「どんな物語も、日常から始まるの。個人的日常のほんの小さな綻びから」

人が語る言葉や、綴る文章というのは、どこからやってくるのだろう?
人の想像力はどこからやってきて、どのように形作るのだろう?
僕はこの小説を読みながら、そういう事を考えていました。

人の小説をレビューする場で、僕が自分語りをするというのが良いか悪いかはわからないのだけど、カクヨムで文章を書いて、人に読んでもらうという事を「お互い」志している者同士として、この小説を書いた方に敬意を表します。

まず、正直に申し上げると、最初にこの小説を読んだ印象は「読み辛い」という事でした。章も分かれていないし、小説の詳細にも十万文字って書いてある。十万文字って、書く方も「かなり相当な」労力が必要だけど、読む方も(僕みたいな読書をそれほどしない者にとっては)大変だ。ドラクエみたいにテレビを観ながら適当に指を動かしていればいい訳ではない。W杯を観戦しながら読む訳にはいかない。読むという行為には、文章と向かい合うという姿勢がどうしても必要になる。書く人と同じ位に。でも、もし一度挫折してしまっても、自分にとって何かしら大切な、重要な物事が小説に書かれていると感じた場合、人は必ずその小説に戻ってくる。そして虜になる。この小説は、まず最初にそんな大切な事を、気付かせてくれました。

一番最初に読んだ時は、不思議な図書館への導入部分までが限界で、その後は文字を追うだけの作業になってしまった。スクロールしても、してもしても現れる文字の羅列。圧倒された。その熱量に手元のiPadが爆発するんじゃないかとさえ思った。文章自体としても、決して読み易さが売りではない。理論的に進む場所もあれば、エキセントリックな、作者の情緒を露わにした文章もある。文章とその次に連なる文章との間には、しばしば飛び石のように隔たりがあり、跳ぶ為には読者の想像力が若干必要となる。そう。まるで、読者はこの物語を美しく澄んだ池に例えるなら、設置された飛び石を、順番に小刻みにジャンプして渡るかのようだ。しっかりと背後を(今いる場所を)確認しながら、きちんと次の石を見定めて飛び移らなければ、その先に飛び移るべき石は現れない。立ち往生している内に、やがて霧に包まれ、今読者がいる場所を隠してしまう事になる。そして、読者は去ってしまうだろう。最初の僕のように。…でも、きちんと自分が今存在する場所を知っていれば、この小説は決して読者を裏切らない。意味を持った文章は次の文章を呼び、それらが重なって我々に想起させる物事は、より本質的な鋭さを持って胸に刺さってくる。

物語の話を少ししたい。
この物語は、ほんの小さな一枚の古びた葉書をきっかけに、私が自宅と生垣の謎を様々な登場人物と共に解き明かし、やがて日常に戻るという話だ。ほんの小さな綻びが主人公である私を非日常へと誘って行く。生垣(「壁」を逸脱し、「境界線」だったものが「内側」を持ち始めるもの)、明治政府、キリスト教、轆轤(ろくろ)、絵(もしくは中に絵のない額縁。大事な何かがあった)、色彩(黒、本質的な色)、スケッチブック・本を埋めるべきもの、模写(アレクサンドリア図書館、オリジナルを書き写す)、フランス語の時制について、造園、高校生活、母との会話、その他たくさん。

一つの謎を解き明かす為の様々な比喩的表現が、読者が飛び石を渡っている間に行使した想像力で結び付き、徐々に形を成して行く過程は、まさに作者様との共同作業のようでした。でも、作者様には読者にそうした、いわゆるヒントを与えているという意識はないのかも知れない。極めて自然的に湧いてくる想像力と文章の泉から発したものが、結果として読者に「(共同作業と)錯覚させている」だけなのかもしれない。それは本当に素晴らしい事だ。ある人の想像力が圧倒的な熱量を発し文章を書く。それに感応した読者(僕だ)がまた想像力を膨らませ、何かを思い付き、何かを書きたいと思わせる。例えば、こうして小説を誰かに紹介したいと、文章を書きたいと思わせる。計算ではない、いわば人の想像力の原始的な「迸り」の様なものが、僕には感じることができたし、感動した。物語の、謎の解明に至る大筋は、それら比喩的表現のいわば副産物として最終的な決着を取ったようにも思えてしまう。作者様が語りたい事は物語の決着に至るまでの過程に多く含まれているように思える。そしてそれらが断然面白い。

