生垣のむこう

机田 未織

第一章

第1話 古びたハガキ 



 郵便受けがつたに覆われてしまい、差し入れ口がどこだかわからなくなる頃、そのハガキを見つけた。


 始め枯れ葉だと思った。

 けれど毛羽立って褐色かっしょくに汚れた表面に文字が並び、どうやら元は四角いはがきなのだ。



 拾ったのはわたし。

 億劫おっくうながら今朝、剪定せんていばさみを手に庭へ出た私がのろのろと

 郵便受けの下で拾ったのだ。


 二玖ふくは耳をそばだてた。

 まただ。

 歌なのか、何なのか、一定のリズムで唱えている声。


 初夏。

 七月の晴れた日曜日。

 高いへいと道路をへだてて民家が迫る。

 日曜のだいたいこのぐらいの時刻に、どこからかお経のような歌が聞こえてくる。


 ‥‥らいぶらいえ、らいぶらいえ、らいぶらいえ、あんめんじゅす、あんめんじゅす…



 数人の大人が声をそろえて多分こんなふうに言っている。

 絶え間なく何度唱えるのか、数えるのをあきらめた頃、ぱたりと止む。


 近いのか、遠いのか———


 両隣も裏手のお宅も高い塀で自宅を囲っていた。

 歌が止んでしまえばもう何の手がかりもない。


 かすかに潮の香りがした。

 浜風がふいに音を掻き消してしまったのだろうか。普段届かない波音が、聞こえ始める。


 浜辺に面した通りからゆるやかな上り坂が伸び、この家の門扉に突き当たる。

 錆びついた門は大抵閉じていて、知らなければ人が住んでいるとは信じ難い。

   


 遠くに海がきらめく。

 もう梅雨明けかもしれない。空には入道雲が立ち昇る。


 視線を手元の葉書へ落とした。


『かえしてください』


 どこかで見たような文字だった。


 ここ最近の長雨が致命的だったのだろう。洗い流された文字列は何とかそう読めて、読んでみればそれ以外なかった。

 心当たりはないけれど、お金に関わる督促状とくそくじょうだったらもっと事務的な書き方をするはずだ。


 だいたい、誰に宛てて届いたものか、宛名は全く読めない。

 見なかったことにしようか。

 あと数日このまま放置していたら本当に解読不能になるだろう。


 「か、え、し、て、ください」


 アラベスクの縁取りの枠のなかに几帳面に並んだ一文字一文字は、雨でにじんだり流されたりしながらも一応枠の中に収まっていた。


 表の、差出人欄に押されたゴム印は、文字というより模様に近い状態だ。


 そのとき青空からにわか雨が降ってきて、二玖ふく咄嗟とっさにハガキを両手で包んだ。


 ガサガサと木の葉の音がして、木々の隙間からタマミが「にゃー」とこちらを見上げる。彼女は得意げに姿勢を正すと、剪定して見通しの良くなった通路を、すたすた歩いて行く。


 黒猫のタマミはおばあちゃんが春にこの庭で拾った子猫だ。

 実は誰も、おばあちゃんがタマミを拾ったところを見てはいない。でもおばあちゃんはこの庭から、壁の内側から、出ることはない。だからタマミは庭で拾われた、そう結論付けている。


