その詳細

 3年だか4年だか、とにかくそれくらい前の話である。


 いまとなってはニュータウンなんて言葉がくっついている、当時はまだ畑やら田んぼだらけのところに僕は住んでいた。

 僕が住む前から、ここを新興住宅地にしようという計画はあったようで、そろそろ着手し始めようという頃だったらしい。


 それでもぽつぽつと古い家はあった。僕が住んでいたのもかなり歴史のある家で、1階に足の悪い知り合いのお婆さんが住んでおり、僕はその2階を借りていたのである。老人の独り暮らしは何かと不安だし、不便だということで、部屋代もかなり安くしてもらっていた。つまり、便利屋兼用心棒的ポジションというわけだ。

 風呂トイレは当然のように共同なのだが、掃除洗濯を引き受ける代わりに、お婆さん――タキ子さんは朝昼晩の3食を作ってくれた。

 住み始めた頃は煮物や焼き魚が中心だったのだが、僕が(一応)若者ということで気を使ってくれたらしく、たまにコロッケなんかも揚げてくれた。ただもちろん危ないので、揚げ物は必ず僕が側にいる時だけ、という決まりが自然と出来たが。


 タキ子さんは自分からはあまりしゃべらない人で、かといって無口なわけではなく、僕が話をふればそれなりに返してくれた。入れ歯があまり合わないらしく、そのせいか聞き取りにくかったけれども、それでもタキ子さんの話は面白かった。

 

 タキ子さんと住んで2年くらいの間に、次々と家が建った。

 そのうちの7割くらいが建て売りで、残りが注文住宅だった。建て売りとはいえ決して安くはない買い物であるにも関わらず、家は出来たそばから次々と買い手がついた。コンビニやスーパーも徒歩圏内だったし、小児科やちょっとしたホームセンターも近くにあり、そのほとんどが小さいお子さんのいる若い夫婦だった。


 隣家との距離が数メートルにまで縮んだ頃のことだった。そこはもうご想像の通り平和過ぎるほど平和な田舎町だったのだが、度々不審者が目撃されるようになったのである。

 服装は黒のジャージ上下にニット帽とサングラスという、実に不審者らしいコーディネートで、身長は160センチくらいの小太りとのことだった。

 タキ子さんからその話を聞いた時、僕は「もしかしてこれは、暗に『松清君じゃないよね?』とほのめかしているのでは」と内心ビビっていた。何せ僕は身長165センチ程度だったし、さすがにジャージ上下は持っていないものの、ついうっかり上下黒のコーディネートになってしまうことが多々あったからである。

 でも僕はどちらかと言えば痩せ型で、小太りという特徴に当てはめるのにはいささか無理があった。


「でもウチは松清君がいるから安心だわ」


 タキ子さんはそう言って笑った。いつもと変わらない笑い顔だった。タキ子さんは僕よりもずっと骨と皮のため、顔のシワが多い。それをさらにくしゃくしゃにして笑うのだ。僕はタキ子さんを疑ったことを恥じた。

 浅い付き合いとはいえ、僕らは一つ屋根の下で暮らしていて、同じ釜の飯を食っている仲間なのだ。そうさ、タキ子さんが僕を疑うはずがないじゃないか。


「でも、小さい子もいるし、心配よねぇ」

「そうですね。まだ大きな被害は出てないみたいですけど」


 そう、不審者といっても、ただ単に『服装がいかにも過ぎて怪しい』というだけなのだ。トレーニング中のボクサーという線もあるだろうに。いや、小太りならそれはないか。


 しかしそんな見た目だけの不審者が、とうとう行動を起こしたのである。先の彼と同一人物かは不明だが、とにかく全身黒ずくめの小太り男が、近くの公園で遊んでいた幼児と接触したのだ。

