呪言の園に生命は堕ちる

 三人が住む亥島の商店街は、田舎と言われるほどでもなく、都会と言えるほどでもなく、所謂『過ごしやすい街』である。閑静で、地域には老人も子供も、バランスよく存在する。若い者達は近くにある大きな亥島駅で中心街へ通勤し、夜は家の近くの酒場で酒を嗜む。子供達は、少し大きな神社近くの図書館で勉強したり、少し歩いたところにある、また違う開放された神社の敷地で遊ぶことが出来る。歴史に取り残されたような、風情ある街並みが、そこにはあった。

 そんなありふれた日常の風景を、ランはまるで初めて見たかのように、目を輝かせて見ていた。


「ランって駅来たこと無いの?」


 皮肉交じりにハルが笑う。それに対して、ランは楽しげな表情を一瞬強張らせて、唾を飲む。


「どうしたラン」


 イトが肩を叩くと、けろっと表情を戻して、口を開いた。


「何でもないよ。いつもは家族でしかここまで来たこと無かったから、ちょっと楽しくて」


 そうだったかと、イトは思考を巡らす。ただ、その先、何か引っかかる蜘蛛の糸のような、そんなもので脳味噌は動きを止めた。どうも、疲れているらしい。ランとの少し前の会話も、幼少期も、上手く出てこない。


「イト、君こそ大丈夫?」


 ランがイトの顔を伺うようにのぞき込んだ。それに合わせて、ハルも二人、覗き込むように目を見た。


「大丈夫。遊び疲れかも」


 様子の明らかにおかしいランとイトを見て、ハルが首を傾げる。だが、ランはヘラヘラと笑うばかりで、反論も、否定形も発しない。イトの方は、やはり体調不良か、青い顔に、わずかな冷や汗が見えた。


「ちょっとイト、アンタ、朝から変よ。ずっと顔が青いままじゃない」


 ハルがそう言って、イトの顔に触れる。暖かいハルの手指を知って、イトがその手を掴んだ。驚く顔のハルを置いて、イトは再び思考に陥る。

――――

 直感でその思いが脳を掛けた。だが、直ぐに冷静になって、自分が考えていた言葉に、一種の恐怖と異物感を感じた。


「イト? 大丈夫なの?」


 ハルが唱えた言葉で、やっと、我に返る。手を離した。ただ、それでも、その異物のような言葉は何度も頭蓋の奥で反復する。


「イト、気分が悪いなら、熱中症かもしれないよ。近くのカフェにでも寄って、少し休もう。帽子も被らずに皆で出てきたから、体温が上がってるかもしれない」


 ランの心配そうな表情に、ハルもうんうんと頷く。いつもは喧嘩もする双子の妹であるが、こういう時ばかりは、悪意も殺意も引っ込めて、少女らしい表情を見せる。


「……月ノ堂が近くにある。行こう。まだ朝早いし、特別展も今日は夜までやってるし」


 了承と理解を込めて、イトがそう呟く。それに頷いて、彼の手を引くように、ハルが細い路地に入って、振り向いた。


「こっち、近道だから。ラン、イトの背を押してやって」


 ランがイトの背を撫でながら、わかったと、ハルの声に呼応した。すまない、とだけ呟いて、イトはハルの後ろを辿る。自分も何度も通った道だった。時々、不自然に小さな鳥居や、小さな社があり、背に悪寒を這わす。そんな道だった。ただ、ランはそんなイトとハルにとっては普通である道の、小さなオブジェにも反応し、一緒に飾られている狛狐や龍の石像に、感嘆を漏らす。少々、可愛い奴だなと、ハルは鼻で笑った。


「少し良くなった?」


 鼻の音が聞こえていたらしいランが、そう尋ねる。


「いや、お前が、神具に一々反応するから」

「だって、こんな隠れたところに可愛いお狐さんや龍がいるんだもの」

「それ、俺とハルが練習で作ったやつとかだよ。商店街の人が可愛いって言って持ってくんだ」


 友人の作ったものに、そうとは知らず可愛らしいと声を上げていたランを、イトは静かに笑う。ランはまた、目をキラキラさせて、イトを見た。


「凄いね、二人とも。手が器用なんだ」


 うふふと、機嫌良く、ランは謳う。それは少女にも近い、清らかなものである。瑠璃色の瞳を細め、少し長めの黒髪を合わせ、服装さえ女性らしくすれば、少女の見た目にもなる。ただ、それを本人は気にしているのか、今日の服装は、少年らしい、シャツとズボンであった。


