耳たぶチャッカマン

硝子匣

耳たぶチャッカマン

「花火をしましょう」

 先輩がそう言って、僕を無理矢理に家から連れ出したのは、七月になったばかりの、土曜日の夕方だった。

「まだ、早いんじゃないですか」

 きっと僕は渋い顔をしていたのだろう。先輩は、そんな僕をあやしでもするかのように、朗らかに笑って、小ぢんまりとしたビニールの袋を差し出した。

「いいの、花火はいつでもきれいだから」

 それは理由になってないんじゃないだろうか。僕は別段、季節感だとかいうものを重んじるわけではないけれど、先輩の現状を考えれば、やっぱり花火をするのはおかしい気がした。


「校内は火気厳禁ですよ」

 そう、僕たちは学校に入り込み、校舎に囲まれた中庭でことに及ぼうとしているのだ。夕方の、しかも休日の校内となれば人気なんてものは程遠くて、まるで取り残された気分になり、ぽつーん、と呟いてみたくなった。

「水だってあるし、それにほら」

 先輩が袋から取り出したのは、十本かそこらの線香花火だった。それがなんとなくおかしくて

「ねえ、大丈夫でしょ」

「ほんとうだ」

なんて、ほっこりしてしまった。だから僕は、先輩はずるい、と言ったのだけど、先輩は薄く笑うだけだった。

「さ、始めるましょう」

 先輩はしゃがんで、ビニールの袋からチャッカマンを取り出した。何の変哲も無いそれは、カチリと音を立て、小さな火を点す。

 やっぱり、おかしい。チャッカマンで火を点けるのはいけない。注意書きにもそうあるし、味気ないと思う。

 パチパチと、小さな火の玉をぶら下げた先輩は、黙ったままそれを見ている。僕は、なんだか面白くなくなって、そんな姿を見ているだけだった。

 すると突然

「あっ」

と、先輩が間抜けな声をこぼしていた。一本目はここで終了みたいだ。そうしたかと思うと、先輩はすぐ二本目に火を点けていた。

「きれい」

「そうですね」

 それきり、僕たちの間には凪の海のように何も無いみたいだ。でもほんとうは、パチパチと燃える小さな橙色と、先輩の髪を揺らす風がある。

 四本目、五本目と次々に、けれどゆったりなくなっていく線香花火を見ながら、この先輩は何を思っているのだろうかと僕は揺らいでいた。ふと、魔が差したのかもしれない。

「勉強、しないんですか」

「……A判定だったの」

 静かな声が僕の耳の奥に入り込んできた。それは予定調和とでもいうのだろうか、どこかで確信していたそれに僕はついつい強がってしまった。

「じゃあ、合格間違いなしですね」

「ほんとうね」

 僕はほとんど先輩を見ていなかった。先輩も僕の方なんてほんの少しも見ていない。僕たちに見えているのはただの線香花火だけだ。

「遠くに行くの」

「ええ」

「独り暮らし」

「知ってます」

 通り過ぎてしまえばいいのに、僕たちの声はきっとお互いの中にたゆたっている。それが分かったのは、先輩が落ち着かない時に必ずするその癖が見えたからだ。横髪に隠れた手は、けれど何をしているのか僕にしっかりと伝えていた。

 仕方がないから、僕は校舎を、部室棟を見上げてみた。そこには僕たちの部室があった。今日は僕も先輩も、誰もいない。

「でも、まだ先の話ですよ」

 まだ先のこと。でもそれは、まだ、であって必ずやってくるのだと思う。

「合格したらの話だけど」

 丸まった背中は、身じろぎ一つしないで、ただただ小さかった。

「あ、」

 何本目だろうか、気付けば燃え尽きた花火がそこらに転がっていて、どうも僕の分がなさそうだ。だから、文句の一つでも言ってやろうとした。すると、先輩がしゃがみこんだまま、僕を見ていた。僕は何も言えずに、先輩を見つめていた。

「最後の一本」

 差し出されたそれを受け取り火を点けようとして、カチリと、チャッカマンから小さな火を点したけれど、ひゅるりと吹いた風に消されてしまった。

 もう一度トリガーを引いてみても、それはただカチリカチリと音を立てるばかりで、ついに火を点けることはなかった。

「点きませんね」

「ほんとうね」

 二人して、火の点かないそれを見つめているとなんだかとてもばからしくなって、

「帰りましょうか」

「そうね」

と、立ち上がり、散らかっていた花火を拾ってから、学校を出た。


 僕たちは、だいぶ暗くなった道をゆらゆらと歩いている。僕の左手には、ついぞ燃えることのなかった線香花火が握られていた。紙縒り状のそれを弄びながら、斜め前を歩く先輩についていく。

「このぐらいの時間が丁度いいと思います」

 花火をするなら、そう僕は呟いていた。振り返る先輩は、笑顔で頷いた。

「早く帰りましょう」

 自然と僕たちは手を繋いでいて、僕はいつもと変わらないなと思っていたら、先輩はそおっと、けれどもぎゅうっと、握りなおしていた。

「最後の一本は、今度にしましょ」

 それを聞いた僕は、両方を握り締めた。『今度』がきたって離したくはない、そう伝えたくて。


END

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