 僕が最初タキ子さんの茶飲み友達から聞いた時には「良い天気だね」と声をかけたという話だったのだが、それが町内をぐるりと回る頃には「声をかけて連れ去ろうとしていた」に変化していて、それも、駄菓子をちらつかせていたり、女児向けのアニメキャラクターのグッズか何かで気を引いたことになっていた。さらには不審なワンボックスカーの目撃情報まで飛び出し、そのナンバープレートが県外のものだったことから、彼は各地を転々としながら子どもをさらってその中で如何わしいことをするという幼児性愛者ということになってしまった。


 そんな話が彼の耳に入ったのか、不審者は現れなくなった。

 確かに彼は身なりこそ不審ではあったものの、黒いジャージ上下くらいならその辺のおっさんでも着ているわけだし、ニット帽やサングラスというのも何かしらの事情があったのかもしれない。それを止めたのか、それとも生活圏を変えたのか、あるいは本当に不審者だったとして悔い改めたのか、それはわからないけれども、とにかくその○○ニュータウン予定地には再び平和が戻った。


 はずだったのだ。


 不審者事件から数ヶ月が経った頃だった。

 タキ子さんの膝がだいぶ悪くなった。一人息子の貞雄さんの娘さんが東京にお嫁に行くことになったのを機に、タキ子さんは息子さん夫婦と一緒に暮らすことが決まった。それでも家中に手すりを付けるだとか段差をなくすだとかの準備があるということで、タキ子さんがこの家を出て行くのは3ヶ月後だったけれども。


 僕はというと、タキ子さんがここを出て行ってからもこの家に住んでも良いとは言われていた。定期的に風通しも必要になるし、普通に住んでいても何かとメンテの必要な家だからだ。けれども僕はそれを断った。タキ子さんがいないんじゃここにいても仕方がないと思ったのだ。タキ子さんとの生活はあとたったの3ヶ月で終わってしまう。それはとても寂しかったが、例えば死別などで何の心の準備もないまま、というよりはこうやって別れを惜しむ時間があるだけ良かったと思う。


 お別れのその時まで、平和に楽しく過ごそう。

 そう思っていた時のことである。


 ここ、○○ニュータウン予定地にまたしても不審者が現れた。


 今度もまた全身黒づくめだったのだが、今度はなんと身長180越えの大男らしい。

 というのは、彼を目撃した人が「自動販売機とほぼ同じ高さだった」と証言したからである。どうやら何か飲み物を買っていたらしい。ただ、それは一体どこに設置された何ていうメーカーのものなのか、という問いに対し、「そこまでは覚えていない」とのことだったが。まぁだいたい自販機なんて180越えのものがほとんどだろうから、そうなんだろう。ただ、もし仮にこの○○ニュータウン予定地の入り口にある自販機なのだとしたら、確か踏み台として酒のケースが置いてあったはずだ。それを利用していたとすれば、彼の身長はもっと低いことになるわけだが。

 まぁそんなことを言えば僕に疑いの目が向けられるかもしれないので黙っていた。僕もその自販機をよく利用するからだ。


 それは置いといて、である。


 ただ単に飲み物を買いに来ただけという線も拭いきれなかったわけだが、前回が前回である。その上、時間は23時。当時、隣の町内の方では空き巣が頻発しており、その犯人も捕まっていなかったため、ここに流れてきたのではないか、という噂が流れた。

 それによってこの辺一帯の防犯意識はかなり高まった。田舎の平和さに胡坐をかいて施錠しない家がほとんどだったのだが、それもなくなった。それは良い。


 そんな中、本当に被害が出てしまった。不審者ではなく物取りで、家人がいるパターンなので空き巣ではない。運良く遭遇はしなかったようだが。


 それは○○ニュータウン予定地の入り口にある、建てられたばかりの2階建ての家だった。そこは生後2ヶ月の赤ちゃんがいるお家で、夜も頻繁にミルクを欲しがるために、2階の寝室ではなく、1階のリビングに布団を敷いていたらしい。賊は2階から侵入し、寝室を散々に物色した挙句、奥さんのドレッサーから貴金属の類をごっそり盗み出した。旦那さんがたまたま出張中で、いつも停めてある彼の車がなかったために狙われたのではないかということだった。そういうこともリサーチしていただろうということで、ならばその不審者が怪しいと全会一致でそうなったのである。