登場人物について語りたい。
主人公の女子高生は美術部で、絵を描く。母との会話は実にリアルで、この物語の、ともすれば夢想的な世界へ飛び立ったまま帰ってこない気球を地上に留まらせる錨のような役割をしてくれる。そうした、ファンタジーの世界と現実世界との結び付きは、シルバーセンターから派遣されるタコタコウゾウ氏や工務店の人の実際的な説明など、僕みたいなファンタジーを読み慣れない者にとって重要な物になってくる。アレクサンドリア図書館、明治政府、キリシタン、造園論、絵の表現など、後述するシロタさんの夢見少女のような語り口とは打って変わって、文章は大変読みやすく興味をそそられる。女子高生の高校生活も少し語られるが、とある絵の模写を中心としたものであって、人となりを浮き彫りにするものはない。でも、時々母に対して「だから、の使い方がなってない」と辛辣な突っ込みを思ったりする。受験を意識して勉強もちゃんとしている。フランス語の時制についても詳しい。成績は悪くなさそうだ。物語の主人公として申し分ない冒険を繰り広げる。一つ秘密を抱えている。僕にとっては、その秘密に何故か親近感がある。

その母は骨董屋を営む。主人公の母らしく、きちんとしている。僕は結構この母が好きで、その理由は「リアリスト」だからだ。後述するシロタさんの夢見少女の「独りよがりの独白」を、母は「修行のように聞」き、「よくわからなかった、ごめんね」と断じる。そのシーンは物語の中盤に出てくるのだが、作者様の小説の世界を興味といささかの不安を抱えながら、飛び石を渡っている読者(例えば僕だ)にとって、大丈夫だよ、と励ましてくれているかのような心強さを与えてくれた。きちんと順序立てて跳んできた読者に、「はい、中継地点ですよー。お疲れ様ー」と、マラソン大会の給水所のような存在だった。

そしてシロタさん。
この物語の中核を担う存在だ。まず、登場からして不思議ちゃんである。彼女はフランス語の辞書を探しているのだ(その理由はきちんと後半に明らかになる)。そしてエキセントリックな言動を繰り返し、読者と主人公を混乱させる。母には先述のように「よくわからなかった」とまで言わせしめ、さらに何故か「マラソン」を勧められてしまう。普通の人は、好感を抱いている人にマラソンを勧めたりしない。何かしら鬱屈した感情や、精神的な病理を抱えていそうな人に勧めるものだ。だがそこに、シロタさんの内省は生まれない。ひたすらメンタルが強いのだ。だから主人公と私立図書館(そこは危険な所のように僕には思えた)で再会し、窮地を切り抜ける。だんだんシロタさんの事が好きになってくる。その口から語られる不可思議な言動はよくよく読み解くと、物語に深い陰影を与えてくれる。

シロタさんの出現シーンは、池に設置されている飛び石に例えると、一番遠くに離れて設置されている飛び石ゾーンの出現だ。そこまで跳ぶには、充分に距離感を測り、しっかりとしたイメージを(着地する自分を)思い描いて準備しなければ、池に落ちてしまう。去って行く読者もいるかも知れない。だから、このレビューを読んでから本文に入る予定の読者様に伝えておきたい。シロタさんは物語の中核にして、本質にして、異質な存在である事を。その口にされる台詞は、作者様が物語で語りたかった、何かしらの真理・定理・憧憬…何かは僕には推測できないが、『物語にし尽くされなかった物事』が原始古代から受け継がれた文章の泉から取り出された詩に近い何かなのだ。それは硬い地盤に埋まっていた原石を思わせる何かだ。そして同じ作者様から産まれた物だけに、物語と関連している。

