とりいくぐりてあきをまつ【表】

神取直樹

プロローグ:鳥居の前で君を待つ

 明日、少年と少女は八月を終える。既に消化済みの紙の束は家に置き、終わりに近づく夏休みの余韻に浸った。夕陽が赤く、遠くを水浸しにしているだろう積乱雲を、上手く、絵画のように照らしている。

 少年は棒付きの硬いアイスを舌で溶かしながら、鳥居の前の数段の階段に腰かける。歯と舌で丁寧に、溶かしていく。舌の感覚が鈍い。はぁっと息を吸って、止まぬ夏の熱気で感覚を戻す。


「イト、それ美味しい?」


 隣に座った少女、少年の双子の妹のハルが言った。彼女は少年と同じ、夕陽をそのまま移植したような、赤い瞳をこちらに向ける。長く空に靡く黒髪が、揺れている。少年と似た声色の彼女は、ねえ、と、少年、イトの肩を叩いた。


「美味しいよ。なんか花壇の土食ってるみたいだけど」


 イトがそうやって笑うと、ハルは怪訝な顔で、自分の氷菓を口に含む。


「花壇の土食ったことあんの? 貴方」


 くふ、と、含んだような笑いを、イトは吐いた。その目は遠くを見つめている。階段の遠く、道の先。そこにはまだ少し昔の臭いを含んだ、電線の蔓延る景色が広がっていた。


「あるよ? 双子の妹と喧嘩して、頭掴まれて、雨上がりの花壇に顔ぶち込まれた時とか」


 棒っ切れの氷の粒は、イトの舌に落ちていく。いたずらっぽくハルを見る彼の表情は、階下、座る妹の困惑の表情を見下すようでもある。


「小学校の時の話じゃない」


 ハルがゆっくりと溶かす氷菓の味は牛の乳。今にも拳が飛び出しそうな彼女の目線を、イトはどう流そうかと頭を抱えた。早くしなければ。食らう氷菓も、甘いべたつく液体になってしまう。


「……お前だって小学校の頃、俺に腕噛み付かれて泣き叫んだの覚えてるだろ?」


 お互い様さ、と、一つ置く。イトはガリッと音を立てて、氷菓子の中に隠れていた、棒の文字を見る。


「明日、また駄菓子屋にでも行こうか」


 文字列の「あたり」をハルに見せて、イトは柔らかな笑みを称えた。


「そうね。明日は幻の八月三二日だし」


 そう言って、ハルはスマホを取り出した。彼女の愛用するそれは、彼女の乾いた性格を表すような、シックな黒カバーであった。メタリックで無骨なカバーは、彼女の細く白い、絹の様な皮膚を貼った指と相乗効果で映える。画面の中、シンプルなスケジュール帳を捲っていくと、そこには、夏休みの期間が書かれた画面が映し出される。


「今年は八月三三日まであるのよ。最後の土日くらい楽しみたいわ」


 八月は本来、三一日までしかない。だが、今年、東京に住む彼等にとって、八月は三三日まで存在した。夏休みを終わらせる始業式は、九月一日と二日の土日に阻まれて、九月の三日に行われる。これを良しとして宿題をだらだらやる者も多い中、二人は秘めたる優等生っぷりを発揮し、早々にそれらを終わらせ、夏の最後を楽しんでいた。

 そうして今日も、街の中を歩き回り、仲間達と遊んで回ったのである。そろそろ、親も心配するような時間になりつつあるが、彼等にはまだここを動けない理由があった。


「それにしたって遅いわね」


 ハルがそう言うと、イトも、あぁ、と、声を置く。二人が揃って向いた先は、階段を上りあがった向こう、神社の鳥居の向こうであった。


「そろそろ日が暮れるから、神社の中にいると怒られちゃうんだけどな」


 待ち人を思って、イトはそう呟いた。溶ける氷菓は既に食べ終わっていた。赤く大きな鳥居の向こうには、この街でも最も大きいと言われる神主一家の屋敷と、拝殿、その奥の本殿が見える。この神社は街では黒稲荷神社と親しまれており、黒い狐の様な、狼の様な、巨大な獣を祀っていると言われていた。この街で育った二人や、他の人間達の中の常識に、黒稲荷神社には、日が暮れたら、入ってはいけないとされていた。その黒稲荷神社に、一人、イトとハルの友人が、入ったままなのである。入った理由はくだらない。便所を借りてくる、とだけで、大か小のどちらかを出しに行ったのである。


「遅いな、ラン」


 イトは当たり棒を咥えてそう言った。ランというのは、彼等の待ち人である。彼は二人とは幼馴染という奴で、大変優秀な青年であった。学校の成績は常に上位に入り、部活動も積極的、非の打ちどころのない、あまりにも気持ちが悪い青年である。ただ、それを維持するために、何処か精神を擦り減らしている部分があるのかもしれない。よく、消化器を弱めては、トイレに駆け込む、といった面もあった。思えば、今、彼等は中学二年生。その夏休みだ。早ければ、既に、高校受験に向けて対策を講じれと、親から言われている者もいるだろう。成績上位者で、品行方正の彼のことである。親から何か言われているに違いは無い。そんな中で、夏なのだから外に出ようと引っ張り出してきたのは、間違いなくイトとハルの二人であった。


「心配だ。ちょっと見てくるよ」


 ハルにそう言って、イトは階段を上る。日が落ち逝く時だった。鳥居を潜る。イトのいつもの癖で、鳥居の柱に手を触れる。がさっと、何か溝のようなものに触れた気がした。いつもは感じない違和感に、彼は咄嗟にその手で触れた部分を見る。


『僕を忘れないで』

『私を忘れないで』

『俺を忘れないで』

『あの一夜を忘れないで』


 昨日は無かったはずの、その文を見て、ぞくりと背筋を這う何かがあった。その異質感が、不気味で仕方がない。ただの悪戯であると思えばそうである。だが、そう思おうにも、無理がある。本能が、それはと伝えている。


「ハル!」


 イトは後ろを振り返る。逃げようと叫ぼうとした。その時、自分が、足を滑らせていることを知った。手に持っていた木の棒が、石の階段を跳ねる。ハルが酷く驚いた顔をしていた。咄嗟に手をついて、受け身を取ろうとする。だが、そうしようとしたとき、また一つの違和感に気づく。自分が階段から足を滑らせそうになった時、背を、誰かが押していた気がした。慣性で、背から落ちる。後ろを見ることが出来た。


「ラン!」


 ハルの声が聞こえた。イトが理解できた情景、自分を後ろから押したであろう人物は、紛れもなく、自分がよく知る人間であった。

 それは本名を稲荷山いなりやま絲世いとせと言う。紛れもなく、イト、落ち逝く自分自身、その本人であった。


 喉裏、頭蓋骨の穴に、何かが刺さる感覚が一瞬だけあった。

 あぁ、本当にやがった。そう思った。

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