くと、ぶんぶんと首を振って、歩き出した。


「なんでもありません。聞かせてください、私たちが、友達だった頃の話」


「ああ──の前に、敬語」


「あ、えへへ。じゃあ、聞かせて? ……平井くん」



 その日は、僕たちが出会った時の話をした。


 小学六年生に上がったあの日。担任の贄川先生から配布物をまとめた封筒を渡されたこと。初めて橘の家に行って、挨拶を交わしたこと。


 橘は目を輝かせながら聞いていた。


「……贄川先生って、鼻に大きなホクロがある人だよね」


 何故だか喉を抑えながら、彼女はそう言った。


「そうそう。はは、そういうのは覚えてるんだ」


「あっ……えっと、そうみたい」


「橘は昔……僕もよく知らないけど、事情があって、月曜日は学校を休んでたんだ」


「月曜日……」


「記憶にない?」


「……うん、あんまり」


 病気ということはボカしておいた。それを彼女が知ってしまったら、ある日唐突にいなくなってしまうのではないかと思った。そもそも、今生きているこの状態だって、本当は危ないのかもしれない。


 昨日の時点では僕の病弱発言に疑問符を浮かべていたので、問題はないのかもしれないけれど、僕は何か特殊な事情があったらしい、ということにしておいた。


「小五の時に引っ越してきたっていうのは知ってるの。でも、そっか……」


 何に納得したのか、橘はうんうんと頷きながら、僕に続きを促した。


 けれど、気が付けばもう校舎だ。幸せな時間がすぐに過ぎ去っていくと唱えたのは誰だったっけ。


「あの」


 ふと、橘が小さく言った。

 振り返ると、後ろに三メートルぐらい離れたところで彼女は立ち止まっていた。聞こえにくいわけだ。


「どうした?」


「学校ではあんまり、私とは話さない方が──」


「おーっす、真!」


 橘の言葉を遮って、横から加瀬が僕の肩を引っ叩いた。


「ってぇ、加瀬か……」


「どしたん突っ立って。んん……?」


 僕の体の向きを追うようにして、加瀬も橘の存在に気付いたらしい。

 橘は目を伏せていた。


「真、お前……ま、いーんじゃない」


 何やら意味のわからないことを呟いて、加瀬はスキップしながら去ってゆく。


「なんだあいつ……って、橘、なんて言おうとしたんだっけ?」


「……ううん、なんでもない。ごめんなさい、先行くね!」


 橘は小走りに校舎の方へ走って行った。



 取り残された僕。肩をさすりながら、どうしたんだろう、急に。なんて、僕はそんな風にしか考えていなかった。



 ***



 教室に着くと、橘は席に座ってじっとしていた。

 話しかけようか迷いながら僕が自分の席に着くと、加瀬がせっせとやってきた。


「真。さっきの」


 いつもおちゃらけている加瀬が、なにやら妙に真剣な顔をしていた。僕は怪訝な顔でそれを見やる。


「なんだ? さっきから」


「いや……橘とお前がつるんでるところなんて、見たことなかったからさ。ちょっとビックリしただけだ」


「何言ってんだ。加瀬お前、昔から僕たちの仲をからかっていたじゃないか」


 言うと、加瀬はポカンとした顔で「はあ?」と返した。


 ……何かが食い違っている。橘が病気を克服した結果、僕のもといた世界の歴史と明らかな食い違いが起きている。


「真。何を寝ぼけてるのか知らねえが、、実際に会ったのだって、ここに入学してからだろ。だいたいお前、ガキの頃はこれっぽっちも女っ気がなかったじゃんか」


「………………、」



 意味が。

 わからなかった。



 橘とは通った小学校が違う。

 それこそ、僕の歩んできた人生を丸ごと否定しかねない言葉だ。

 安易に頷けるものではない。


 しかし、加瀬がふざけている様子はない。

 こいつはいつもおちゃらけているが、こと重要な場面においてタチの悪い冗談や嘘を言うような奴じゃないはずだ。


「……あのみてくれに惹かれんのはわかるけどよ。俺は噂とかそういうのあんま気にしないし、実際橘ってのが昔何をやってたって気にしねーけど? でも、周りのバカがつるんでるお前にまで白い目を向けるって展開は我慢ならねえ」


「……どういう意味だ?」


 まるで、橘が過去になにかをしでかして、周りから白い目で見られているでも言うのか。

 僕は思わず教室を見渡す。


 そこで、ようやく気付いた。


 橘の周囲には、誰もいなかった。男子はもちろん、女子もだ。円形にぐるりと切り取られたみたいに、橘桃華のいる空間はぽかりと教室から浮いていた。

 彼女だけが、和気藹々としているクラスの中で、ぽっかりと灰色の空間に取り残されていた。


 "橘桃華の心を救わなければ、夏の終わりに、彼女は自殺することになります"。


 雨女の言葉が蘇る。


 思えば。

 異常はすぐそばにあった。


 そもそもの話。

 を、僕は気にも留めていなかった。

 僕が気にしていたのは、僕のことだけだ。彼女の記憶喪失によって失われたかもしれない思い出が、そもそもこの世界には存在しないかもしれないだなんて。


「…………橘に、何があったんだ? どうして橘は、記憶喪失なんかになったんだ?」


「知らないなら、知らない方がいい。言っとくが、あんまり周りに聞いて回ったりすんなよ? 変な噂が出かねないからな」


「おはようございます、平井くん、加瀬くん」


 加瀬の話が終わると、ちょうど紫苑が横から挨拶を飛ばして来た。


「ああ、おはよ」


「おっす紫苑ちゃん」


「何の話をしていたんですか?」


「そりゃーもう男と男の話ってヤツだよ。紫苑ちゃんにはナイショ」


「そうですか。ところで平井くん、数学でわからないところがあるんですけど──」


 他愛のない話を暫く続けていると、やがて担任教師が小走りで教室に入って来た。同じタイミングでチャイムが校内に響き、クラスメイトたちもぞろぞろと着席しだした。



 加瀬の話が全て間違っている、だなんて断言してしまうほど、僕はお気楽主義者ではない。


 けれど、何かが引っかかる。重大な何かを見落としているような、そんな気がした。



 その日の授業中、僕はずっと橘の方を観察していた。

 けれど、彼女が事務的な会話以外でまともに言葉を発しているシーンは、ついぞ見ることができなかった。

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