シロタさんが母にアルバイトを頼まれてやってくるシーンがあって、それについて主人公が独白するシーンが好きだ。本文から転載する。
>(シロタさんはやって来る。夏として、か、秋として、か。)
人として捉えられてさえいない。きっと主人公もシロタさんに思う所があるのだろう。

そして、終盤にこうとも書かれている。
>シロタさんの説明そのままでは物語が終わりそうにないので、ここに要約する。
この長い小説において、主人公と作者が重なった瞬間はおそらくこの一文だけではないか。そして、作者様であったなら、自分でも制御し得ない何かをシロタさんに語らせてしまった結果として、物語を終結に向けて統制せざるを得なかったのではなかろうか。こういうリアルな文章の流れがたまらなく好きだ。もちろん、僕の想像に基づいた推論でしか無いので、真実は作者様にしかわからないのだけど。…あるいは、シロタさんにしか分からないのかも知れない。だから、これから小説に入って行く読者様にこう伝えたい。シロタさんによろしく、と。あまりシロタさんの言う事に真剣に耳を傾けなくていいよ、それは考える事というよりも、感じることだから、と。

カササギさんについて
不明過ぎる老婆で、この物語の中で一番怖かった。悪夢の中に出てくる人みたいだった。

他に、良かった(好きな所)を記載させていただきたい。
私立図書館で開催される、譲渡会。文章を書く作者たちの世界がどうしても偏ってしまう為、「偏りを補正する」為に開催される。ここの部分はとても興味深かった。僕も文章家を志す者として、偏りというのはどうしても意識せざるを得ないところだ。そうした部分を矯正する…補正するという行為は絶対必要なものであると僕自身も常に思っている事だし、そうした点について小説内で記載されている事がとても面白く感じられた。なるほど、と思う所がある解決方法は物語と関連しており、ぜひそれはカクヨムで文章を発表し合う我々同士で、思う所を作品を通じて語り合うべきテーマの一つであろうと、僕は勝手に感じている。埋められるべきものが無ければ、勝手に別のものを埋めてしまって、全く違うものになってしまう。それは物語なのかも知れないし、こころなのかも知れない。

蔵の鍵の発見のされ方も僕にとっては衝撃だった。ずーっと昔から目の前でぶら下がっていた物が、実は重大な物事を隠している蔵の鍵であったりする。また、地図というものは、造園というものは、一番大事なものが庭にあることを、誰にも本人さえもわからないように隠す事ができれば成功なのだ。この物語は、物語を隠す事について書かれている。隠されたもの、隠したもの、それは僕らが日常で無意識に行なっている事だ。そうして暴かれた物事は、物語の終着点としてきちんと明かされる。静かな感動を、読者は飛び石を渡りきった達成感と共に味わうことになるだろう。是非、無理のない範囲で御一読をお勧めしたい。読み切れなかったら、また挑戦すればいいのだから。

僕は、というと、個人的な話になって恐縮なのですが、「ティッシュを食べる」という小説を書く際に、創作ノートとして使っているA4の紙の一部を使った。でも1ページ全部埋める事が出来なくて、上の三分の一程度を、ボールペンでテーマらしき物を埋めただけで、残りを白いまま小説を4000文字程で書き上げて、カクヨムにアップした。その小説が机田さんと出会うきっかけになった訳なのだけれど、残りの白い部分は、この「生垣の向こう」を読みながら書いたメモで埋め尽くされた。僕が自分で書く小説について「埋める」より、この「生垣の向こう」を読みながら書いたメモの方がよっぽど濃い密度で、僕に何かしらの啓示を与えてくれたような気がしている。

最後に、この小説の中で一番好きな文章を記載して終わりたい。


ただ言えるのは、もしもへこみがあれば決して埋めてはならないということ。自分の眼で確かめて。一体なぜそこが塗り固めても塗り固めてもへこむのか確かめて。

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