天使が落ちた。

相良あざみ

天使が落ちた。

「エンジェルフォールって、あるでしょ」


 黄色いの縁を辿りながら、少女は言った。

 星のない空の下、制服のプリーツスカートを翻すたびに、軽やかすぎる足音がコンクリートに反射している。

 顎の下あたりで切り揃えられた黒髪は、少女という形に満ち満ちて溢れ出す生を表すかのように、緩やかなカーブを描いて踊っていた。


 黄色から踏み出した先の緑色の塗料が、もしも瑞々しい草花であったなら。


 緑色の景色の中で軽やかなステップを刻む制服姿の少女というのは、きっとアンバランスに映るだろう。

 そして私はそのアンバランスさから目を離せなくなるはずで、けれど、だからといって今の自分のような心情にはなっていなかったはずだと思っていた。


 高層ビルの屋上に設置されたヘリポート、制服姿の少女と、緑色の外から少女を見つめている私。


 端から見ても、当事者たる私から見ても、妙な光景だ。

 しかし、だからではない。

 アンバランスだとか、妙だとか、そんな俯瞰した物の見方をしているわけではなく――私は、ああ、恐らく今、少女の姿を目に焼き付けなければならないのだと、そう思っているに違いなかった。


 女子高校生Aとかでいいよと、少女は言った。

 しかしそのすぐあとで、高校生とかそんなにはもう意味なんてないよねと、あっけらかんとして笑う。

 そんな調子のままで名前を尋ねてくるものだから、私は少し考えてから、スミスと答えたのだ。


「思いっきり日本人顔なのに」


 少女がまた、笑う。

 たとえば小馬鹿にするだとか、呆れるだとか、そういった類の負の感情ではなくて、遊び道具で愛玩動物の気を引こうとするかのような気安さがそこにはあった。

 少女と行動を共にし始めて、未だ一日ほどしか経っていない。

 更に言えば、その時は一時間すらも経っていなかった。

 女子高校生という人種がそうさせるのだろうか――そう頭の隅で考えながら、かと言って私はそんな心情をおくびにも出さない。

 こんな状態では国籍も人種もなにもないと、肩を竦めてみせたのだった。


「確かにそーだ」


 元より少女には、追及するつもりなどはなかったのだろう。

 軽く声を上げ笑う少女を見て、腹から苦い空気を静かに吐き出す。

 自らならばたとえば、フリーターJ、だろうか。

 少女へ向けて、そんな肩書きでもって名乗るのはなんだか嫌だった。

 こんな世界では最早わずかな意味すらもないプライドがそうさせたのか、それとも、普段接する機会などない女子高校生という生き物への無意識からくる羞恥だったのかは、私自身分からない。

 ともかくも、私は少女を『エー』と呼び、少女は私を『スミ』と呼ぶことにしたのだった。

 結局は日本人的な響きになってしまったけれど、どうしてもエーがスミスとは呼びたがらなかったのだから、仕方がない。


 私達は、お互いのことを多くは語らなかった。

 エーについて私が知っていることといえば、エーが女子高校生で、ひとりきりで、頭は悪くないらしいということだ。

 一方、私についてエーが知っていることといえば、日本人顔で、ひとりきりであることくらいで、けれどエーが私について他に何かを悟っていたとしても、わざわざそう告げてくるという保証もないのだから、これはあくまで推測でしかない。

 頭は悪くないようだし、もしかすると私の言葉の端々からもっと多くの事柄を察知しているのではないか、いや、察知していておかしくはない――そう考えているというだけの話だ。