 しかし、犯人がその不審者だと断定したところで、彼はあのたった1回の目撃のみで姿を消してしまったのである。やはりたまたまそこの自販機を訪れたというだけの一般人なんじゃないかと僕は思った。

 けれど住民達は納得しない。

 当然だが、確固たる『安心』が欲しいわけである。というのはここに家を建てまくっている不動産会社の方でも同様だったろう。このままでは○○ニュータウンは完成する前に終了である。立地は申し分ないというのに。


「物騒よねぇ。もしもウチに入られたら、松清君、撃退出来る?」

「そんな、無理ですよ」

「怖いわぁ。こんな年寄りの家に来たって、金目のものなんてなぁんにも無いのにね」

「お金があるかどうかまではわからないでしょうからね」

「そうなのよねぇ。もうすぐここを出ると思えば、まさか番犬でも飼うわけにはいかないし」

「いま犬なんて飼ったら、ご近所さんから苦情が来ますよ」


 さすがにこの一件はタキ子さんも黙ってはいられなかったらしい。家からほとんど出ないタキ子さんにとって、不審者ならば正直他人事だが、家に侵入されるとなれば話は別なのである。お爺さんの位牌以外に盗られて困るようなものがあるわけでもないらしいし、貴金属はもちろんまとまったお金なんていうのも大してあるわけでもないのだが、だからといって賊が避けてくれるというわけでもない。


「いくら老い先短くても、殺されたりは嫌ねぇ」


 2時間ものの刑事ドラマが大好きなタキ子さんは『賊と遭遇=殺される』という図式が完全に成り立っていて、むしろそこを恐れているようだった。


 何とか出来ないだろうかと僕は考えた。

 残りわずかのこの時を、貴重なこの時を、いつやって来るともしれない賊に怯えて暮らすのなんて可哀想だし、タキ子さんの年齢を考えれば寿命だって縮まりかねない。


 どうしたら良いだろう。

 護身用の竹刀でも設置する? いや、それは逆に賊を意識させる結果となるから却下だ。

 張り紙でもするか? この家には何にもありませんよ、って? 馬鹿か僕は。


 もしも僕がそれこそ180越えの大男で、ムキムキのマッチョだったなら、タキ子さんも少しは安心してくれていたはずだ。僕がチビのガリヒョロだから安心出来ないのだ。身長はもうどうしようもないとしてもせめてもう少し鍛えていれば。


 そこで僕はピンと来た。

 

 不審者が目撃された23時から賊が侵入したらしい午前0時までの時間、家の前で縄跳びをしよう、と。

 どう考えてもグッドアイディアではなかったのだが、その時の僕は「さすがに玄関先で縄跳びしている人間がいる家は狙わないだろう」としか思わなかったのである。まぁそれも一理あるかもしれないが。


 早速ホームセンターで縄跳びを買い、その日の夜から僕のなんちゃってボクサーの卵生活(そういう設定にしておけば仮に通報されても許されると本気で思っていたのだ)が始まった。


 最初こそタキ子さんは「そこまでしなくても」なんて言っていたけれども、僕が言った「不摂生な生活をしていて腹がたるんできたんです」というかなり無理のある言い訳を信じたのか、すとんと納得した。当たり前だがタキ子さんは僕の裸なんか見たことがないので、僕にたるむほどの腹肉なんてないことに気付かなかったのだろう。


 僕が縄跳びを初めて一週間、まぁ当然のように平和だった。そもそも不審者だってあれから目撃されてなかったわけだし、泥棒だって同じ地区を狙うにしてももう少し間隔を開けるだろう。


