8・正しい視え方
家に戻っても、やはり姉はいなかった。すぐさま祖父に言い、パートへ出ていた母へ連絡。そして、父にも電話を入れた。
帰ってきた途端に母はあわあわと言い、顔面蒼白になる。
「まさか……真麻江ちゃん、駆け落ち……」
「いや、母さん、駆け落ちとかそんな生易しいもんじゃないと思う……下手したら、姉ちゃん死ぬかもしれない」
あまり心配はかけたくないけれど、事実を伏せても意味はない。母はすとんとダイニングに座り込み、静かになった。
父はすぐには抜けられないらしく、仕事が落ち着いたら帰ること、今は祖父の指示に従えと素っ気ない文がLINEで送られてきた。
「太一、ひとまずは真麻江が行きそうなところを捜すんだ。信一朗が帰ってくるまでに見つけ出せたらいいが……くれぐれも気をつけるんだぞ」
「分かった」
祖父に言われずとも、また捜しに行くつもりだ。
「太一……無理はしちゃ駄目よ」
母の不安げな声を背に、僕はバタバタと再び外へ向かった。
しかし、姉の行きそうな場所なんてそう思いつかない。学校か駅前か、あとはショッピングモールか。姉の行動範囲なんか実はよく知らないもので、駅前に戻ってきたものの闇雲に走り回るだけで体力を消耗してしまう。季節は初夏。カンカン照りとまではいかずとも、爽やかには程遠い気温。それに普段はろくに運動もしないものだから、バテるのは早かった。
何度も連絡は入れている。だが、姉からの返信は一切ない。それが余計に不安を駆り立てる。
「なんで出ないんだよ……」
スマホに文句を言っても意味はない。けれど、どうしようもない苛立ちをぶつけないと気が収まらない。学校へ行ってみようかと改札に向かいかけると、背後から「太一!」と呼ぶ声が聴こえてきた。祖母だった。
「見つからないのかい?」
「うん。家にも戻ってない。とにかく、爺ちゃんと母さんと父さんには言ってあるから……僕は、今から学校に行って捜してみるから……」
「あんた、顔色悪いわ。ちょっと落ち着きなさい」
祖母は冷たい手で僕の額を弾いた。
なんでそんなに暴力的なんだ……しかし、その冷たさが焦りを軽減したような気がして、僕はゆっくりと呼吸した。息を大きく吐き出す。
「真麻江はあんたみたいに弱くないからね……でも、心配は心配だ。学校を捜すったって、あんた一人じゃ日が暮れそうだわね。婆ちゃんも着いていこう」
「それだと心強い、かな……」
言いたいことは色々あるけれど、今は無駄話をしている暇はない。
改札を抜け、地下鉄に乗り込む。昼時の車内は空いているけれど、僕は扉にもたれて暗いトンネルを眺めていた。ガラス窓には祖母が映っている。一人じゃない、ということは今の僕にとっては救いだった。
結局、学校をくまなく走り回ったが姉はいなかった。陽介にも連絡をして姉の姿を見てないか聞いたけれど有益な情報は得られなかった。学内に知り合いは陽介しかいないので、僕と祖母だけで捜すしか手はない。広い構内で捜索するのは困難を極め、父が戻ったことが分かればまた家まで引き上げることとなった。
その帰り道、五丁目の電柱に立ち寄った。ケイスケさんが事故に遭ったという場所だ。ここには花束がいくつか置いてあるが……誰もいない。
肩を落として、家路へと急ぐ。その間、祖母は何も言わなかった。
玄関を開けると、苛々とした空気がすぐに伝わってきた。居間では父と母が何か言い合っている。こわごわ覗くと、その空気はとても重たいものだった。
「警察に言っても駄目だ。出来る限りは回ってみるから、とにかく、母さんは真麻江に連絡を取り続けて。大丈夫だから」
「でも見つからなかったらどうするのよ。私、嫌よ、真麻江ちゃんが幽霊になって戻ってきても……私、視えないんだから!」
「縁起でもないことを言うな。大丈夫だって言ってるだろう……あぁ、太一。ちょっと母さんのことを頼むよ」
父の口調は僅かに荒かった。焦りと不安が募っている。母から伝染したものか。
もし、姉を見つけた時にはその場で問答無用に平手打ちをしそうな勢いだ。
「……やっぱり僕も行こうか」
「いやいい。足手まといだ」
ともかく、父の怒りは感じた。
大事な娘が音信不通なのだから当然だろう。それに昨日の今日である。僕も色々と心配や迷惑はかけてきたから、父のこの怒りは「心配」であるのだと感じ取れた。
不甲斐なく黙り込んでいると、父は僕の肩を叩いた。
「余計なことを言ったのは褒められたことじゃない。でも、お前はお前でちゃんと考えて彼に言ったんだろう。それは分かっているし、誰も怒ってないよ。そう気を病むな」
僕が落ち込んでいると思ったらしい。まったく、その通りで参る。
小さく「分かってるよ」と返し、あとのことはもう父に任せることにした。
「学校と駅前は見た。近くのショッピングモールはまだ見てない」
