第2話 おばあちゃん

 

 急に降りだした雨はバタバタと葉を鳴らし地面を叩く。

 二玖ふくは雨粒でまだらになった石畳を家へと戻った。


 玄関土間の大きな靴脱ぎ石に湿ったスニーカーを立掛けると、居間の一角の畳敷きにうつぶせ、床に転がっているうちに眠ってしまった。

 

 気がつくと雨はただ湿気となって浮ついて、室内の薄暗さに拍車をかける。生垣に囲まれたこの家は、一足早く夜が訪れる。

 ───このまま一日を終えてしまってはまずい。

 受験生という自覚は一応頭の隅に貼り付いている。


 手を蛇口の下に突っ込んで、ついでに顔も洗って椅子に腰掛ける。


「おだまき、さざんか、さざんか、おだまき、すみれ」


 いつのまにか背後に立っていたのは祖母だ。


「あかめ、あかめ、まきのき、ゆきのした。やっと見つけた」


 祖母はじっと立ち止まってテーブルの上を見ていた。

 例のハガキだった。


 二玖はさりげなくハガキを裏返した。祖母は、一旦何かにこだわると後が面倒なのだ。ただのダイレクトメールだったら祖母の目の前でゴミ箱に入れるけれど、何だかこの古ぼけたハガキは捨てられなかった。


「オウル、隠してもだめ」

 瞳は虚ろに宙を見る。

「文字に書き残してはだめ」


 憑かれたようにそう忠告する祖母の、いつにない張り詰めた声に、二玖はハガキを慌てて自分の手提げに押し込んだ。

 目の前からハガキがなくなると、祖母は静止ボタンを押されたようにぱたんと椅子に座りこんでしまった。二玖はその間に台所で薬缶やかんを火にかける。


「おばあちゃん、歩いてきたの?」

 二玖の質問に、質問が返ってくる。

「オウルの方は庭を手入れしていたのかい?」

 (戻ってる)

 正気と狂気のはざ間で一体どんな変化が起こっているのか、時々こうしておばあちゃんは元のおばあちゃんに戻る。

 

 居間には大きな窓があって庭の緑が見える。

 祖母は、緑の茂みが今日、こじんまり刈り込まれたことに気づいたのだ。

 窓の外には庭の緑と、地中喫茶室の小さな窓。

 『地中喫茶室』

 とは二玖が命名した。大窓のある居間の右手に渡り廊下が延び、奥に数段下って左手に細長い土間がある。「ここは昔喫茶室だった」と、幼い頃、遊びに来たこのうちで、祖母から聞いたことがある。


 土地自体が窪んでいたのか、わざわざ掘り下げたのか定かではない。「地中喫茶室」はその名の通り、半ば土の中に埋まったようになっている。それなのに、大雨でもとくに浸水もせず水はけが良いのは、ここが辺りで一番高い所に位置するからだろう。


 母の実家であるここは、その頃、年に一度しか行かない謎めいた家だった。


 どちらの実家も、車で一時間圏内にあったのに、通うのはもっぱら父方の実家だった。


 父の実家は名の知れた資産家で、全てが輝いていた。

 車をつければ自動的に駐車場の扉が開きインターホン越しにおばあちゃんのクリームみたいに優しい声が出迎えた。コンクリート造りの通りを抜けると両開きの玄関があって今度は実物のおばあちゃんがややどぎつい化粧で出てきた。


 この家とは対象的な明るい豪華な家。初孫である二玖はちやほやされて、綿菓子と風船を同時にもらったみたいだった。


 けれど離婚話が出始めてから風船は破れた。


 今まで、自分の何が好まれていたんだろう。そして自分の何が、彼らから疎まれ始めたのだろう。

 おばあちゃんは二玖が来ることを、何か理由を付けては延期させるようになった。 おじいちゃんは、二玖が行くと大抵どこかへ出かけて不在となった。

 綿菓子は、湿ってべたついて地面に落ちた。


 居間の窓からは「地中喫茶室」が見下ろせる。

 名前の由来を、かつて祖母はこう説明した。

「ここは、隠してあるんだ。家の外からは簡単に見えないようにしてある、秘密の喫茶室」


 居間のある母屋と、喫茶室の間にはコの字型の細長い庭がある。半分地中に埋まった喫茶室には大窓に対面した窓があり、ふたつの窓は呼応している。呼応、という表現の聞こえはいいけれど、何か違和感があって、もっとぴったりの表現を考える。


 監視。


 ——こちらから向こうの一段階低い、小さな窓の中を監視できる——


 得体の知れない嫌悪感が沸き起こる。 

 (でも、今二玖のしていることも監視みたいなもの)

 おばあちゃんが一日中敷地内でぐるぐる回るのを、どこへも行かないように監視する。

 大窓からは喫茶室の屋根の向こう、庭の緑もよく見えた。午後の数時間だけ、居間に貴重な光が降り注ぐ。切り取られた緑の日向のなかで、祖母がじっと外を眺め、何か言っている。


「探してくる」


 ああ、いつものそれだった。


 祖母が現実の世界に対処できる時間は、残念ながら終わっていた。

 ふいに立ち上がると操り人形のように歩き出し、台所を抜けて玄関へ出てゆく。

 庭を、巡るのだ。

 やかんから湯が吹き零れていた。


 おばあちゃんの内側の何がそうさせるのか。


 ───それを自律的と言っていいのか。

 傍目には明らかに「他律的」な何かがそこには在った。

 祖母に残された選択肢は、歩くこと。

 生垣が左右にそびえ、前方に進む。いつか向こうから来る何者かが律するのだとすれば、それがおばあちゃんの世界、だろうか。


 二玖は急須にお茶の葉を蒸らしながら、祖母がもう一度ここに戻ってくるのを待っていた。門まで行ったら方向転換して必ず戻ってくる、今はもう、機械仕掛けのおばあちゃん。

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