地を這うくじらの子

空牙セロリ

第1話 自覚する恋



 草木は寝静まり、辺り一帯は静寂に包まれるこの時間はひどく穏やかで、少しだけ不安を抱かせる。人気もないここで唯一耳にできるものと言えば、転々と設置された街頭の安い蛍光灯の消えかける音と遠く向こうで走る電車の音だけだろう。かわいそうな羽虫と羽化したばかりの我は消えかける街頭に集り、その短い一生を己の手で潰そうともがいる。

 夜が更けるこの時間に閑静な住宅街を出歩く人はいない。今頃、愛しき家族と夢の中であろう。


 女は一人、この静かな通りに佇んでいた。


 春は過ぎ初夏に差し掛かるであろう時期のはずだが、相も変わらず寒さが過ぎ去らない。女が身に纏う薄手のリクルートスーツだけでは、この肌寒さは防げないであろう。

 彼女の顔には隠しきれない疲労と微かな絶望に塗られていた。

 入社し研修期間を乗り越え、慣れない業務と環境に苦戦していた。大した仕事ではないのだが、初めて関わる内容や厳しい先輩の言葉に日々泣きそうになっている。

 しかし、彼女が疲弊しているのはそれではない。特別仕事に関係は無いが、それでも彼女をここまで疲弊させる原因があった。

 ごくごく簡単な、誰にも訪れるであろう心の病。所謂、「恋煩い」という奴である。



 彼女の名前は海道みちるという。ごく普通の一般家庭に生まれたごく普通の女だ。特別何かに優れているわけでもなく、むしろ他人より幾分か鈍くさく劣っていると言っても過言ではない。

 一つ、何か特徴を上げるとすれば、端的に言って冷めた人間であるということだ。


 そう、彼女は冷めた人間だ。

 友人と笑い合い、時には怒りもする。だがその実、彼女は何も思いもしていない。芸人のコントに表面上大笑いをすれど、心の底ではたいしておもしろいと思っていない。感動的な映画を見ても心の底から心が動かされることが無い。ひどくひどくつまらない冷めた人間だ。

 おそらく身近な人間が亡くなっても涙を流すだろうが、意識しなければ心の底から悲しむことはないだろう。冷め切った人間。冷たく無感動な人生。彼女の内心を誰かに話すことはこれから先も無いだろうが、知った人間は彼女をそう批評するだろう。

 彼女は「みちる」という名前にふさわしくなく、今の人生で一度も満ち足りたことなどなかった。


 そんな彼女は初めて心の底からあふれ出る感情に戸惑っている。

 人を好きになる。恋いに恋をしていた初恋とは違う。心の底からその人を求め側にいたいと、自分のものになってほしいと願う。

 ふと気を抜けば暴れまわり、周囲の人間をひっかき回してしまいそうにいなる。そんなことをしたって自分の想い人から侮蔑の視線をもらうだろうことを思えばそんなことできないできないだろうし、そもそも人として社会人として越えてはいけない一線だ。

 あふれかえり自分自身ではどうしようもない感情をどうすれば良いのか、みちるにはわからない。


 彼女の想い人はごく普通の男だ。

 申し訳ないが決してイケメンであるとは言えない。容姿は可もなく不可もなく。あえて言えば切れ長の瞳と、眼鏡を外すときに少し目を伏せる仕草がみちる曰くかっこよかったとのこと。

 きっかけはお互いに好きなマイナーなゲームを知っていることだった。そこから会話が弾み、ゲーム以外の話しもするようになるのに時間はかからず、彼といる時間は心地良くなった。

 自分が話せば真剣に目を見て聞いてくれるところや、彼が楽しそうに話す映画の話題のこと、ふとした仕草や時々絡まる視線がみちるにとってくすぐったく、たまらなく好きなのだ。そう、好きなのだ。


 はじめは「好き」という気持ちだけで十分だった。会社ぐらいでしか会うことができないが、それでもほんの少し会話をしたり、自分の目に彼の姿を映すだけで幸せだった。これが恋か、と彼女は想い人の横顔を盗み見ながら言葉を噛みしめる。本当にこれだけで彼女は幸せだったのだ。


 少女マンガのようなふあふあした幸せな気持ちは長続きしなかった。

 乙女心はなんと欲深いものか。一緒にいたい、自分を見てほしいという気持ちは日を追うごとに大きくなり、想い人のそばに自分以外の女性がいるだけで悪い意味で心がざわめく。同期の女性が彼と少し話しているだけで叫びたくなる。

 同期の女性たちは良い子なのだ。仲も良く、みちると共にバカ騒ぎだってするときもある。みちるにとって彼女たちはかけがえのない同期であり、友人たちでだ。だからこそ、自分の独りよがりで自己満足なくだらない嫉妬心を彼女たちに向けるのが何より辛い。大切な友人たち、何かとみちるを気にかけ、頼ってくれる人たち。大切な友人たちに敵意を向けてしまう自分が憎いと叫びながら、想い人に近づくなと言う自分がいる。

 恋とはなんとも辛いものか。大切な者たちに牙をむき、心の中でナイフを突き立ててはそんなことを考える自分に嫌悪感を抱き、大切な者たちへの罪悪感でつぶれそうになる。


 彼女はいつだって自問自答を繰り返している。

 本当に彼が好きなのか。その恋心は本物なのか。自身がそう思いこんでいるだけなのではないか。

 どんなに考えても、彼女の答えは一つだけ。

 海道みちるは彼のことが好き、である。


 ここ最近、彼女はこの暴れ出す恋心とそれに対する嫌悪感、友人たちに対する罪悪感に疲弊していた。

 何せ彼女にとってここまで強く心を動かされること自体初めてなのだ。どうすれば良いのか、何をすればこの荒れ狂う心を静められるのか。彼女は知らない。

 好きになればなるほど自分自身が嫌いになっていく。醜い嫉妬心が心で暴れ、黒い感情が積み重なる。彼女は自分がどんどん醜くなっていくのがわかっていても、それをどうにかするすべを持っていない。


 好き。彼のことがどうしても好き。だけど、こんな冷たく醜い人間が彼とつき合えるとは思っていない。だから告白なんてできない。それでも、それでも私以外の人が彼の隣にいるなんて耐えられない。友人たちに嫉妬する自分が醜い。行動なんてできないしないくせに人一倍嫉妬する自分が醜い。ああ醜い。


 恋は少女マンガのように輝いてなんかいなかった。嫉妬と独占欲、自分への嫌悪感は黒く渦巻き、日々自分の心へナイフを突き立てる。

 みちるは思う。恋なんてしなければよかったのに。そうすれば醜い自分を見なくてすんだのに。酷い自分に気がつかなくてすんだのに。

 嗚呼、現実はなんて辛いものなのだろか。


 力の抜けた足では彼女自身の体を支えることができず、崩れ落ちる体は隣の電柱が受け止める。スーツが汚れることも考えず、捨てられた人形のように座り込んで彼女はつぶやく。


「恋は地獄だ」


 絞り出たようなみちるの細い声は誰にも聞かれることなく空気へ溶ける。


 どこか遠くでくじらが鳴く声がした。

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