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 二〇一七年十月九日(月祝)午後二時

 羽野国明が事故死するまであと二十四時間


 明日には死ぬというのに、羽野の部屋はとても汚かった。

 八畳一間の部屋には甘辛いソースの匂いが充満している。食べ終わったカップ焼きそばのカラがそのまま置いてあるせいだ。フローリングの床の上にタワレコの黄色い袋があちこちに放置されていて、まるで踏んづけたら転ぶバナナの皮みたいだった。脱ぎっぱなしの靴下は片方だけで、もう一方は雑に取り込んだ洗濯物の下に埋もれてどこにあるやら分からない。

 この部屋にはテレビがない。代わりにPCと、初任給ではしゃいで買った黒いオーディオセットが鎮座している。これを買ったとき、まさかその後二回しか給料が出ないなんて思いもしなかった。クローゼットの中では、小学生の頃から少しずつ買い集めたCDが洋服の三倍ぐらい場所を取っている。

 PCの傍らに、まだ聴いていないCDの塔ができていた。流行りのJポップに新進気鋭の美人ピアニスト、フランス人のラッパー等々ジャンルは様々だが、結局一枚も聴かずに死んだんだな、と幽霊の羽野は妙に感慨深く思った。

 部屋の主――つまり過去の羽野国明は、ベッドの上でぐっすり寝ている。昼寝ではない。昨日はカラオケ店での深夜シフトだったから、昼夜が逆転しているのだ。翌日がハッピーマンデーだったせいで、日曜の深夜でもドリンクやフードの注文がひっきりなしで終始忙しかったのを覚えている。誰かのハッピーの陰には、別の誰かのアンハッピーがつきものらしい。

「羽野君は、CDを買う派なんだな」

 バイエルが背後からぬっと顔を出してきた。

「音楽なんて、最近はインターネットでいくらでも聴けるだろうに。君のようなリスナーが音楽業界を支えているんだろう」

「そんな大それたことは考えてないですよ。俺、ぶらっとタワレコに寄るのが好きで、お金があったら買うだけで」

 幽霊の羽野は照れ臭くなってえへへと笑う。人から褒められたのなんて何年ぶりだろう、と思い浮かべると、「私は人ではないぞ」とバイエルに訂正された。

「さて本題に移る前に、羽野君が二人いて紛らわしいので、幽霊の羽野君をハノンと呼んで区別することにする」

「ハノン?」

「私がバイエル、君がハノンだ。どちらもピアノの教則本を書いた人物の名前だ。音楽好きの君にも分かりやすいだろう」

 バイエルはどことなく得意げだ。ピアノを習ったことがない幽霊の羽野には初耳の名前だったが、特に異論はない。

 呼び名も決まって、いよいよ本題だ。幽霊の羽野改めハノンは、いったいどうやって過去を変えるのか。

 羽野が交通事故に遭うのを回避するためには、羽野の行動を変える必要がある。だが先ほど(時間軸で言うと未来なのだが)言った通り、ハノンには生きている人間に直接語りかけたり、触ったりすることはできない。その代わり、「ケンゾク」を召喚して自由に操ることができる、とバイエルは言う。

「こういう字を書く」バイエルが宙に「眷属」と書いたが、複雑すぎてハノンには分からなかった。

「『使い魔』と言ったほうが分かりやすいだろうか。ハノンはある生き物を召喚し、思うままに操ることで間接的に過去の世界に干渉することができる」

 生きている羽野、つまり羽野がむにゃむにゃ言いながら寝返りを打った。

「……で、その生き物とは?」

「幽霊になってから最初に名前を思い浮かべた生き物と決まっている。君の場合は、これだ」

 バイエルが指を鳴らすと、天井から何かがぽとりと落ちてきた。

「うわおっ!?」

 それは、大きな蜘蛛だった。ばかに長い八本の脚は黄色と黒の縞模様で、腹にはちらりと赤色も見えていっそう毒々しい。蜘蛛はテーブルの上でじっとしているが、口元だけがもぞもぞ動いている。目が何個あるのか、ハノンに数える勇気はなかった。

「俺、いつ蜘蛛のことなんか考えましたっけ?」

「『なんで俺なんかが選ばれたんだろう。』のくだりだな」

「犍陀多かー」ハノンは額を叩いた。「どうせなら犬が良かった。柴犬とかハスキーとか」

「《名前を言ってはいけないあの虫》よりはましではないか?」

 そうだった。ミチエのせいで、ハノンの眷属は危うくあの黒い悪魔になるところだったのだ。古塚さんには悪いが、アイツを相棒にするくらいなら死んだほうがましだ(死んでいる)。名前を思い浮かべなくて、本当によかった。

「蜘蛛にもいろんな種類がいるが、私の独断と偏見でジョロウグモの雌を用意した。彼女がこれから君のパートナーだ。せっかくだから名前をつけてはどうだろう」

 ハノンが蜘蛛に目をやる。蜘蛛も顔を上げた。たくさんある目と目が合った気がした。意外とキラキラしている。

「ジョロウグモだから……えっと、ジョ」

「チェルニーだな。バイエル、ハノンときたらチェルニーだろう」

「あっ僕が決めるわけじゃないんですね」

 チェルニー。どことなく可愛らしい響きだ。たぶんピアノの教則本の人なのだろう。ピアノは習いたくても習えなかった。金銭的にも空間的にも、羽野家にピアノを置く余裕はなかった。

「試しに、何かチェルニーに命令してみるがいい」

「じゃあ……チェルニー、焼きそばのカップを避けてテーブルの右端まで歩いて」

 ハノンが指さした方向に、チェルニーの八本脚がしゃかしゃかと動く。「左」しゃかしゃか。「右」しゃかしゃか。「左」しゃかしゃ「と見せかけてやっぱり右」しゃかしゃか「アンドターン」くるっ。羽野が使わなかった青のりの小袋が、彼女の脚に当たってちょっとばかり動いた。

「おおー」ハノンは感嘆の声を上げた。

「一般的に、ジョロウグモは網を張ってそこからあまり動かないが、チェルニーは機敏に動く。君の命令通りに」

「なんてお利口さん」

 ついさっきまで薄気味悪いと思っていたチェルニーのことが、少しだけ可愛く見えてくる。

「チェルニーは神出鬼没だ。君の好きな場所に呼び出すことができる。彼女と協力して羽野君の過去を変えるんだ。健闘を祈る」

「えっ……バイエルさん、どっか行っちゃうんですか?」

「私の仕事は他にもいろいろとあるのでな。また後で来る」

 パチン。指を鳴らすと同時にバイエルは一瞬で姿を消した。あんな変なやつでも、いなくなった途端に急に心細くなった。

 チェルニーは、相変わらず口をもぞもぞさせている。

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