月の光はきこえなくても
泡野瑤子
1
出棺の曲は、バーバーのアダージョ。自分をあの世へ送り出す荘厳な弦楽の響きに、
生前音楽好きだった自分のために家族(遺族というべきか)が用意してくれたようだが、いくらなんでも大げさではないか。アメリカ大統領か「プラトーン」のウィレム・デフォーならともかく、羽野はしがないフリーターだった。参列者だって、三人の遺族を合わせても九人しかいない。
羽野は確信している。これは夢だ。だって自分の葬式など見られるわけがない。よく「死人に口なし」と言うが、死人には目も鼻も耳もない。だが羽野は泣いている家族を見ている。母さんはともかく、「いい加減に定職に就け」と口うるさかった父さんの目も赤いし、兄を《名前を言ってはいけないあの虫》でも見るような目でしか見なかったミチエも、ラメとマスカラがどろどろに溶けるほど涙を流している。兄の葬式にそのメイクはどうかと思うがそれはさておき、ちゃんと線香の匂いもするし、大げさな出棺の音楽を聴いたのは先ほど述べた通りだ。
ところが。
「幽霊には目も鼻も耳もあるぞ。感覚器官としての働き、という意味なら」
ぎょっとして羽野は振り返った。
「ただあらゆる意味において、死人にも幽霊にも口はない。食事を摂ることも、生きている人間に声を聞かせることもできない」
男が背後に立っていた。肩まで伸びた黒髪は、パーマが取れかかってごわごわと広がっている。黒いスーツも赤いネクタイも安っぽい。サブカル美大生が渋々リクルートスーツを着ているような外見だが、男は二十九歳の羽野よりもずっと老成して見えた。
「私には特に決まった名前はないが、君には便宜上『バイエル』と名乗っておく」
何ですかアナタ、と羽野が尋ねる前に、男は自己紹介をした。もしかして、いま俺ものすごい変人に絡まれてる? ――そう頭の中に思い浮かべただけなのに、バイエルとやらは「私は変人ではない」と先回りしさえする。
「さらに言えば、私は人でさえない。私は天使と呼ばれることもあるし、死神と呼ばれることもある。……待て、『いよいよやべーやつだぞコイツ』と断定するのは早計だ。どちらかというと、『やべー』状態なのは君のほうだ」
バイエルは無表情で
「あの……バ、バイエルさん?」羽野は小声で話しかけた。「僕、まだちょっと状況が掴めてないんですけども」
「それを説明するのが私の仕事だ、
バイエルはなぜか羽野の名前まで知っていた。
「羽野君。いまの君は幽霊だ。日本時間で西暦二〇一七年十月十日の午後二時頃、君は交通事故で死んだ」
「ええっ」
羽野は大きな声を出したが、参列者も葬儀屋も、誰もこっちを見ようとしない。
「憶えていないか? 記憶をよく辿ってみるといい。幽霊にも生前の記憶はあるはずだ」
言われてみれば確かに、目の前にトラックが迫ってくる映像が細部までリアルに思い浮かぶ。いつも通る交差点での出来事だった。バイト先から家に帰る途中で寄り道をしたんだったか。急ブレーキとけたたましいクラクションの音、通行人の悲鳴。一瞬の重い衝撃の後、ちらりと青空が見えて視界は真っ暗になった。どうやら本当に俺は死んだらしい、と羽野は実感した。
「だが、君はまだ『死人』ではない」
バイエルが言うには、「幽霊」と「死人」の間には厳密な違いがあるのだそうだ。
「どちらも死んでいることには変わりないが、『幽霊』はまだ霊魂がこの世に残っていて、視覚、嗅覚、聴覚については生前と同様に知覚できる状態だ。『死人』は霊魂が完全にこの世から消え去った後を指す。したがって死人には口だけではなく、目も鼻も耳もない」
「へ、へえ……」
何と返事すべきか分からず、羽野は間抜けな相槌を打った。
「そして大きな違いがもう一つ」バイエルは長い人差し指をぴんと立てた。「『幽霊』の状態であれば、君は私の魔力で時空を遡り、君が死んだ過去を変えることができる」
「あー、映画とかでよくあるやつですね。神様のくじ引き的な何かで僕が運よく選ばれたから、死ななくてすむようにタイムスリップして過去を変える、って感じですかね?」
「話が早いな、羽野君は」
適当に話を合わせたつもりが、バイエルは大真面目だった。
「ただし、君は幽霊のまま過去に戻る。幽霊の君とは別に、過去の君が存在する。過去の君が事故に遭った原因を取り除いた瞬間、君はまた生きた羽野国明に戻れる。どうだ、やってみないか」
「う、うーん……」
こういうときに即答できない男、それが羽野国明だった。
羽野はもう一度周囲を見回す。家族は泣いてくれているが、ほかの参列者はお付き合いでやって来た親戚と両親の友人だけで、羽野自身の知り合いはひとりもいない。羽野の生死なんて、人類社会にはさしたる影響もないのだ。
