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二〇一七年十月九日(月祝)午後七時
羽野国明が事故死するまであと十九時間
ハノンは羽野の部屋にも、バイト先のスーパーにも向かわず、そのままJRの最寄り駅に向かった。
生まれて初めての無賃乗車だ。もちろん、死んで初めての無賃乗車でもある。ちゃんと電車に乗れるのかは少し不安だった。車両がハノンを通り過ぎていくんじゃないかと心配したが、電車は幽霊をきっちり運んでくれた。
ハノンはもちろん改札を通らなかった。ターミナル駅の人混みも、幽霊には関係ない。そのまま歩いたり飛び降りたりしながら駅周辺のビルを次々にすり抜けて行く。向かった先は、羽野行きつけのタワレコだった。
すでに彼自身が言った通り、羽野とハノンはタワレコが大好きだ。店内の明るい雰囲気、アーティストに会えるインストアライブ、音楽を愛する店員さんによる手書きのPOP。日本の人気シンガーソングライターも、海外から来た未知のアーティストも、ポップスだけでなくクラシックもレゲエも雅楽も、あらゆる音楽が揃っている。ハノンは何時間でもここにいられる気がした。
「いったい何をやっているんだ、ハノン」
再び背後にバイエルが現れたのは、ハノンが試聴機の前で尻を突き出しているときだった。
「何って……聞かなくても分かるんでしょう」
ハノンは身をよじりながら、ヘッドフォンに頭を突っ込もうとしていた。どうにか試聴できないか試していたのだ。けれども、チェルニーのか細い脚では再生ボタンを押すことはできなかった。
「過去の自分が死なない方法より、試聴機を使う方法を真剣に考える幽霊は初めてだ」
バイエルの言う通り、過去を変えるためにタワレコに来たわけではない。ただ来たかったから来ただけだ。
「ほら、『ノーミュージック、ノーライフ』ですから」
「君はいままさにノーライフなんだぞ」
「羽野が死なない方法なら、いちおう考えたんですけど、今晩あいつが寝てる間じゃないとできないことなので。それに……」
店内にはもうすぐ発売される新曲が次々と流れている。ハノンはしばらく耳を傾けた後、つぶやくようにこう言った。
「俺、もうタワレコに来られなくなるかもしれないですし」
「生き延びるのを諦めたのか?」
「ううん……むしろ逆、かな」
本当は問う必要も、答える必要もないはずだった。
「バイエルさん、ちょっとだけついて来てもらっていいですか?」
眷属ではないのに、バイエルは邦楽売場を歩くハノンが立ち止まるまで従ってくれた。
「これ、俺が子どもの頃からずーっと好きなバンドです」
その名は「the Fukrocks(ザ・フクロックス)」、通称ザフクロ。知る人ぞ知る、男性三人組のロックバンドだ。ハノンの年齢と同じくらいのキャリアをもつベテランで、いまやすっかりおじさんなのに変わらずカッコいい。爆発的にヒットした曲があるわけではないが、バンドにありがちな「音楽性の違い」による解散もしないで、レコード会社を転々としながら息の長い活動を続けている。
「ここに来れば、少しくらいは『死なないようにがんばるぞー』っていう気持ちが湧くかなーって思ったんです。来月はザフクロのライブDVDが出るんですよ。俺、ファン歴長いのに一回もライブ行ったことないままだったんですよね。死なずにすんだら、せめてDVDくらい欲しいなあ」
「ブルーレイも発売されるようだな。買うならブルーレイのほうが画質も音質も良いぞ」
「そうですねえ」
もちろんブルーレイを買うつもりだ。バイエルの返事は半ば揚げ足取りのようだったが、ハノンは楽しかった。
音楽の話をしたのは何年ぶりだろう。顧みれば、生前のハノン(羽野)はほとんど会話らしい会話をしていなかった。接客マニュアル通りの受け答えと、同僚やコンビニ店員と必要最低限のやり取りをする程度だった。誰も自分の言葉になんて興味がないと思っていた。取るに足らない人間だからだ。「死人に口なし」どころか、生きていたって口がないようなものだった。
でもバイエルはハノンに喋らせてくれる。ハノンの心の声は、全部聞こえているはずなのに。変人だと思ってたけど、意外といい人かもな。そう頭に浮かんだ瞬間、すかさずバイエルが言った。
「私は人ではないぞ」
言うと思った。ハノンにだって、バイエルの心の声が聞こえることもあるのだ。
「『いい人』じゃないなら、天使なのかもしれないですね。死神っていうよりかは」
どうせ聞こえるなら口に出しても同じだ。ハノンは少しの恥ずかしさとともに、胸の内を開け放った晴れやかさを覚える。
「あ」ハノンは思いつくままに付け加えた。「そういや天使って『なんとかエル』っていう名前多いですもんね。ミカエルとか、ラファエルとか」
「天使の名前につく『エル』はE、Lで神を意味するヘブライ語だ。一方『バイエル』はドイツ人名で綴りはB、A、Y、E、R。日本語のカタカナ表記は同じでもまったくの別物だぞ」
バイエルは表情一つ変えなかった。よく見るとなかなかいい男だ。どことなくザフクロのボーカル・森岡サトルに似ていなくもない。
「それに、私は自分が天使だとは思っていない。誰かに定義づけられる必要性も感じていない。私は私だ」
「いいなあ」続く言葉は、自分のために飲み込んだ。
もし生き残れたら、俺もそんな風に自信を持って生きたいな。
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