 ○○ニュータウン予定地の住民達はそれでも少しは安心してくれているようだった。

 縄がコンクリートを打つ『パツン、パツン』という音を、賊やら何やらを遠ざけるまじないのように感じている人もいるようだった。というのはぱったり出くわしたスーパーで言われたのだが。その人は5歳くらいの男の子を連れた奥さんだったが、ウチの亭主はちっとも協力的じゃないのよ、なんて笑っていた。


 それから1ヶ月くらい経っただろうか。

 僕が本物のボクサーみたいに――といっても測定日の一番身体を絞りまくった時のだけど――なった頃だ。

 恐れていたことが起きた。


 苦情が来たのである。


 それはタキ子さん家の斜め前のお宅で、一番新しい家だった。入居もごく最近で、産まれたばかりの赤ちゃんがいた。初めての育児で参っていたところに僕の縄跳びの音がトドメを刺した形となり、髪を振り乱した若奥さんが乗り込んで来たのである。旦那さんは育児に非協力的な上、出張も多く、近くに頼れる親もいない。アンタみたいなのは積極的に協力すべき立場なのよ、と怒鳴られた。僕は赤ちゃんを抱っこしながら挨拶をしに来た時の人と本当に同一人物なのだろうかと思いながら、ただただすみませんと頭を下げた。タキ子さんは居間でしゅんとしていた。


 その日から僕は縄跳びを止める代わりに、居間に布団を敷いて寝ることにした。竹刀を枕元に置いて。賊を警戒して、というよりは、その方がタキ子さんが安心するんじゃないかと思ったからだ。


 まぁ最も、一応僕もここ数日の縄跳びでそれなりにたくましくなったのではという自負もあったし、タキ子さんからも「何だか精悍な顔つきになったわね」なんてお褒めの言葉をいただいていたので、もし仮に賊が忍び込んできてもタキ子さんくらいなら守ることが出来るんじゃないかとは思っていたけど。


 さて、そんなこんなでどこからでもかかって来いという状態で過ごしていたわけだが、幸運なことに、その心配は完全に杞憂に終わった。不審者も物取りも現れないまま、僕達はお別れの時を迎えたのである。


 タキ子さんはシワシワの瞼からぽろぽろと涙をこぼし、貞雄さんからはたくさんお礼を言われた。


 タキ子さんの年齢を考えると、これが今生の別れになるだろう。そう思うと僕も涙が止まらなくなってしまって、僕らは向かい合って手を握りながらおいおいと泣いた。


「松清君、たまには思い出して頂戴ね」

「たまにどころか、毎日思い出しますよ」

「字が書けるうちは、お手紙書くわね」

「僕も書きます」


 お互いに泣き止んでからそんな約束をして、タキ子さんは貞雄さんの車で行ってしまった。窓から白いハンカチをひらひらと振っているのが見えた。身体が固いタキ子さんは腰を捻って窓から顔を出すなんてことが出来なかったのである。僕は貞雄さんの青い車が角を曲がってしまうまで、その白いハンカチをずっと見つめていた。


 それから僕は、そこから少し離れた賃貸アパートを借りて住み始めた。

 独りきりの生活は寂しかったけれど、タキ子さんと住んでいた時よりも行きつけのスーパーが近くなって、それだけは良かった。


 約束通り、タキ子さんとの文通はぽつぽつと続いていた。

 タキ子さんの字はどんどん読みにくくなっていたし、内容もたまにわからなかったが、それでも僕は返事を書いた。目も悪くなってきていると書いてあったので、大きな字と簡単な文章で近況を報告した。封筒の中にはいつも、誰が入れてくれているのか、返信用の切手が同封されていた。

 