「分かった」
父は上着とネクタイを放り投げて玄関を出ていった。祖母もその後ろを追いかける。そう言えば、居間には母しかいない……祖父の姿がなかった。訝っていると、ダイニングで呆然としている母が静かに口を開く。
「お爺ちゃんもね、捜しに出ていったの」
「マジか……大丈夫なの」
あのヨボヨボまで捜しに出ているとは、真麻江、帰ってきたら本当にぶん殴られるんじゃないか。
「私も行きたいって言ったのに、お父さんたちが駄目って言うから……」
母は視えない人だから、もし姉を見つけても隣にいるかもしれないケイスケさんには気づけない。その場合の対処がもしかすると上手くいかないかもしれない。それは母も理解しているようで、こうして大人しく家にいるわけだ。
「でもね、やっぱり悔しいかな。こうなった場合、お母さんだけ蚊帳の外だもの」
母は「はー」と長い息をつくと、携帯電話を開いた。真麻江の番号に電話をかけ始める。
「まったくもう、うちは本当に変な家族よね」
電話のコール音を聞きながら僕を見る母は、気を持ち直すように苦笑した。
***
それは、日が暮れた頃。母の携帯電話に着信が入り、すぐに出ると父からだった。
『今から帰るよ。真麻江は無事だから』
声音が不穏だったのだが、ひとまずは安心した。その数分後に全員が玄関の戸をくぐって現れた。母と僕が出迎えに走る。
姉は真っ赤に目を腫らして帰ってきた。母からの包容もそそくさと済ませ、彼女はバタバタと部屋に上がっていく。父と祖父、祖母を見ると、三人とも渋い顔つき……
さて、一体何があったのだろうか。真麻江抜きで一同は居間のちゃぶ台を囲む。
父は部屋着に替え、祖父は母から出されたお茶を啜っている。祖母は黙ったまま。重苦しい空気が漂っている。
「えー……結論から言うと、真麻江とケイスケくんは別れたらしい」
父が咳払いした後、静かに切り出した。
「現場に行くと、既にそんな状態だったんだ。まぁ、真麻江のことだから危ないことはないだろうと思っていたけど……あぁ、ちなみに見つかったのは、ケイスケくんが住んでいたアパートの辺りだ」
「えーっと、それは何なのかしら。喧嘩したってことかしら」
母が言う。すると父は呆れたように唸った。
「うん」
「はあ……良かったぁ……いや、いいのかな。良くない? あれ?」
混乱する母。気まずそうに目を伏せてしまう。
「んまあ……人生は楽ばかりじゃあないからなあ。楽しいだけで生きてけたら世話ねえわな。ちなみに俺が見つけたぞ」
祖父が澄まして言う。しかし、横にいた祖母が「見つけたはいいが、あんた、二人の言い合いを邪魔してたじゃないの」と小言を述べる。祖父はちらりと祖母を見て悪戯っぽく笑った。
「大体、信一朗がいたからすぐに見つかったようなもの……爺さんが丁度近くにいたから連絡してすぐに行けただけなのよ」
なるほど。父の直感は人探しにも役立つわけだ。確かに僕まで捜索していたら足でまといだった。
「お父さん、真麻江になんて言ったんですか」
父が祖父に訊く。すると祖父は「うーん」と唸り、お茶を飲み干すと、もちゃもちゃ咀嚼して言った。
「次探せっつっといた。別れ話に差し掛かってたからなあ……いやあ、今時の若い子は未練がましくて良かねえな。スパッと切っちまえーって言ったらどっちとも泣いちまうから呆れたもんだ」
「………」
ジジイの介入は良かったのか悪かったのか分からない。ただ、この適当さにはなんとも言えない気まずさがあった。それに、こんなに大騒動を引き起こしておいて、割りと穏便に済んでいるので拍子抜けである。
父もあんなに怒っていたくせに、今ではのんびりと「まあ、まだ若いしな。そういうこともある」とかなんとか呟いている。
「えー……ちょっと、なんか色々腑に落ちない」
思わず言うと、全員がため息を吐いた。
なんという結末だ。散々走り回って捜していた間、喧嘩して別れを済ませていたとは。しかも、昨夜に姉が言った通りになっている。
僕は天井を仰ぐように全身を仰け反らせた。疲労が一気に降りかかってくる。すると、横から母が肩を小突いてきた。
「ねぇ、太一。あなたちょっと話を聞いてきてちょうだいよ」
「えぇ? なんで僕が。母さん行ってきなよ。同性じゃん」
「こういうのはお母さんよりもあんたの方が聞き出しやすいのよ。あの子、意地っ張りだから親には絶対そういうこと言わないもの」
母の言葉には納得がいかない。そりゃ、気になるけど聞きたくないというか。なんか、複雑だ。
「いいから聞いてきて」
追い立てるように母が言う。
僕は仕方なく立ち上がると二階へ向かった。
「姉ちゃん……?」
部屋のドアをノックしてみる。こういう役回りばっかりで嫌になるけど、アフターケアくらいはしないとと考えてもいた。しかし、返事は何故か僕の部屋から聴こえてきた。