「ちょっとイトー? 大丈夫? もうすぐ月ノ堂よ!」


 最早、目的が、休憩というよりも、朝言っていたかき氷に移っているのではないかと思えるほど、振り向いたハルの笑顔は眩しい。元々、意識が色んな所に移りやすいハルだが、それ故に、本質を見誤ることも多い。気分の悪さは常に最高潮を更新し、今、ここで、小さな神々の御前で、戻しそうになる程であった。それが見えていないようだから、ハルは、やはり、人を見る目が無い。


「……歩ける?」


 傍に待つランが、心配そうな表情を再び掲げた。それをばねにするように、イトは地面を踏みつける。


「大丈夫。ここでへばってもしょうがない」


 ランの差し出す手を握って、ハルに向かった。手を差し出したはずのランは、イトに引かれるように歩む。細い道の先、開けた私道が見えた。





――――ところ変わって、少年は一人、カランカランと何かの扉を押した。視界が歪んでいる最中、ふわりと鼻につくコーヒーの臭いが、吐き気を強める。


「いらっしゃいま……え?」


 見慣れない店である。高級品でまだ飲んだことのないコーヒーという物の臭いが辺りに濃く漂い、店主らしき青年は居酒屋のような机の囲いの中で、自分を見つめて驚いている。青年の目は黒く、髪も黒い。漆黒が、鴉の羽のように見えた。


「ちょっと待って! えぇ!? 待って! 異界じゃないのに! 了! 理夜! 誰かいないか!」


 若々しい、通った声が少年の耳をつんざく。爆撃の音で耳がやられている。少しずつ、青年の言葉が遠ざかっていることがわかった。

 膝から崩れ落ち、自分の体重の軽さを知る。肉の無い細腕でも、上半身は重力に逆らえた。清潔に保たれていた床に、自分の穢れて汚い血液が止めどなく垂れる。出血量から、いつ死んでもおかしくないと、冷静に分析できてしまった。


「止血! 止血! 何処から出てるんだこの血! 何があったの! 君!」


 青年の言葉が上手く咀嚼できず、ハハっと、思わず、声を出して笑ってしまった。青年が目を丸くしている間、少年は揺らめく視界と思考に身を落とす。


——ここは戦場ではない。この青年がそれを示している。ここは俺のいるはずのない場所だ。この鼻につく苦い豆の臭いと、平和な無音がそう言っている。


 少年は平穏さを恨む。青年は土気色になっていく少年の顔に、更に焦りを加速させた。置くの扉が勢いよく開く。少しばかり体格の良い男と、ゆったりとしたスカートの女が、雪崩のようにこちらに向かう。


「南! どうした! そいつはなんだ!」


 駆け寄った男が、青年を南と呼んで、少年の肩を持つ。無理やりに寝かせようと、とんと南に体を預けさせる。仰向けになって、ようやく、もう一人の男の顔を見る。


「……あま……つ……?」


 少年には見覚えがあった。見覚えという以上のものであった。ずっと、憧れ嫉妬した存在を、男に見る。


「何? 何だ? 何を言ってる?」

「了、この子、錯乱してるみたいで……」


 急にまた耳鳴りのように、音が遠くなる。了と呼ばれていた男の赤い瞳が、酷く懐かしくて、少年は目を細める。


「     !」


 もう一人、女が、少年と目を合わせる。その顔を見た時、少年は、ハッと目を開いた。


「……朝夜! 朝夜!」


 少年が縋る手の、その女は、黒い長髪を流して、男のような逞しい赤い瞳で、意識を放り投げる少年に、ただ困惑していた。少年の黒い軍服のようなものの胸、傷つき辛うじて読めるそこに、『稲荷山』の文字を見る。

 止血に勤しもうと手をかけた三人は、一度、顔を見合わせた。

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