 タキ子さん、今日はね、コロッケを揚げました。松清君より。

 タキ子さん、今日はね、肉じゃがにしました。松清君より。


 しつこいくらいに名前を書いたのは、そうしないと忘れられてしまうようで怖かったからだ。

 くどいかな、と思いつつ、自分で『松清君より。』と書くのは恥ずかしいと思いつつも、タキ子さんがそう呼んでくれていたのだから、僕は『松清君より。』と何度も書いた。


「あらぁ、宇部君」

「――あぁ、橋本さん」


 タキ子さんとの同棲を解消して1年が経った頃だ。

 行きつけのスーパーでタキ子さんの茶飲み友達の一人である橋本さんと会った。彼女はタキ子さんよりも10歳くらい若い人で、何がきっかけで交流が始まったのかはわからないけれども、良く家に遊びに来たものである。ちなみに、最初に不審者が出て来た時に登場した茶飲み友達とは別の人だ。タキ子さんは結構友達が多いのだ。


「ね、知ってる?」

「何がですか?」

「泥棒よ、ドーローボーウっ」

「泥棒? 入られたんですか?」

「まっさかぁ、ウチじゃないわよぅ」


 そう言って橋本さんはオホホと笑った。こうやってわざとらしい笑い方をする人なのである。そして、いかにも『これから内緒話をします』といった雰囲気で背中を丸めてキョロキョロを辺りを伺い、声を潜めて言った。


「ほら、前に宇部君とタキちゃんが住んでたあの辺のお宅よ」

「えぇ? またですか? どこのお家ですか?」


 そこで真っ先に浮かんだのが例の苦情を入れてきたお家だった。

 いやもちろんそんな不幸を願ったりなんてしなかったけど。

 でも、もしそうだとしたら話としてきれいに落ちるんだろうな、なんて不謹慎なことは考えた。


「宇部君覚えてるかなぁ。田中さんって言ってね」

「僕の記憶だと田中さんって3軒くらいあった気がしますけど」

「そうよねそうよね。ええっと、入り口から入って突き当りを曲がってすぐの田中さん」

「あー、覚えてます。結構大きいお兄ちゃんがいましたよね。中学生だったかな」

「そそそ。そこのお家よ。お兄ちゃんが部活の遠征で、それに奥さんもついて行ってね、お家に旦那さんしかいなかったみたいなんだけど、ほら、あそこの旦那さん飲兵衛でしょ? べろべろに酔っぱらって寝ちゃったみたいで」


 でしょ? って言われても、そこの旦那さんが飲兵衛なのは初耳だったけど。


「でもね、その後すぐ捕まったのよ。盗られたものは返って来なかったみたいだけど」

「そうなんですか。盗られたものは残念でしたけど、でもまぁ良かったですね」

「そうなんだけどねぇ……」


 橋本さんはそこで大きなため息をついた。

 何だ何だ。まだ続きがあるのか?


「あそこの家よ」

「あそこの家? といいますと?」

「ほら、宇部君に文句言いに来た若奥さん」

「あぁ、はい。えっと、笹木さん?」

「良く覚えてるわねぇ」

「まぁキョーレツでしたし。それに笹の字書く笹木さんって珍しいから覚えてたんですよ」

「その笹木さん、いま結構大変みたいでね」

「どうしたんですか」


 橋本さんはさらに声を一段落とした。眉をしかめ、神妙な顔付きである。


「ご近所さんから責められてるのよ」

「何でですか」

「いやね、まぁあの人が注意したから宇部君は縄跳び止めたわけじゃない?」

「はい。えぇ? もしかしてそのせいで泥棒に入られたとか? そんなこと言ってるんですか?」

「そりゃあね、たぶんたまたまだとは思うのよ? でもホラ、タキちゃんも宇部君もタイミングよくあの後すぐあそこ出ちゃったじゃない? 誰かが言っちゃったのよね、笹木さんがあんなこと言うからココに居づらくなったんだ、って」

「えぇ――――……」


 やはり噂というのは恐ろしいもので、笹木さんトコの若奥さんは『この地域を賊から守ろうとした善意の若者と老婆を追い出した血も涙もない鬼嫁』というレッテルを貼られてしまっているらしい。


