食み、そして吐くはその子故

 重力が、四肢と活力を泥に埋めるようだった。イトの足指は、じっくりと地面を味わいながら、前へ出る。僅か数秒が、数時間にも思えた。

 どうも、あの夢を見た時から、感覚がおかしい。時間が時間と思えず、じわりと何かが遠のく。気分が悪かった。開けた私道、月ノ堂の前に来て、ハルはイトに駆け寄る。


「どうしよう……月ノ堂、店開いてないの……時間的に開いてるはずなのに……」


 狼狽えるハルに、ランは言った。


「もう救急車を呼ぼう。どんどん顔色が悪くなってる」


 うつらうつらと、イトは二人の会話を間で聞く。僅かなランの手の温もりを対価に、焦るハルに向かって手を伸ばそうとするが、体がどうにも動かない。


「救急車って119?」

「そうだよ。イト、ちゃんと僕の目を見て。まだ気を失っちゃだめだからね」


 ランの顔を見て、自分がもう動いていないことに気づいた。辛うじて五感が死んでいない。そんな状態である。ハルがスマホの画面を見て、え、と漏らした。


「圏外になってる……どうしよう。ランとイトのは?」


 急ぎ、ランはポケットから同じくスマホを取り出すと、ふるふると首を横に振った。ハルがイトの体をまさぐり、揃いのカバーを付けたスマホの画面を見る。だが、それもまた、圏外を示す。


「ちょっと、どうなってるの?」

「とにかく、固定電話を使わせてもらおう。開いてなくても店の人はいるはずだよね」


 ハルにイトを任せると、ランはその店に駆けよった。扉には施錠がされていたが、中は明るく、先程まで誰かがいた事が分かるくらいには、珈琲の香りが強い。スンとランは鼻を鳴らして、扉を叩く。


「すみません! 救急車を呼びたいんです! 誰かいませんか!」


 ランが大声を出すところなど、ハルもイトも、初めて見る光景であった。ただ、この状況にはとてもあっている。叩かれる扉は、裏についている鐘を鳴らして、リンと音を跳ねる。

 暫くして、勢いよく扉が開き、ランを突き飛ばした。


「あ! ごめん!」


 黒髪に黒目、そこそこの整った顔。小柄なその青年を包む下半身のみを隠すエプロンには、僅かな血痕が付いていた。


「ごめんね。大丈夫かい。救急車を呼びたいと言っていたね。すまないがそれは無理だ。とりあえず店に入ってくれ」


 青年はランの腕を取ると、周囲を見渡す。イトとハルを見つけると、ランを店の中に放り込んで、二人に駆け寄った。


「二人とも歩けるかい? いつも来てくれる子だね。中で介抱しよう」


 その小柄な体からは想像できない力で、二人の手を引くと、そのまま勢いで店に全員を収める。カランカランと軽快な音が鳴った。アンティーク調の空間が開ける。温かみのある光が目を焼いた。


「座って。傷があれば治療しよう」


 青年はイトを席の一つに座らせると、その体を一周ぐるりと見る。無傷であることがわかると、青年はホッと胸をなでおろしながら、キッチンへ向かう。


「多分、酔ってるだけだ。ここで暫く休めば大丈夫。何か飲むと良い。順応しやすくなる。ここで揃えているものなら、黄泉戸喫よもつへぐいにはならないからね」


 業務用の冷蔵庫から牛乳を取り出す青年の後姿から、一度目を反らす。イトは吐き出しそうな感覚を抑え、声を発した。


「……黄泉戸喫? ここが黄泉の国だとでも?」


 イトがそう尋ねると、青年は振り返って、ハッと顔を上げる。


「まさか君達、宮家じゃない? いや、でも、見た目も気配もんだけどな……末端の支族とか? うーん、難しいな。どう説明しようか」


 次第に、緩やかに治まっていく吐き気が、現実味をイトに見せる。


「そうだ、ここは夢の世界だと思ってくれ。君達と僕達は今、共通の夢を見ている」


 これが、現実感を伴った夢だと、青年は言う。説明不足のその先で、イトは舌を打った。


「その説明、嘘は無い?」

「真実をそっくりそのまま言ったところで、君は理解が出来るの?」

「……それは」


 青年は言い淀んだイトの隙をつくように、にっこりと笑う。


「そういうものだ、と捉えてくれればいいという話さ。ただし、この夢で死ぬと現実でも実際に死ぬ。言葉通り、現実混じりの夢だ」


 饒舌に、それは語り続けた。ランが青ざめる。イトは、隣のハルが自分の半袖の裾を握ったことに気づいた。


「大丈夫だよ。僕達はこういうのに慣れてる。僕達が君達を守るから。夢が醒めるまで、大人しくしていてくれればいい」


 にこやかで、優し気な青年の表情で、ハルがホッと息を漏らしたのを、イトは聞き逃さなかった。だが、イトは変わらずだった。体調が戻ったからだろうか、不信感の方が勝って、攻撃的な思考になっている。


