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二〇一七年十月九日(月祝)午後三時
羽野国明が事故死するまであと二十三時間
羽野が目を覚ましたときにチェルニーがいるとびっくりするかもしれないので、彼女にはいったんご退場頂いた。(ちなみに、お尻から出た糸を伝って天井に登って消えた)
幽霊になったからといって、ハノンは空を飛んだり、ものすごい速さで移動したりできるわけではなかった。ただ、壁やドアをすり抜けることはできるし、高いところから飛び降りても痛くない。鍵のかかった玄関からにょきっと上半身だけを外に出したり、マンションの六階から飛び降りたりを試しては、羽野は「おおー」とひとりで声を上げた。この能力があれば立入禁止の場所に侵入したり女湯を覗いたりできるのでは? と一瞬よこしまな考えが頭をよぎったが、ハノンには実行する度胸も時間的余裕もない。
ハノンは部屋を出た。過去を変えるためには、まず過去のことを思い出さなければならない。羽野が事故に遭うまでの足取りを、先回りして辿ってみる。
羽野は午後四時ごろに起床する。昨日のうちに買っておいたカップ麺を食べ、午後六時から午後九時までは駅前のスーパーで青果のバイト。帰りにコンビニに寄ってチルドの牛丼と気休めにトクホのコーラ、そして翌朝のためにあんパンを購入。食後はオーディオで音楽を聴きながら、ネットサーフィンしているうちに日付が変わる。
十月十日の午前一時過ぎに就寝。起床は午前七時半。目覚まし代わりにオーディオから「ハトと少年」が流れる。「天空の城ラピュタ」でパズーが吹くラッパの曲だ。あんパンを食べた後、午前九時から午後一時過ぎまで全国チェーンの喫茶店「ヨネダコーヒー」でバイト。平日の朝だったがそれなりに客は多く、旦那さんを仕事に送り出した後の主婦たちにはコーヒーと紅茶を、ひとりで辞書とノートを広げている大学生にはカロリーの塊みたいな生クリームとシロップたっぷりのパンケーキを運ぶ。
運命を変えたのは、正午ごろ現れたあるお客さんの注文だ。
「カルボナーラ、ひとつ」
羽野よりも少し年上の、清潔感の漂うイケメンだ。バイエルと違って、高級そうなスーツがばっちり似合っていた。
つられて羽野もカルボナーラが食べたくなる。ただ、給料をもらっている立場で言いにくいのだが、この喫茶店のパスタは全体的にコストパフォーマンスが良くない。八九〇円(+税)もする割に量は少ないし、ソースだってレトルトだ。
羽野は、この辺でパスタを食べるなら「ラルゴ」と決めていた。イタリアで修業した経験のあるシェフとその奥さんで切り盛りしている小さな生パスタ専門店だ。「ゆっくりと」という音楽記号から取った店名の通り、とても居心地がいい店なのである。ものすごく美味しいしお手頃価格なのに混雑していないのは、店主夫妻があらゆるメディアの取材を断り続けているからだそうだ。その理由が「恥ずかしいから」というのも好感が持てた。
羽野はいつもの交差点を逆に曲がり、ラルゴでカルボナーラを食べた。いつもながらおいしかった。――その帰りに、古塚さんのトラックにはねられて死ぬわけだ。
ハノンは羽野が明日死ぬ交差点に立った。
過去を変える方法は、さっぱり思いつかない。
「チェルニー、そこの木の枝のとこに来て」
ハノンが呼ぶと、チェルニーは街路樹の幹を這ってカサカサと降りてきた。街行く人は、誰もハノンの存在に気がつかない。「チェルニー、トラックを止められるくらい巨大になれ」
「チェルニー、糸でこの木をへし折ってみて」
試しにいくつか無茶な命令をしてみたが、チェルニーは微動だにしなかった。いくら彼女がハノンに忠実な眷属だといっても、蜘蛛にできないことはできない。
「じゃあチェルニー、そこの枝に登って」
チェルニーはお安い御用とばかりにしゃかしゃか動いた。
「そこから糸を出して、僕の鼻先にぶら下がってみて」
しゃーっ。チェルニーはハノンの顔面すれすれに降りてきた。人間だったらキスできる近さだ。風が吹いて彼女がゆらゆら揺れると、ハノンは思わずよけてしまった。たとえチェルニーに唇があっても、幽霊のハノンに触れることはできないのだが。
「ありがとうチェルニー。隠れてていいよ」
チェルニーが街路樹の中に消えていくのを見届けてから、ハノンは頭を抱えた。
「過去を変えるっていっても、蜘蛛一匹じゃなあ……」
ハノンは「バタフライ効果」という言葉を思い出した。蝶のようなちっぽけな存在でも、世界に大きな影響を及ぼし得るのだ。それなら「スパイダー効果」だってあるのだろうが、狙った通りに過去を変えるとなると難しい。
いまのところ頭に思い浮かんだ作戦は、羽野が交差点を渡る直前に、チェルニーを上から降らせることくらいだ。まあ、羽野はびっくりするだろう。「わおっ!」くらいは言って、一瞬立ち止まってチェルニーを払いのけるだろうとは思う。でも、それだけで居眠り運転のトラックから逃れられる保証はない。
もっと根本的に、羽野の行動を変えるべきだ。明日の午後二時、この交差点に羽野が来ないようにする、つまりはラルゴのカルボナーラを食べたいと思わないようにするのだ。
お客さんが注文したカルボナーラの上にチェルニーを落とすとか? ……だめだ、お客さんやお店に迷惑をかけてはいけない。なるべく羽野本人以外には干渉せずに、彼がラルゴに行かないよう仕向けなければ。
自分が生きるか死ぬかというときにまでバイト先に遠慮してしまう男、それがハノン(羽野国明)だった。
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