 石畳の分岐点でしばらく立ち止まると、タマミは母さんの店の方へ消えていった。


 海辺の丘の、古い住宅密集地の一角に、この奇妙な屋敷はある。

 屋敷の周囲には、木々が鬱蒼うっそうと茂っている。


 正確に言うと、木、というより壁、だ。


 木々は生垣となって張り巡らされ、その周りを背の高い外壁が立ちはだかり、寄り添うように建つ近隣の家も高さを競うように自宅を塀で取り囲む。


 ここが個人の家だと認識している人がどれだけいるだろう。

 表札もなければ門からは屋敷も見えない。


 郵便受けは、つたに絡まれ片側の門扉に、埋もれるように鎖で括り付けられている。


 門を一歩中へ入ると、どこへも向かっていない。


 密集して並んだ木々は迷路をつくる。

 入り組んで折れ曲がって行き止まって引き返して、迷った曲がり角の先に、再び木々が立ちはだかっている。


 それなのに———


 この敷地奥にある、母の骨董屋には不思議と人がやって来る。

 わざわざここを目指してやってくる人が案外いるのだ。


 ほら、やっと着いた。

 蔵がある。これが母の骨董屋だ。

 石組みの土台は苔蒸し、漆喰の塗り壁は剥がれかかり、雨樋あまどいに草が生えている。


 放置して取り返しのつく庭ではなかった。


 生垣を曲がれば直前の光景は消えてしまう。

 たった今足元でわずかに咲いていた花も、見上げた空の雲も、細長く区切られた視界は次々と見えるものを限定し、直前に見えていたものが何だったか忘れさせる。


 ただ自分に課されるのは、庭に通路を確保すること。

 不自然な体勢をとらずに前へ進め、引き返すことのできる通路。


「結局、困るのは自分」


 二玖フクは声に出して言ってみた。返事はない。あまりにも広すぎるこの庭で、ひとりきりだった。

 ────むしろ、誰にも見られなくてちょうどういい。


  (相当、かっこわるい)


 蚊に刺されないよう、ダボダボのワイシャツを羽織って、頭にはつば広の日除け帽。脚立にまたがり、植物の旺盛な生命力と格闘している。

       

 この描写だけで二玖をイメージしては誤解を招くので付け足すが、二玖はどちらかと言うとクールな雰囲気がするとよく言われる。ただ、自分の顔立ちにあまり興味はない。かっこいいとかキレイとか言われるたび、

(わたしのこと、何も知らないくせに)

 と、思うだけだ。



 二玖は脚立から伸び上がり、自宅へのくねった石畳を改めて振り返り眺めた。


 春先から一気に芽吹いた新緑で小路は茂みに覆われてしまっていた。

 けれど朝から何度か鋏に油を差しては脚立に上り、剪定しては油を差して、そうするうちに通路は通路として際立ち、すっきり整って何のストレスもなく前進できる。


「これだけ通りやすかったら、お客が道を間違えるかな」


 (人間、通りやすい方を選ぶだろうから)


脚立からひょいっと降りると、今度は草抜きに取り掛かる。


 草は、生垣の勢力に負けて元々生えにくいはずだけど、それでも放置すればするだけはびこる。

 草抜きは集中すると案外楽しい。引っ張って根こそぎ抜ける時は特に。


 店の方から気配がして、目の前に年季の入ったハイキングシューズが現れた。二玖フクは、その初老の紳士の顔を見上げる形になった。


「イイ庭デスネ」


 背中から差した光が後光となって、神様を連想した。青い眼と彫りの深い顔立ちに、仏様でも天神様でもなく、神様だ、と思った。


「ありがとうございます」

「アナタガ オセワシテマスカ?」

 お世話と言えるほどではない。


「同ジネ」

 しわがれ声でふおっと笑った。


「キイタハナシト同ジ。キテミタカッタ」

「はあ」

 どこか別の場所と間違えているんじゃないだろうか。

「植物ニ守ラレテイル」

 守る?


 振り返ると紳士はすでに曲がり角の向こうに消えていた。常連客ではないけど、そういえば迷いなくここまで歩いて来ていた。


「みゃー」

 どこからかタマミが現れて二玖の足に擦り寄る。花の咲く、すぐそばに足跡を付けている。

「少なくとも、タマミは庭師ではないね」


 こんな薄暗い生垣の隙間に、花なんて育たない。と母に宣告されたけれど、種類さえ選べばちゃんと育つのだ。


 すみれ、ユキノシタ、オダマキ。

 場所を取らず、日陰を好む種類を選んで植えたら案外生き生きと育った。

 足元に花を咲かせると殺風景な通路が少しはましになる。


「目印にもなるんだから」


 お客が迷うのは、どちらを向いても似た景色だから。二玖でも、一瞬ここがどの辺りなのかわからなくなる。

 そういうとき、生垣の足元に咲いている花を見れば、どちらに曲がればいいか判断しやすいんじゃないか。

 それに。


 目印はあったほうがいい。ここを、これ以上刈ったらだめだ、とわかるように。


 

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