 確かに僕はあの○○ニュータウン予定地を賊から守ろうとはした。でも、どちらかといえばそれは局地的であり、タキ子さんさえ守れればそれで良かったのである。それに、笹木さんにだって事情があったのだ。彼女は我が子を守るお母さんなのだ。


 それなのに。

 

「僕、何か言った方が良いですかね」

「宇部君が? 何て?」

「いや、僕達があそこを出たのはそういうんじゃないです、とか」

「いやいや! 止めた方が良いって。そこの奥さんね、そうでなくても鼻つまみ者だったからね。何ていうの? 『アタシ大変なんだからー! アンタ達助けなさいよー!』みたいな? 気の弱い奥さんなんかは買い物とか行かされたりもしてたみたいで」

「えぇ――――……」

「旦那さんも方々に頭下げてたみたいだからねぇ、近々家に戻されるんじゃない?」

「でも何か可哀想な気が……」

「良いの良いの、宇部君はもう出た身なんだから。それより、タキちゃんは元気?」


 話題はあっさりとタキ子さんの近況になった。

 僕はぽつぽつと続いている文通の内容を話し、橋本さんはそれに対してケラケラと笑った。アンタ達、マメねぇ、なんて言われたりして。


 

 それからはしばらく悶々と過ごした。

 やっぱり気になった僕はあの〇〇ニュータウン予定地(というか、既に『予定地』ではなくなっていたけど)に行ってみた。もしもの時のことを考えて、ちょっとした手土産を持参して。それがちょっと前のことである。


 タキ子さんと住んでいたお蔭で割とご近所さんとは交流があったから、不審者と間違われて通報されるなんてことはないだろうと思いながら。それでも精一杯明るめの服にしたけど。


 しかし、僕はここに来て誰と何を話せば良いのだろう。

 つい勢いで来てしまったけれども、正直ノープランだったのだ。ちょっと一旦喫茶店にでも入って作戦を立てた方が、と思ったのだが、何だか好奇心に負けてしまい、とりあえずくだんの笹木さんの家の前に行ってみることにした。


 ……空き家になってた。

 売家の看板こそ立ってはいなかったけれども、カーテンが全部外されていて、家の中が丸見えになっていたのだ。

 家具も何もなくなっていた。

 奥さんが植えてったコスモスはそのままだった。この家に何があったのかなんて完全に知らん顔できれいに咲いている。誰かが水やりをしているのかもしれない。


 僕に出来ることはもう何も無かったのだ。

 奥さんがどうなったのかはわからない。離婚したのか、それとも単に引っ越しただけなのか。

 ただただ、赤ちゃんだけは真っ当に育ってくれれば良いなぁ、と思う。


 ○○ニュータウンを出る途中で、高校生くらいの男の子とすれ違った。彼は僕に向かって「ぅっす」と言って軽く頭を下げる。僕もつられて「どうも」なんて返したけれども、彼は僕の顔なんて見ていなかった。もしかしたら例の田中さん家のお子さんだろうか。しかし、元々この地域の学生さん達は近所の人とすれ違ったら挨拶をしましょうと叩き込まれているのである。だから、新しく越して来た家の子かもしれない。


 僕は最早何のために用意したのか存在理由を失った手土産を持って家に帰った。

 日持ちするせんべいだったから、タキ子さんに送ってやろう、なんて思いながら。ちゃぶ台に向かい合って座り、熱いお茶を啜りながら一緒にせんべいを食べたことを思い出す。楽しかったあの日々を。



 タキ子さん、僕は相変わらずです。

 作家になりたくて家を出たけど、結局まだなれていません。

 僕は相変わらずちょこちょこ仕事をもらってはぽつぽつ書いてます。

 それでも「何かを書いてるなら作家さんよ」なんてタキ子さんは言ってくれたけど。


 タキ子さん、元気ですか。

 また手紙書きます。

 僕のこと、忘れないでください。


 松清君より。



 





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