 ただ、もしエーが私についての何かを察知していたとして、それはエーにとっても私にとっても、意味を成すことではなかった。


 未だ冷たく、それでいて湿った風がうらぶれた街のにおいを連れてくる。

 人間の営みが立ち行かなくなって、未だ一ヶ月。

 それ故にか空は相変わらず汚れた空気に濁っていて、そうであるのに、肺へ取り込んだ酸素には強すぎる緑が香っていた。


「あたしずっとね、天使が落ちる、って意味だと思ってたんだ」


 揃えられた少し汚れたスニーカーが、たん、と跳ねて、黄色い線から緑色の塗料へと降り立つ。

 エーは、どことなくはにかんだ様子だった。

 黒目がちな瞳が、私へと向けられている。


「こいつ英語苦手だなって思ったでしょ。子供の頃の話だからね」


 貴方はまだ子供なのだとは、言わずにおいた。

 まだ子供で、人生を振り返るには若過ぎるのだ――と、そんなことを言ったところで、エーにとっては確かに振り返らずにはいられないタイミングなのだろうから。


「フォールは滝って意味なんだよね? それ知って、ちょっとショックだった」


 『エンジェルフォールエンジェル氏の滝』が『天使の滝』であるのだと信じきっている無邪気さは、今この場所にあっては、好ましくもあり、痛々しくもあった。

 子供の夢をわざわざ壊してやることなど、私には出来ない。

 信じたままでいさせてやろう――そんな傲慢さが込み上げてきて、それと同時に、自らの中に生まれていた諦めを改めて認識することとなった。


「エンジェルフォールから落ちる水は、天使になるのかな。だから、滝壺がないのかな」


 空へ視線を投げて、エンジェルフォールの姿を思う。

 あまりにも高い岩肌から流れ落ちた水は、そのままの姿を保てずに細かな粒子となって舞い上がる。


「あたしも、高いところから落ちたら、あんな風天使になれるかな」


 それは恐らく、願望だった。

 私がそう認識すると同時に軽やかな――軽やかすぎる足音がヘリポートから遠ざかっていく。

 つまり必然的に、私からも離れていくということだ。


 私は、追いかけなかった。

 いや、正確に言うなら、足はエーに向かって走り出していたけれど、それは、私がエーを追いかけなければならないという意志でもって行なったことではない。

 私がであるが故の、義務だった。


 そしてきっとエーは、私がそれを義務で行なっていると悟っていた。


 エーが振り向く。

 反射的に立ち止まった私との距離は、およそ二フィート。

 それ以上の距離を詰めることを、エーは眼差しで拒絶していた。


「スミちゃん!」


 張り上げた声で、制服姿の少女は更に壁を作り上げる。

 エーは、屋上の縁に立っていた。

 風が吹いて、髪とスカートがはためいている。

 あまりにも明るすぎる月が青白く照らすのは、幼さを残した柔らかな曲線を描く頬。


「ごめんね!」


 目尻へ向けて透明な光が流れるところを、私は見た。


「無理だよ!」

「……どうしても?」

「うん、無理!」


 ――やはりそうかと、思ってしまった。


 後ろに傾いていく、影。

 エーへ向けて延べた手のひらが、流れ落ちる涙舞い上がる天使を掴むことはなかった。


 踏み締めた地面は、劣化して吹き溜まった砂利と、わずかな粘度を持ったに濡れている。

 エーという少女という存在は、アスファルトに滝壺を作らなかった。

 ただ、その肉体は、エンジェルフォールのように霧へ姿を変えることを、したわけでもなかった。


 月が異様に輝くようになって、約九ヶ月。

 人々がを発症するようになって、約七ヶ月。

 私がになったのは六ヶ月半前で、人々の生活が完全に立ち行かなくなったのは一ヶ月前、がエーに目を付けたのは一週間前のこと。

 そして、エーが家族を謎の病で亡くしたのが三日前で、私がエーに接触したのが一日前だった。


 杏樹という名が記された生徒手帳を、手の中で玩びながら考える――腐り落ちた右眼から這い出す蔦に侵されていく人々を、家族を、彼女はどんな気持ちで見つめていたのだろう。

 もしも、私がもっと早くエーに接触していれば、結末は変わっただろうか。

 自問し、そして、自戒する。


 ――それは、有り得ないことだ。


 私達は、エーの家族があの病で命を落としたあとでも、エーが同じく病を発症しないことを確認しなければならなかった。

 何故なら、それが私達の中での決まりだからだ。

 私達がを持つのだと分かっていても、私達の精神を守る為には必要な措置だと決めた――見知らぬ人が命を落とす様なら、どんなに痛ましく悲しく思っても、結局はどこか他人事でいられるから。

 そんな取捨選択をしなければ、私達は、この星ではもう、生きていけない。


 故に、私にはどうしようもなかった――そう言い聞かせる。

 言葉を交わしたのも、そも、エーを私達の仲間として迎え入れようという皆の意向があったからに過ぎない。

 私という個が、この広い世界からエーという存在を拾い上げようとしたのではないのだ。


 初めて顔を合わせた、二十四時間前。

 私は、泣くことも出来ずただただ蔦を見つめていた少女を、無理やりに立ち上がらせた。

 私と一緒にいきましょうと、それだけを告げて、蔦に覆われた部屋から連れ出した。


 何も言えなかったのだ。

 いや、絶望の底に沈む少女に、何を言えるだろう。


 貴女はよく頑張った?

