もう遅い
三津凛
第1話
子宮が産まれる前の揺籠ならば、家庭は産まれ落ちた後の揺籠であって欲しかった。
サイコパス、反社会性人格障害だと騒がれた殺人犯の少女は週刊誌の記者にこんな手紙を寄せたという。
「一家団欒を味わいたかったから」と友人家族を皆殺しにした理由を、眉ひとつ動かさずに話したと繰り返し報道された。
「諸悪の根源は家庭にあるって言ったのは太宰だっけ?」
真弓は切れた唇の端を隠そうともせずに歪めた。
「さぁ…太宰って、太宰治?人間失格とかの」
「うん」
真弓の頰には、家には帰りたくないという抵抗が日に透かすと露わになる掌の毛細血管のように浮かんでいた。私は知らないふりをした。
諸悪の根源は、家庭の幸福にある。
多分、学校や家庭が息苦しくなるのは私のような平凡で幸せな家庭に脳髄まで浸りきった人間の撒き散らす二酸化炭素のせいだ。背骨を砕かれるほどの不幸せを、私はまだ知らない。だから真弓の痣や切り傷を見ても、何を言えばどうすればいいか分からない。
雨が降れば小動物が無意識のうちに大木へ身を寄せるように、大人に頼ることしか今の私にはできそうもない。
「私は、あの子の気持ちが分かる」
「あの子って…」
「今裁判をやってるじゃない」
一家団欒を味わいたいがために、4人の人間を殺した女の子。今の私たちと、そう歳も変わらない。
「真弓も、人を殺したいと思うの?」
「…殺したいほど憎い人間は2人いるわ」
それって、誰?
なんて、私は真っ直ぐには聞けない。その答えを聞くのは、受け入れるには私は幸せ過ぎた、恵まれ過ぎた。
真弓は少し不満そうに自分の頰を撫でた。どうしてそんなところに痣ができるのか、担任の小林が疑わしそうに聞いていたことを思い出す。真弓はまともに取り合わなかった。むしろ迷惑そうに、顔の周りを不躾に飛び回る蝿を追い払うように顔を背けていた。小林もまた、幸せ過ぎたのだ。
「誰?って聞かないの」
「…じゃあ、聞こうかな、誰?」
「ふふ、何それ」
真弓はからからと笑う。全てが虚しく根こそぎかきだされた後のしゃれこうべの立てる笑い声みたいだった。
「私が殺したい2人はね、アダムとイヴ」
ここは笑うところなのだろうか。私は手元の文庫本のページを意味もなくめくった。埃っぽい風が起こる。真弓も目を落として、微かに黄ばんだページが閉じるのを眺めている。
ふと目を転じると夕陽が溶けかかっていた。家庭へと背を押す鐘が鳴っているように感じる。
真弓も私に倣って、窓の向こうを見る。そして、ため息を吐く。彼女は、生傷を増やす檻の中へと押し込まれていく。私にはどうすることもできない。
見計らったように司書の先生が近付いてくる。私と真弓は同時に立ち上がった。名作たちの束が、黄昏に背を押される私たちを見下ろしている。
何も癒してくれそうにない。廊下を歩きながら、真弓は思い出したように呟いた。
「…さっきのちょっと遠回り過ぎた?父と母よ」
私はあの日も変わらず、変わることもできずに真弓を見送った。いつもの分かれ道で、いつものように別れた。最期の時が残酷なのは、交わす言葉が「さようなら」ではなくて、「また明日ね」だったりするからだ。
子宮が産まれる前の揺籠ならば、家庭は産まれ落ちた後の揺籠であって欲しかった。
私が殺したい2人はね、アダムとイヴ。
…さっきのちょっと遠回り過ぎた?父と母よ。
サイコパスな殺人少女は無期懲役をくらった。その日のうちに、彼女は控訴した。
私は虚ろなままの机を振り返った。あそこに教科書が挟まれることも、出されることも、もう二度とない。
殺してしまいたいのなら、殺せばよかったのに。私も、あの時黙らずに殺してやれと背を押してやるべきだったのだ。
私の幸せは、はらわたを腐らせた。誰も真弓を救えなかったのは、みんなはらわたを腐らせていたからだ。今さら気づいても、もう遅い。
真弓はどこにもいない。アダムとイヴは、恥を知るよりも恐ろしい罪を犯した。
今日の夕陽も、あの日の夕陽とよく似ている。どこまでも広がってゆく荒野を照らすように寂しい。私は真弓のものだった椅子に座って、机についた。
傍観者も同罪だと、いじめの時は偉そうに言われる。それなのに、虐待の時は誰もが知らん顔をする。傍観者であることを憚らない。私も同じように、真弓の首を締めたはずだ。鬼畜な心を持った真弓のアダムとイヴのように、見えない手で殴って蹴り上げたに違いない。
何気なく手を滑り込ませた机の中に、一枚だけ紙片が挟まっていた。
図書室で眠る名作の束がよみがえる。何も救うことはしなかった。癒すことはしなかった。
真弓は自分で自分を救おうとして、それを果たせなかった。
遺書にしては、救いを求めるには、あまりにも遅い。全てが遅過ぎた。
丁寧に引っ張り出すと、真弓の文字で走り書きがされていた。
あなたの望みは、なんですか。
もしもわたしがそう訊かれたのなら、
愛がこの星に、わたしの元にいてくれること。
力はなにかと訊かれたのなら、
愛があること、いま確かにここにあること、それを確かに感じれること。
ここには、まだなにもないから、荒野なままだから。
荒野よりわたしは、誰かを呼ぼう。
誰にも届かなくても、後悔だけはしない。
明日はちゃんと来るだろうか。
変わらず朝陽は昇り、夕陽となって落ちていくだろうか。
暁のまま明けることがなくても、
黄昏のまま暮れることがなくても、
わたしにこたえてくれる声を疑うことはないだろう。
その声を忘れることはないだろう。
ただわたしは唄っているだろう。
隣に来てくれたあなたと唄っているだろう。
あいだにどんな距離があっても、
幸福と不幸に裂かれていても、
わたしは生きているだろう、変わらずに生き続けているだろう。
あなたとともに、生きているだろう、生き続けているだろう。
明日はやって来るだろう。
さようなら、はしまいこんで
また明日、と呼びかけるだろう。
わたしは生きているだろう、変わらずに生き続けているだろうから。
夕陽は落ちて、暮れた。
世界は変わらずに動いていく。ただ一人の女の子を置いてけぼりにして、動いていく。
私は落ちる涙が薄い紙をこれ以上弱くしないように隣の机に置いた。
明日はやって来るだろう。
さようなら、はしまいこんで
また明日、と呼びかけるだろう。
わたしは生きているだろう、変わらずに生き続けているだろうから。
今さら気がついても、もう遅い。
もう遅い 三津凛 @mitsurin12
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