飴と傘

空知音

第1話 飴と傘

 梅雨の篠突く雨が街を淡い青色に染め、その水槽の中を色とりどりの傘が、ふわふわと流れていく。

 僕にとって特別な熱帯魚、鮮やかな水色の傘は、遠くからでもよく見えた。

 それが近づいてくると、いつものように胸の鼓動が早くなる。

 さっきまで、ゆっくり流れていた街の時間が早くなる。 


 ガラスで隔てられた外の世界と、こちら側の世界が、土鈴の音で一つに繋がる。


「降られちゃた」


 小声でそう言った彼女は、傘を畳むとそれを傘立てに差し、カウンター席に座った。

  

「この季節は、イヤだねえ」


 彼女の前に立っている初老のマスターは、言葉とは裏腹に軽い笑みを浮かべていた。

 二人は少しの間、世間話をしていた。

 そこから彼女のやや低い声が伝わってくると、僕の身体にさざ波が立つ。

 いつもは固く閉ざされている内側の被膜が震え、声はそれをすり抜け僕の中心へまといつく。

 そして、被膜が解けた「僕」はその声と重なる。


「ねえ、注文は何にする?」


 えんじ色のエプロンを着けた彼女が、横に立っていた。

 

「あ、ああ、いつものやつお願いします」


「ホットミルクね」


「ええ、それで」


 僕が同じ学部の後輩だと分かってから、彼女は少し打ち解けた話し方をしてくれるようになった。

 彼女がバイトしている日は、なるべく長くここに居られるよう、モーニングセットの後でホットミルクを頼む。


「はい、どうぞ」


「ありがとう」


 窓の外は、相変わらずの雨だが、街という水槽が少し明るくなったような気がした。

 流れていく傘も、リズムを取って動ているように見える。

 

 突然、一つの黒い傘が調和を乱し、扉にぶつかった。

 土鈴が高い音をたて、ゆっくり流れていた時間をかき乱した。

 ガサリと傘立てを鳴らした男は、重いブーツの音を響かせ、カウンター席に座った。

 先輩の顔が強ばる。


 男が何か話しかけているが、彼女は早足でカウンターの奥へ入っていった。マスターが、困惑顔で男と何か話している。

 その男が大学構内で先輩と並んで歩いているのを何度か見かけたことがあった。

 

 マスターが店の奥に一度入り、また出てきた。男に向けて顔を横に振る。 

 男は立ち上がり、店の奥を覗き込むようなそぶりをしたが、舌打ちすると、ガツガツと足音を立て、店から出ていった。

 僕は、彼が傘を置き忘れたのに気づいたから、声を掛けようと一度立ち上がったが、また腰を降ろした。

 扉を開けて外に出れば、ここから見える青い水槽は、別のものに変わってしまうから。


 しばらく経って、先輩が店の奥から出てきた。

 マスターと何か小声で話している。


 僕は、すでに冷え、表面に膜が張ったミルクを飲み干すと席を立った。

 カウンター横のレジで会計を済ませたとき、小柄な先輩がじっと僕を見上げているのに気づいた。

 少し目の端が赤くなっている。

 

「はい、これ」


 彼女の手には、店でいつも配っている青い飴があった。

 僕が手を出すと、彼女は飴をそこに乗せ、なぜか両手で包みこむようにした。


「あのね、私……」


 不自然な間から逃れるように、僕は体を遠ざけた。


「ごちそうさまでした」


 気がつくと土鈴が背後で鳴り、僕は店の外にいた。

 雨が止み、すでに傘を差している人はいない。


 温かさが残る透明な包みから飴を出して口に入れる。

 ラムネ味のそれから、わずかな苦みと爽やかな風味が広がった。

 晴れ間が見える空を見上げ、僕は街の流れの一部となった。

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飴と傘 空知音 @tenchan115

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