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二〇三二年十月十日(日)
羽野国明が急死してから十五年後
万雷の拍手が、ステージ上の少女を包んだ。グランドピアノの前で、白いドレスが輝いている。
傍らには母親が控えていた。少女は目が不自由だ。司会者がマイクを向けると、少女は「今日は来てくださってありがとうございます」とはにかんだ。
「はじめまして。古塚麻由美です」
それが盲目の天才ピアニストの名前だった。次の曲に移る前に、麻由美は自分がピアノを始めた経緯を語る。
まだ麻由美が幼く、将来目が見えなくなるかもしれないと分かったばかりの頃、トラック運転手だった父親が交通事故を起こしかけた。運転中にうとうとしてしまい、交差点を横断中の男性を危うくはねてしまうところだったらしい。
父親が平謝りすると、その男性は泣きながらこう言った。
「身体を大事にしてください。いくら娘さんの目が治っても、そこにあなたの姿が見えなかったら、全然嬉しくないですよ」
面識のない男性が、なぜ麻由美のことを知っていたのかは分からない。けれどもこの一言で、父親は目を覚ました。娘のために無理して働いてかえって不幸になるより、娘が「目は見えなくても幸せだ」と言えるくらい愛情を注ぐべきだと気づいた。
麻由美は手術を受けず、結果的に全盲になったが、素晴らしいパートナーに出会うことができた。盲導犬のチェルニーだ。突然飼主が亡くなって、トレーナーのもとに引き取られてきた犬だという。その名の由来を知って、麻由美はピアノに興味を持った。初めておもちゃのピアノを鳴らしたとき、チェルニーが嬉しそうにワンワン吠えた。それが嬉しくて一生懸命練習していたら、いつの間にか麻由美の才能が大きく花開いていたというわけだ。
人間と違って、犬の一生は短い。「チェルニーは昨年亡くなってしまいましたが、いまでも大切な私の家族です」と麻由美は話を締めくくった。
「次の曲は、チェルニーと、私をこのステージに導いてくださった人たちのために演奏したいと思います」
母親の佳代子が、麻由美の手を取って椅子に座らせる。麻由美は優しく鍵盤を撫で、弾き始めの位置を確認した。柔らかな拍手の後に、一瞬の静寂。
麻由美の指先から繊細な和音がこぼれ出し、満員の客を夢見心地にさせる。曲目は、ドビュッシーの「月の光」だ。
客席の最前列よりも前に、男が一人堂々と立っていた。もちろん、そんな場所に立見席があるはずもない。それなのに観客も演奏者も、誰ひとりとして彼を見咎めなかった。
肩まで伸びた黒髪は、パーマが取れかかってごわごわと広がっている。黒いスーツも赤いネクタイも安っぽい。サブカル美大生が渋々リクルートスーツを着ているような外見だ。男には、相変わらず決まった名前がない。
男の仕事は、幽霊に過去を変えさせることだけではない。自分の担当した幽霊が過去を変えた結果、何が起きたかを確認するのも重要な役目だ。人間界にとって有益な影響を与えられたかどうか、「上」に報告するのだ。
男は知っている。死人には目も鼻も口も、耳もない。羽野国明には、古塚麻由美のピアノは聴こえない。それでもこの音色を届けたいという思いが、確かにこの少女を強く生かし、大勢の聴衆にまでつかの間の幸福を与えている。羽野が好きだったタワレコでは、彼女のCDがたくさん売れているという。彼は自分の生死なんて「人間社会にさしたる影響もない」と思っていたが、それは大きな間違いだ。
演奏を最後まで聴かずに、男は指をパチンと鳴らして次の仕事に向かう。白い菊に覆われた祭壇に、まだ十歳にも満たない少年の写真が飾られている。激しく
母さん、父さん、なんで泣いてるの? 祭壇の写真と同じ顔の少年が、すぐ傍で不思議そうに見つめている。その背後から、男は声を掛けた。驚いた少年が尋ねる。おじさん、誰?
男は真顔でこう答えた。
「私の名前はバイエル。――天使だ」(了)
月の光はきこえなくても 泡野瑤子 @yokoawano
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