 貴女にはどうしようもなかったこと?

 家族の分も精一杯生きて欲しい?


 私はこの少女に、届くはずがないと、思ってしまった。

 言葉が無意味というわけではなくて、ただ、もう少し時間を置いてからでないと届くものも届かないと知っていたから。


 ――いや。


 それはきっと言い訳だ。

 私は少女に、自分を重ね合わせた。

 ふとした瞬間に死を想う自分を、重ね合わせて


 キィ、と、一瞬のハウリングが聴神経をノックする。

 腹の底がずんと重くなって、叱られることが分かっている子供のようだと情けない気分になった。




 だからといって、応えないわけにもいかない。

 生徒手帳をデニムパンツのポケットに押し込んで、左耳へと手のひらを押し当てる。


『Hi,Jane』


 聞き慣れた男の声が、耳の内側で響いた。

 途端、左の頬を伝い落ちていった雫を、忌々しく思う。

 私に涙を流す権利など、あるだろうか。

 そんな私の心情を知ってか知らずか、男は吐息だけで笑ってみせた。

 困ったときそうするのだと、私は知っている。


 抗体を持つ私達を集めて、組織立った集団へと昇華し、この地球という星で尚も生きようという希望を捨てない人。

 六ヶ月半前、絶望の底にいた私を無理やりに立ち上がらせた人。

 言葉を発しなかった私を『Jane Smith』と呼んで――死なないように見張っている人。


杏樹Angeは、落とせたか?』


 男の声を聞きながらしゃがみ込む。

 どうして私が、この役を担っているのだろうか――今更ながらに思う。



 地面に広がる黒髪を指で梳いて、緩く首を振った。


『落ちたよ……物理的にだけどね』


 思っていたより沈んだ声が出たことに、内心驚く。

 これは、罪悪感、だろうか。

 それとも――


『そうか……ひとまず戻ってこい』


 男は、吐息だけで笑いはしなかった。

 まるで、結末を見通していたかのような――残念そうではあるけれど、酷く穏やかな声が、心臓の奥の方をやんわりと抉る。

 責めてくれれば良いのにと、勝手なことを思った。

 お前が少女を死なせたのだと詰ってくれたら、この言い表せられない澱みが、何で形作られているのか分かるような気がしたから。

 そして何より――死への許可証となるのだと思ったから。

 けれど、責めてはくれない。

 罰を与えられない罪が、私を縛り付ける。


『迎えに誰か向かわせる』

『いい』

『良くないだろう、お前』


 通信機の向こう側で、言い澱む気配がした。

 死なせないように縛り付ける言葉のほとんどを、もしかすると無意識に発しているのかもしれないなと、今更ながらに考える。


『ちゃんと、戻るから』

『……分かったよ』


 吐息だけの微かな笑みが耳の内側をくすぐって、通信は途切れた。


 立ち上がり、強過ぎる緑を肺いっぱいに吸い込む。

 触れた右目蓋の下には、確かに眼球の感触がした。


 ごめんね、は、私の台詞だ。

 無理やりに立ち上がらせておきながら、私には積極的に生きていこうという気力がなかった。

 きっと他の人間が彼女を迎えに来たなら、こんな結果にはなっていなかっただろう。

 分かっていた。

 あの男も、私も、きっと。

 それでも私を、ここへ寄越したのだ。


 思考を止めて、明るすぎる月を見上げる。


 彼女の魂が落下する肉体に囚われず、最期の願いが叶っていればいい天使になれていたらいいのにと、私はただそれだけを思っていた。




――――――――――――――――

※エンジェルフォールは、その存在を世界的に広めたジミー・エンジェル氏の名前から取ってエンジェルフォールと呼ばれているそうです。

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