「名乗り損ねていたから、言っておこう。僕は月ノ宮つきのみやみなみ。ここの店主だ。他の店員に、大宮おおみや理夜りよと、大宮おおみや了香りょうかっていう二人がいるよ。それと、さっきまで、片山かたやまさんっていうお客さんがいたけど、外の様子を探りに行った。そのうち帰ってくるよ」


 青年、南が、そう笑う。南は一杯の冷たい牛乳を三人の前に置いた。その直後、店の奥の扉が開く。


「南。あの少年の容態は落ち着いたぞ。そいつらは何だ」


 艶やかな黒髪を流して、赤目をギラリと輝かせる女。彼女は、南を呼びつけると、三人を指さしそう言った。


「理夜ちゃん。この子達も僕達と同じで、この異界に迷い込んだみたいなんだ。そこの赤い目の男の子が異界酔いで倒れそうになってたところに、助けを呼びに来たみたい」


 南の説明を聞いた理夜はまたぎろりと三人を見回って、怪訝そうに言う。


「お前達の名前は何だ。まさかその小奇麗さで名前が無いなんてことはあるまい」


 理夜の言葉に、ムッとした表情で、イトが言った。


「俺は稲荷山絲世。こっちは双子の妹の春夜はるよ。一緒にいるのは、幼馴染の十色といろらん


 イトが流す様に二人を紹介すると、理夜はどかりとカウンターに腰駆けて、ハルをジッと見る。その眼差しに、ハルはイトの背を借りて隠れた。


「黒髪赤目の上で、名に夜を入れられているのか。支族にしては立派だな」


 理夜がそうぽろりと呟くと、南は蓋を開けたばかりの2Lの炭酸水をその目の前に置く。おもむろに理夜がそれを飲み始める。その異様な様子を見ながら、ハルが言った。


「ねえ、さっきから、宮家とか、支族とか、何の話してるの?」


 ハルが出した言葉に、南が少し困ったような顔をする。


「君達には今、関係のないことだ。理夜ちゃん、あんまりそういう話をぽろぽろ出しちゃ駄目だよ。一応、三人とも一般人っぽいし」


 どうやらこの二人、基、この店の者は、どこか三人とはまた別の立場にいる人間らしい。時々漏れる言葉が、それを物語っていた。

 南の言葉を聞いた理夜は、鼻で笑って、また言った。


「お前の目は本当に節穴だな。こいつらがただの一般人だと? 馬鹿を言うな。一人は呪物、一人はとんでもない呪術師だぞ。見ればわかる」


 ゲップもせずに理夜は炭酸水を飲み干す。不思議で口の悪い美女が、何処かのお笑い芸人のように炭酸水をゴクゴク飲み干すという、妙な光景を見ていると、また店の奥の扉が開かれた。


「おい、南、片山さんに連絡したいんだけど」


 扉から出てきたのは、多少屈強そうな、ぎらぎらしたピアスだらけの耳を男だった。燃える様な赤い瞳は、理夜と似ている。イトは一瞬、身構え、その男を見上げた。


「……南、何でこんなのを店に上げた。早く外に放り出せ。お前に情が移る前に」


 男はイトを見て、そう言った。え? と、南が不思議そうな顔をしている。上から睨まれる不快感に、イトは再び舌打ちで返した。


「……行こう二人とも。こいつらの話は意味が分からない。体調も良くなったし、こいつらは明らかに頭がおかしいし、歓迎はされてないみたいだから」


 イトはハルの腕を掴み、立ち上がった。ポケットに忍ばせていた財布から、千円札二枚を取り出して、カウンターに叩きつける。


「牛乳三杯には足りてるでしょ? お世話になりました。二度と来ませんから」


 下から、イトは南を睨みつけた。おどおどと、何処か慌てた様子で、何も言い返せずに南は、イトとハルを送り出す。それに続いて、ランが一度、南に振り返って、御辞宜と共に、月ノ堂を出た。

 三人の後姿が消えた頃に、理夜は切り出した。


「了、何で殺さなかったの? 殺せばすぐに異界は壊せたじゃない」

「……片山さんからの指示だよ。核が店に入って来ても、追い出してくれって。何か考えがあるんだろう」


 了こと了香は、そう言って頭を掻きむしる。ずっとポケットに突っ込んでいた手は、血だらけだった。

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とりいくぐりてあきをまつ【表】 神取直樹 @twinsonhutago

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