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二〇一七年十月十日(火)午前一時

羽野国明が事故死するまであと十三時間


 結局、タワレコには閉店までいた。バイエルには呆れられたが、英気を養うために必要な時間だったと思いたい。

 何しろ、これから徹夜仕事なのだ。別の仕事へ向かったバイエルと別れて、ハノンは羽野の部屋に向かった。次にバイエルに会うのは、羽野国明が本当に死ぬときらしい。

 夕方まで寝ていた羽野はなかなか寝つけないようだったが、午前一時を回った頃にようやく寝息を立て始めた。ハノンは知っている。羽野は豆電球を点けておかないと眠れないたちなのだ。だから、部屋の中は真っ暗ではない。

「よし。チェルニー、僕の言うとおりに頼んだよ」

 オーディオの陰から、チェルニーがカサカサ現れた。

 ハノンは少しも眠くならなかった。でも、蜘蛛のチェルニーは眠かったはずだ、たぶん。それでも彼女は、羽野とハノンを助けるためだけに、朝まで不眠不休で頑張ってくれた。もちろん、チェルニーは眷属として命令を聞いてくれているだけなのだが、ハノンはとても嬉しかった。こんな自分でも、生きる価値があるんじゃないかと思えてくる。

 暗がりの中で、ハノンはチェルニーのために歌を歌った。最初は、タイトルに「蜘蛛」か「スパイダー」がつく歌を思いつく限り。でも暗い歌ばかりで、可愛いチェルニーにはふさわしくなかった。だから次はザフクロの「月の光」を歌った。彼らがデビュー間もなくて、まだCDシングルの直径が八センチだった頃、カップリングに収録された隠れた名曲だ。「今夜は月がきれい」「君だけのために歌うよ」「ちっぽけな僕らふたり確かにここにいる」「愛してる」キザなラブソングだった。

 ファン歴が長い割に歌詞はうろ覚えだし、そもそもハノンはあんまり歌が上手くない。かまうもんか、怒鳴り込んで来る人なんかいない。チェルニーにしか聞こえない大声なのだ。

 オーディオからパズーのラッパが鳴る直前、ようやく準備は完了した。カーテンの隙間から、お天道様の光が漏れ入ってくる。

「ありがとうチェルニー。ゆっくり休んでね」

 午前七時半。羽野国明が事故死するまで、あと六時間半。

 うーんと唸りながら、羽野は掛布団を抱いてごろごろしていた。彼が起き上がるのは曲の最後まで聞いてからだ。ハノンは固唾かたずを飲んで見守る。

 ぼさぼさの頭で停止ボタンを押したとき、羽野は指先にねばつく感触を覚えたらしい。彼は怪訝な顔でオーディオを見て、そして叫び声を上げた。

「何これぇ!?」

 われながら情けない声だな、とハノンは思う。まあ、気持ちは分かる。痛いほど。

 羽野の大事なオーディオに、蜘蛛の糸が網状にびっしり絡みついている。しかも、よく見ると網には濃淡があり、濃い部分は文字として読める。まるで学校の先生が黒板にチョークで文字を書くように、チェルニーはオーディオに糸でメッセージを書いた。


 ハノ ラルゴ イクナ


 これが、ハノンがない知恵を絞ってなんとか考えた、過去を変える方法だった。メッセージは上手く伝わったらしい。朝日にきらめく蜘蛛の巣を前に、羽野は目を見開いて硬直していた。

「『羽野、ラルゴ、行くな』? 何これ怖い……この部屋、事故物件だったっけ……?」

 事故物件ではないが、いま部屋の中に幽霊はいるし、これから住人が事故死するかもしれない物件である。

 蜘蛛の巣除去のためにバイトを休んでくれればいいのに、羽野は予定通り出勤することにしたようだ。ただ食欲が失せたのか、あんパンには手をつけていない。ほんの少しだけ過去が変わった。

 羽野はスマホで「蜘蛛の巣 掃除」と検索しながら、バイト先の喫茶店へ向かう。その耳元で、自分の幽霊が「歩きスマホやめろ」「事故るぞバーカ」と罵っていることには気づきようがない。

「あれ、どうしたの羽野君? 元気ないねえ」

 ヨネダコーヒーの更衣室で川井かわい店長に聞かれると、羽野は大事なオーディオに蜘蛛が巣を作ったとだけ言った。

「へえ、羽野君って音楽好きなの? 何聴くの?」

「何でも聴きますけど、邦楽だとザフクロが好きで」

「マジで!?」店長が目を輝かせた。「俺ファンクラブの会員番号ひとケタだよ!?」

「マジっすか!?」羽野も目を輝かせた。その背後でハノンも同じ言葉を発している。

 午前九時、あと五時間。開店時間だ。「後でゆっくり話そう」と約束して、二人は仕事モードに切り替わる。また過去が変わった。まさかこんなすぐ近くに、同好の士がいるなんて。

 午前十時。あと四時間。ハノンが見る限り、羽野はてきぱき働いていた。オーダーを正確に通し、お客さんの会話の邪魔にならないようさりげなく商品を運ぶ。愛想は特別良くはないが、気になるほど悪くもない。あれ、俺ってそんなにだめでもないかも?

「カルボナーラ、ひとつ」

 正午。あと二時間。例のイケメンがやってきた。羽野がごくりと唾を呑むのが分かる。あんパンを食べていないから空腹だろう。もちもちの生パスタ、コク深い極上の生クリームソース、黄金色に輝くこだわりたまご。抗いがたき誘惑に、幽霊でさえ食欲が沸くほどだ。でも今日だけはだめなんだ。羽野、ラルゴ、行くな!

 午後一時。あと一時間。羽野のシフトが終わる。長いトイレの後で着替え、店長に手を振って店を出た。ハノンはこれが永遠の別れになりませんようにと祈る。 そのまま自分の部屋に帰れ。昼食はコンビニですませろ。だが、羽野の足はラルゴの方へと向かった。なんでだよ、ラルゴには行くなと言ったのに!

 と思いきや、羽野はラルゴの前を通り過ぎて、スマホを見ながら三軒隣の店へ入った。百円ショップ「カン★ドゥ」だ! しまった、とハノンは人知れず叫んだ。蜘蛛の巣を除去する道具を買いに来たのだ。これではラルゴに行かなくても、事故に遭ってしまう可能性がある。

 早く店を出ろと祈るハノンの心を知らず、羽野はお菓子コーナーや収納グッズをのんびり物色した後、ようやく小さなほうきを選ぶ。ついでにカップ麺とお茶も買い物カゴに入れた。店を出て、来た道を引き返す。交差点で信号を待つ羽野。ハノンにはふらふら走ってくる二トントラックが見えた。古塚さんだ。

 信号が青に変わった。羽野が横断歩道に踏み出す。古塚さんのトラックが迫る。

「チェルニーッ!」

 もはやハノンには彼女の名前を呼ぶことしかできなかった。

 空から、蜘蛛が降ってきた。

 パズーではない羽野は、顔の上に落ちてきたシータではない蜘蛛に仰天し尻餅をついた。急ブレーキとけたたましいクラクションの音、通行人の悲鳴。羽野もハノンもぎゅっと目をつむった。

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