羽野は首を傾げた。なんで俺なんかが選ばれたんだろう。もっとたくさんの人に愛された人とか、社会に貢献した人とか、はたまた「蜘蛛の糸」の
「……別に、もういいかなあ」
「何だと?」
「いや、このまま死人になっても、いいかなって」
バイエルが眉をぴくりと動かした。
「君は、自分の家族が泣いているのを見て何も思わないのか?」
「そりゃあ少しは思いますけど」羽野はかゆくもない頭をかいた。「逆に言うと、泣いてくれるうちが華……っていうか」
「どういう意味だ」
頭の中を読めるくせに、バイエルはわざわざ聞いてくる。
「俺なんて、このまま生きてたって家族に迷惑かけるだけだし」
思い返せば、だらだら生きてきただけの人生だった。万年帰宅部で勉強も頑張らず、将来の夢も別になく、進学先は通学時間と学力の兼ね合いで一番楽に行けるところを選んだ。大学では簡単に単位が取れる授業ばかり選び、就活でも適当な志望動機を並べてどうにかとあるIT企業にひっかかった。
ところがその会社は、入社後わずか三ヵ月で倒産してしまった。新卒採用は業績不振を株主にごまかすための苦肉の策だ、という情報が就活系のSNSによく書き込まれていたのは後で知った。企業研究なんてろくにせず、最初に内定が出たからという理由だけで入社した羽野は突然無職になってしまった。
実家には居づらくて、一人で部屋を借りることにした。就職先を探すという約束で両親に敷金礼金を出してもらったのに、結局二十九歳になってもフリーターのままだ。生活が苦しいから場当たり的にバイトを増やし、三つも掛け持ちする羽目になった。
「君は珍しいやつだな。たいていの幽霊は、『死にたくない』と言って私に泣きつくものだが」
「生き返ったって、どうせいつかまた死ぬでしょ。今度こそものすごい苦しみを味わうかもしれないですよね? 俺、痛いと思う前にもう死んでたみたいだし、逆にラッキーだったのかもって」
ふむ、とバイエルは鬚のない顎を撫でた。
「君はそれでいいかもしれないが、君が死んだことで不幸になった人間もいるぞ。……これを見ろ」
バイエルがパチンと指を鳴らすと、周囲の風景が一変した。
羽野とバイエルは薄暗い独房にいた。警察沙汰とは無縁だった羽野にははっきりとは分からないが、刑務所ではないような気がする。「拘置所だ」とバイエルは言った。「彼は起訴された」
厚みのない布団の上に、男がうなだれて座っている。よく日焼けした精悍な顔つきの男だ。しかしその表情には生気がなく、目は真っ赤に腫れている。
「彼の名前は
バイエルがもう一度指を鳴らすと、独房は古いアパートの一室に変わった。散らかった和室の真ん中に、幼い女の子を抱きしめて泣いている女性がいる。その光景に羽野は少し違和感を覚えた。女の子はおとなしいが、母親ではなく縁側で揺れる風鈴の方へ顔を向けている。その目はどこか焦点が合っていない感じだ。
「幸男の妻、
羽野は息を呑んだ。
「古塚さんは、重い罪になるんでしょうか」
「日本国の司法判断は知らない。ただ、君を死なせたという罪悪感からは一生逃れることができないのは断言できる。彼は非常に真面目な人間のようだから」
羽野は言葉を失った。古塚さんのように妻子ある立派な社会人が、自分なんかを死なせたために生涯罪の意識を背負わなくてはならないとは。しかももし古塚さんが刑務所に入れられたら、奥さんは目の不自由な娘さんをひとりで育てなければならなくなる。
「……俺が死ななければ、古塚さん一家の人生は狂わずにすむんですよね?」
「何をもって『狂った』と定義するかによるが、少なくとも古塚幸男は『羽野国明をひき殺した男』にはならずにすむだろうな」
自分のせいで不幸になる人を放っておけない男、それが羽野国明でもあった。
「……分かりました。俺、やってみます」
羽野が決心を固めた途端、二人はまた元いた場所に舞い戻った。参列者たちは、葬儀社が用意した黒いバンに乗って式場を後にする。おそらくは火葬場に向かうのだろう。自分の身体が
「俺は過去に戻って、具体的に何をどうすればいいんですか?」
「それは私にも分からない」
バイエルの返事は心もとないものだった。
「私も君も、直接過去の人間に干渉することはできない。私にできるのは、君を過去に送ることと、ケンゾクを召喚する力を与えてやることだけだ。それについては、過去に戻ってから説明するとしよう。行くぞ」
パチン、パチン、パチン……。バイエルは両手の指で交互に規則正しいリズムを刻み始めた。その音に羽野は秒針が逆回転していくかのような錯覚を覚える。
「『過去に遡る感覚』の比喩なら、錯覚ではないぞ」
バイエルはいちいち細かいやつだった。
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