盲目は踵を返し
フッと、上半身を起こす。窓枠の中の空は青い。夏を告げる蝉の声は鳴り止まない。勉強机に詰まれた漫画本が、目の端にある。
困惑のひと単語に、イトは飲まれていた。
先程脳を掻きまわした棒は、その手にも布団にもない。荒れた息だけが、自分を事実に向き合わせる。
あれは夢だ。ハルと共にいた、あの鳥居の前の出来事は、全部悪い夢であったのだ。一日ランと遊んで、夕方、神社の前でランを待ち、ランに突き飛ばされて、アイスの棒が頭蓋と背骨の間をすり抜け脳に刺さって、死んだ。あれは夢だ。鳥居を潜らず待ち続けたあの日は、嘘だ。
「イト?」
布団で呆けるイトを呼びかける声が、下の階から甲高く鳴る。
「ハル!」
自分より一時間くらい、双子の妹はいつも早く起きる。ハルがそこに存在することを、一早く確かめたかった。夢という正解を確かめたかった。駆け足で階下に降りていく。日常の風景を目の外に置いて、襖の中を走る。
「何よそんな大声出して。寝る前にホラー漫画でも読んだ? 汗凄いわよ」
べっとりと纏わりつくシャツの、拭えない体液の質感に吐き気を得る。そんなイトを見ても、ハルはいつもの調子で笑っている。
「新しいの買ったなら私にも読ませてよね」
ケラケラと体調の悪そうなイトを見ながら笑う。ハルとイトは双子であるが故か、趣味嗜好が似ていた。
「あぁ、買ったらな、買ったら」
先週漫画を一冊買ってから、イトは新しいモノは買っていない。彼女に貸し出す漫画は無いし、昨日、寝る前に読んだのは異世界ファンタジーもので、ホラーのそれは微塵も無かった。そもそもイトも中学二年生で、漫画本を読んだ程度で、それが夢に出てくる歳でもない。
「朝飯食う? 冷やし茶漬け作れるわよ」
リビングまで共に歩いたハルが、冷蔵庫に手を伸ばし、その中の冷やした出汁を取る。イトはそれに答えるまでもなく、傍の炊飯器に手をかける。
「俺、鮭」
茶碗にイトが飯を盛る。ハルは鮭のほぐし身を取り出して、氷を盛った。
「今日どうする? 夏休みも残り今日入れて三日よ? 遠出でもする?」
ハルの言葉に、イトは『明日は八月の三十二日』そんな夢の中の会話を思い出す。
「……いや、近所で過ごそう。ランでも誘ってさ、フラフラしようぜ。カフェにでも行こう」
きっとランはいつも通り、部屋の中で勉強でもしているのだろう。そう思って、イトは彼を家から引きずり出す算段を考えていた。何せ、あそこは母親の縛りがきつく、あの女性がいなくなる時間を狙って連れ出さなければならない。一度連れ出して、夕方返してやれば、遊んだってしまったものはしょうがないとなる。
「私かき氷食べたい。月ノ堂のスイカ氷」
ふむ、と、ハルの言葉を聞いて、イトは頷く。神社と亥島駅の間辺りにある、月ノ堂という店は、学生にそれなりに人気のカフェで、美味い菓子が安い値段で食べれる。近くに住む二人も、よくお世話になっていた。そこの店番をしている、
時計を見れば、今は朝の八時で、ランは起きているだろうし、彼の母親も仕事に出ている時間である。ランを連れ出す時間を考えれば、月ノ堂も丁度良く開いている時間だ。
「俺メロン食うわ。飯食い終わったらランの家に……」
イトがそう言いかけた時、ピンポンと、インターフォンが鳴った。
「誰? 郵便?」
ハルが米に出汁をかけ、完成した茶漬けを机に置く。イトは完成したそれを頬張り、口がいっぱいで相手する気は無いと、ハルに訴えた。ハルは短く溜息を吐き、インターフォンのカメラを見る。
「あれ?」
不思議そうな声を、ハルが出して唸っていた。首をかしげる様子は、見ているこちらも不思議でならない。
「どうした? 宗教勧誘か?」
イトがもりもり茶碗の箸を止めずに言っていると、それを無視して、ハルは玄関に急いだ。様子の慌てぶりに、イトもハルを追いかける。
玄関の引き戸に手をかける。ガラガラと騒音を立てて、隔てた向こうの人影を現した。その人物に、イトもハッと脳を覚醒させる。
「二人とも、起きてたんだね。遊ばない? もう、夏休みも終わりだし」
それはラン。家からそう簡単に出てこない、件のランであった。
「ラン? 何でまたお前が? 勉強は良いのか?」