「こっち」
そう言ってひらひらと姉が手招きしてくる。いや、そこ僕の部屋なんだけど。
入ると、彼女は僕のベッドに寝そべった。壁側を向いており、絶対に顔を見せない。
「……振ってやった」
姉は静かに、掠れた声で言った。
「なんか最初から怒ってたし。そんで、蓋を開けたらあんたのことを悪く言うんだもん。聞いたよ、朝のこと。あいつ、あんな姑息な手を使うとは……器のちいせぇ男だよ。だから振った」
「待って。僕のせいで喧嘩して別れたとか言わないでくれよ」
それはいくらなんでも荷が重い。父には気を病むなと言われたけれど、僕のせいとなれば話は別だ。
「太一のせいじゃないよ。大体、あんたに口裏合わせてもらおうなんて考える事自体、あたしが嫌だもん。なんで太一の手を借りなきゃいけないんだ。そりゃ、あたしだけで説得は難しいかもしれないよ。頼りないかもだけど。でもさ、あたしは弟を使って手を回すようなずるいやり方が気に入らないわけ。正々堂々と戦えっての」
……なるほど。幽霊云々とかそういう次元ではない理由だった。
姉は、幽霊だろうとなんだろうときちんと「人」として見ている。どんなに好きでも気に入らないことを相手がしたら怒るし喧嘩をする。
そう言えば、昔、僕が幽霊の子供に追い回された時に助けてくれたのは姉だった。姉がぶん殴ってその子供を黙らせた。まぁ、彼女の目では生きている子供に視えたらしいが。
「でも、僕があの人を怒らせたから、かもしれないよ……それで、姉ちゃんに当たったとかじゃないの?」
この負い目はしばらく拭えないだろう。
父の言う通り、僕は不器用すぎる。もっと上手い言い方があったかもしれないのに。そんな悔しさがどうしてもあった。しかし、
「いや、あんたが気にすることないよ。これはあたしの問題なんだから」
姉は背を向けたまま笑った。でも、鼻をすする音が端々にあった。枕にしがみついて、小さく丸まる。絶対に泣き顔を見せてはくれなかった。
「――ごめん、太一」
それは何に対してだろうか。散々走り回って捜させたことか。それとも、僕を二人の間に巻き込んだことだろうか。
言葉足らずの「ごめん」では、本心が分からない。でも、僕はぶっきらぼうに「いいよ」とだけ小さく返した。
***
幽霊も不思議も、僕にとっては些細な日常。あの電柱の影にもいる。人混みの中にも。生きている人の中に紛れ込んでいる人や動物が。
今日もまた僕は学校へ行くために駅へと向かう。そこにもやはり、幽霊はいる。
「あ、太一くん」
声をかけられることもあるけれど、陽介以外の人間が僕の名前を呼ぶことはない。
振り返ると、相変わらず顔が崩れた男がそこにいた。黒ずみが僅かにあるけど、悪霊とまではいかないか。
「……なんですか。ていうか、まだ成仏してないんですね」
姉の元カレ、ケイスケさんが軽く手を振って僕の元までやって来た。
「うん。だから今から逝こうと思うんだよ。真麻江ちゃんやご家族には本当に迷惑かけてしまって、申し訳ないと思ってるから」
なるほど。だからこの地下鉄のホームにいるわけだ。どうやら、この地下鉄甥浜線は彼岸に近い場所らしい。地下鉄に乗って、長い四十九日の旅をするのだ。あの犬も電車に揺られているんだろう。
「それならまぁ、良かったです……でも、諦めが早いですね」
結婚までしたいと言っていた割にはあっさりとしている。訝っていると、ケイスケさんは苦笑した。
「未練がましいのは情けないってお祖父さんに言われてしまったし、何より真麻江ちゃんが、弟を悪く言うやつは願い下げだ! って言って取り合ってくれなかったんだよ……姉弟、仲がいいんだね。羨ましい」
僕は「あはは」と引きつった笑いを上げる。まさかこんなところで辱められるとは思わなかった。
まったく、あの姉は……それに絶対、今回の件でも懲りないだろう。そんな気がする。
お騒がせな姉は僕が出かける前まで眠っていた。いつものように腹を見せて。それを思い出してげんなりする。
「太一くん。真麻江ちゃんのこと、よろしくね。いい人見つけてねって言っといて」
ケイスケさんは寂しげに笑いながら言った。
ん? あれ? 顔が視える……穏やかな表情が一瞬だけ僕の目に映る。姉が言ったように、確かに爽やかな顔……でも、次の瞬きで彼はその場から消えていた。
『間もなく、四番乗り場に電車が到着します――』
アナウンスが鳴り、電車が風を紡いで走ってくる。その風は列の最後尾にいる僕の元まで吹き付けた。
また一日が始まる。今日は穏やかに過ごしたいところだ。
《完》
山田家の霊感事情 小谷杏子 @kyoko
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