6
出棺の曲は、バッハのG線上のアリア。
あの世へ送り出すのに悲し過ぎず重過ぎず、かといって軽薄でもなく、遺族の心を慰めてくれる美しい旋律。悪くない選曲だ。ヨネダコーヒーの川井店長が来てくれたおかげで、参列者は九人から十人に増えて二桁の大台に乗った。ただ、ミチエのギャルメイクをやめさせることができなかったのが、兄として少しだけ無念ではある。
「迎えに来たぞ。ハノン……いや、もう羽野君と呼ぶべきだな」
バイエルに会うのは、ずいぶんと久しぶりな気がした。
「やっぱり、うまく行かないもんですねえ」
「何を言う。成功したじゃないか」
「まあ、確かに過去は変わりましたけど」羽野は苦笑した。「これを成功って言っていいのかなあ。チェルニーの命を引き換えにして事故に遭わずにすんだのに、結局その一週間後に死ぬなんて」
あのとき、チェルニーが空から降ってきて、羽野はほんの少し後ずさった。そのおかげで古塚さんのトラックにははねられずにすんだ。しかし、何も知らない過去の羽野が慌ててチェルニーを払いのけたはずみで、彼女はタイヤの下敷きになってしまった。
その瞬間、ハノンは羽野と一体化して、ひとりの羽野国明に戻った。トラックから降りてきた古塚さんは、声を上げて泣きじゃくる羽野を見て頭を路面にこすりつけた。「恐ろしい目に遭わせてしまい、まことに申し訳ございませんでした」と。でも本当は、チェルニーが死んで悲しくて泣いていたのだ。
そうまでして生き残ったのに、羽野は翌週の火曜日にヨネダコーヒーの更衣室で倒れて、そのまま二十九年の生涯を終えた。死因は心不全だった。
「あーあ、ついてないな、俺」
「私の見解では、君の死は運の問題ではない」
不規則な生活習慣と偏った食事が祟ったのでは、とバイエルは分析する。反論の余地はなかった。
「たった二十四時間遡ったところで、どうにもなりませんでしたね。すみません、せっかくチャンスを頂けたのに」
「謝る必要はない。君はチェルニーとともに過去を変えることに成功し、寿命が一週間延びた。人生の価値は長さではない。まして葬式に来てくれる人数でもない。いまの君なら分かるだろう」
「はい」
事故を回避してから死ぬまでの一週間、羽野はやりたいと思っていたことを何でもやってみることにした。積んでいたCDを残さず聴いた。フランス語のラップもいいもんだと知った。中古の安いキーボードとピアノの教則本を買ってみた。ハノンの一番を弾くのに三十分かかった。街角に捨てられていた子犬をこっそり連れ帰って、チェルニーと名付けてみた。首輪に名前も書いてやった。ピアノの音を鳴らすと、犬のチェルニーは嬉しそうにワンと鳴いた。
たった一週間だったけれど、羽野はそれまでの二十九年よりもはるかに有意義に生きた。これまでよそよそしい他人だった人生が、こっちを向いてにっこり微笑んでくれたようだった。「おーい」と声をかけたのは羽野自身だ。
死ぬのはそれほどつらくなかった。生き延びてからの一週間に満足できたし、天国に行けたらまたチェルニーに会えるかもしれない。「天国なんてないぞ」とバイエルが否定するかと思ったが、彼は何も言わなかった。
「でも」と羽野は付け足す。「ザフクロのライブ、行ってみたかったなあ。せめてライブDVDくらい観たかった」
「ブルーレイだろうに」
バイエルがいちいち訂正するので、泣きたい気持ちが引っ込んでしまった。羽野にはもう、涙を流すことはできないのだけれど。
少しずつ、視界がぼやけていく。バイオリンの音も、線香の匂いもだんだん曖昧になってきた。いよいよ羽野は幽霊から死人になるらしい。バイエルにお礼を言ったけれど、最後は声にならなかった。
「羽野君、いまでも君は、私を天使だと思うか?」
羽野が答えることはない。死人に、口なし。でも、きっとバイエルには伝わっているはずだった。
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