驚きに、そんな言葉が出た。いや、遊ぼうというのは普通ではある。だが、ランという少年にとって、それは普通ではない。
夢の中の異常性と、今の異常が、イトの中で混同していた。頭がぐらりと揺れる。共に、視線も揺れた。
「イト? 大丈夫?」
ランが、イトを心配そうな目で見ていた。ハルも不思議そうにイトを見る。
「あぁ、大丈夫だ。すまん。飯を一気にかきこみすぎたかも」
冗談交じりにイトは言った。脳の曇りを振り払う。夏休みが終わるからと、きっと、親が許したのだろう。そう思うことにした。来年は受験で忙しくなる。イトとラン、ハルの仲が良いのは親達も良く知っていることであったし、それくらい当たり前であろうと思った。
「俺達も、丁度お前を誘おうって話をしてたんだ。ちょっと待っててくれ。ハルが朝飯を食い損ねてる」
だから上がれと、イトは笑顔で促した。それを、ランは笑顔で返す。だが、足は一歩も動かない。どうしたのだろうと、イトは目を丸くすると、ハルが言った。
「入って、ラン。お茶飲んでから皆で行こう。アンタも食べる? 冷やし茶漬けだけど」
そんなことが流されると、ランは、うん、と笑顔で頷いて、足を玄関に入れる。ずきりと、イトの心臓の辺りが痛む。目を白黒させて、二人の関係に認知を唸った。幼馴染だ、そんな関係に発展しかけるなんて、安い漫画のストーリーにもあり得る。ただ、それで蔑ろにされた感覚が、何となく、イトの胸を抉った。
「飯、大分余ってるよ。どんくらい食べる?」
気分を立て直し、イトは再び炊飯器の前に立つ。仕事でいない母親の茶碗を手に取って、それをランのものとした。ランは器の中身を見て、ニパっと笑う。
「うん、二人と同じで良いよ」
席についたハルの器の中身を見て、ランはそう言った。彼はそのまま席に座ると、一つ間を置いて、にっこりと笑う。
「鮭で良い?」
ハルが冷蔵庫からほぐし身を出す。
「うん、二人と同じが良い」
ランの表情は、酷く子供のように見えた。いつもが知的で、大人らしいからだろうか。わからないが、イトには、何処か、不可思議な感覚を与えるものだった。圧倒的な違和感に、無意識に爪を噛む。
「大丈夫? 爪、痛くなっちゃうよ」
優し気なランの声が、なんとなく、染みるように痛い。フッと息をかける様に、ランはもう一つ言葉を紡ぐ。
「少し遠出したいな。電車で何処か行こうよ。僕、あんまり皆で街を出たことがなかったから、一回行ってみたいんだ」
そうは漏らさないわがままを、ランが落とす。きょとんとしながら、イトとハルは顔を見合わせた。
時計を見る。時間としては、街二つ超えるくらいなら、平気で遊べる時間である。なら、と、イトが声を上げた。
「一緒に
イトは電話台の引き出しを探って、三枚、チケット状の紙を取り出す。それは明日には終わる、神社の宝物展の割引券で、中学生は無料だと書かれていた。
「良いけど、二人はこういうの見てて楽しめる感じだったっけ?」
ランが失礼なことを言うように、そんなことを言った。ハルは首を傾げて唸る。
「楽しめるかどうかと言えば、楽しめる方よ。うち、神具屋だし。知らなかったっけ?」
イトとハルの家は、商店街の裏手から入るようになっている。商店街側から入れば、工房が共に設置されている、神具屋であった。彼らの父はその職人で、今日は黒稲荷神社の宝物の修理に出ていた。
あまり商店街では目立たない店であり、友人達は皆、裏手の入口から入ってくるため、長い付き合いでも、知らない者はいないわけではなかった。
「私は継ぐ気ないけど、芸術品としては好きなの。蒔絵とか良くない?」
ケラケラ笑いながら、ハルが言った。徐に、ランがイトを見る。
「俺は継がなきゃいけねえけど、神具より屏風画とかのが好き。宝物展って意外とそういうの多いだろ」
ニカッと歯を見せて笑うイトの、目線をそってランが言った。
「わかった。じゃあ、連れてって。一緒に。色々教えて欲しいな」
手の中の茶碗は、既に空である。三人は顔を見合わせて、夏の空気に体を震わせた。
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