7・くすぶる思い

「――真麻江」


 唐突に呼ばれ、振り返るとそこには婆ちゃんがいた。眉を寄せているも睨んでいるわけではなく、まじまじと調べるような目つきだ。


「……何よ。あのクソ親父に言われて監視してるってわけ」


 あたしはふてぶてしく返し、目の前でアホみたいに尻尾を振っている小さなパグに手を伸ばしていた。べろべろと指先を舐めてくる。可愛い。顔面はぶっさいくだけど。


「そのわんちゃん、どんなお顔なの?」


 てっきり怒られるかと思ってたのに、婆ちゃんは優しく言ってきた。


 駅前の、ファストフード店の看板がかかる壁際。日陰になったこの場所は人通りが少ないからか、この小さなブサカワ犬はずっとここにいる。太一が言うには、これは黒い影の類らしいけれどあたしにはただの愛嬌たっぷりの犬にしか視えない。


「パグだよ。しわくちゃのぶっさいく」

「あらまあ、可愛くないねぇ」

「可愛くないよ、顔面は。でも、めっちゃべろべろ舐めてくるし人懐こいし、可愛い」

「そうかい……あんたにはそう視えるんだねぇ」


 しみじみと言う婆ちゃん。本音を隠すような言い方が腹立たしいけど、怒る気にはなれない。脱力してしまう。


「……なんだよ。みんなには顔すらも視えないんだね。可哀想じゃん。そうやって視えないからって毛嫌いすんの。この子だって、他の黒いやつだって寂しくて見つけてほしくて、ただそこで路頭に迷ってるだけなんだよ」

「そうさ。よく分かっているじゃないの」


 婆ちゃんはそう言うと、あたしの頭をくしゃくしゃと撫でた。力の加減が分からないのか、髪の毛をくしゃくしゃにしてしまう。あたしはむっと唇を尖らせた。


「でもね……まあ、寄せ付けなきゃいいんだけれど、このわんちゃんもそうだし、成仏出来ない黒い人たちにそんなことは出来ないの。誰もが死ぬことを受け入れて死んだわけじゃないからね。逝くべきところへ逝けないのはそういうことだよ」

「婆ちゃんもそうなの?」


 七年前に死んだ婆ちゃんは今もずっとうちにいる。爺ちゃんと仲良く一緒に過ごしている。未練がある、と言えば爺ちゃんのことだろうなと思っているけど、本当のところはどうなのか。


 あたしは駄目で、爺ちゃんと婆ちゃんはいいという、その理屈は――分かっている。爺ちゃんと婆ちゃんは今までずっと家と家族を守ってきたから、その一つが急に欠けると不安定になる。それは分かっている。ただ、納得出来るだけの理由を与えて欲しい。でないと、簡単に諦めることは出来ない。

 婆ちゃんを見ると、少し怒ったようなため息を吐き出していた。


「まったく、早く成仏しろとでも言いたげだねぇ。可愛くない孫だ」

「どーせ可愛くないですよーだ」

「不貞腐れないの。いいかい、真麻江。あんただって馬鹿じゃないんだ。理屈は分かっているんでしょう?」

「分かんない」


 わざと言ってやると、婆ちゃんは「まったくもう」と苛立たしげに言った。


「お爺ちゃんだけであんたたちのこと守るのは頼りないからよ。言わせないでちょうだい」


 ああ、やっぱり。


「……要するに、婆ちゃんは爺ちゃんのことが心配で心配で仕方ないんだねぇ」


 へらっと笑ってみせると、婆ちゃんは顔をしかめた。面白くなさそう。でも、その悔しそうな顔があたしには愉快で仕方ない。クスクスと顔を俯けて笑っていると、いよいよ婆ちゃんが頭を叩いてきた。

 パシン、と軽い音。


「あーもう、いったいなぁ……」

「生意気言うからよ。あんたは強い子だけど危なっかしいから、おちおち成仏なんてしてられないわ」

「余計なお世話だよ……もう……痛いじゃん」


 頭はとっくに痛くない。

 でも、別のとこが痛い。どうしよう。気持ちにふんぎりなんてつけたくないのに、見えない圧力みたいなもののせいで「諦め」という言葉が脳裏をよぎっていく。目の前の犬があたしの膝に擦り寄ってくるから、余計にくすぐったいし気持ちが段々と沈んでいく。落ちていく。悲しい。

 全然諦められないのに「駄目だ」という言葉が全身を縛り付けてくる。昨日までの高揚が思い出せなくなっていく。


「真麻江」


 いつの間にか前に婆ちゃんが立っていた。そして、犬を抱き上げる。


「ゆっくりでいいのよ。すぐに諦めろなんて言わないから。それに、あなたが誰かに受け入れてもらえるってことが分かってみんなが喜んでいたんだよ。これは嘘じゃないよ。お祖父ちゃんもお父さんもお母さんも、太一だって喜んでいたんだから」


 太一はどうだろう……あいつはなんかそうは見えなかったけど。


「それに、あんたはまだまだ未熟者だからね。これからよ、これから。たかが21歳で人生終わったみたいな顔しないの」

「いやぁ……でも、これ逃すとマジであたし、婚期ないって。大事な孫、嫁に出せないよ」


 言ってみると婆ちゃんは犬を抱いたまま苦笑した。


「あんまり早くに嫁に行かれても寂しいからねぇ……それに、もうちょっと女子力ってやつを磨けばいいじゃない。というか磨け。お前に足りないのはそこだ」

「うぅん……急に厳しいこと言うなぁ。そう簡単に変えられっかよ」

「だから、楽しようと思うんじゃないの。時間かけて磨いていきなさい」


 ピシャリと言うと、婆ちゃんは犬を連れて影の向こうへスタスタと歩いていった。同時に、あたしは追いかけるように立ち上がる。


「どこ行くの?」

「このわんちゃんを導くのよ。逝くべきとこに連れてってやらないと、可哀想だからね」


 婆ちゃんはふわりと舞い上がるように、その場から姿を消した。


 ***


 ケイスケさんは近づいては来なかった。だから僕もその場で止まっている。距離にして数メートル。話が出来るくらいの距離ではある。


「――実はさ、太一くんにお願いがあって」


 彼はおずおずと切り出してきた。やっぱり、僕に用があったんじゃないか。白々しい。


「でも、そんな風に最初から言われちゃ、お願いしづらいなぁ」


 真麻江を諦めろ、と言ったことだろうか。先手を打っておいて正解だった。ただ、僕はそれ以外に言うものが見つからず、黙り込んでいる。人と話すのは苦手だ。少し慣れてきたにしても、それは身内だけのこと。


 ケイスケさんは顔を俯けて逡巡しながら溜息を吐いた。向こうも向こうでなんと言おうか迷っているらしい。


「そうだなぁ……本当はね、君伝でお父さんたちを説得してもらいたかったんだよ。視える人たちだから許してもらえるかなぁって思ってたけど浅はかだった。ワンチャンいけるって、そう思ってた」

「ぶっちゃけますね……なんか、そう言われてしまうと益々怪しいですよ」

「うん。分かるよ。でもさ、期待しちゃったのも事実で。それに、気持ちに嘘はないしね。やっと願いが叶ったってのに死んでるし、でも真麻江ちゃんは俺のことが視えるわけで、これ以上ない奇跡というか。逃す手はないでしょ」


 それは、そうだと思う。超絶迷惑な奇跡だけど。ただ、気持ちに偽りがないということは信じてもいいんだろう。でも――


「だったら、別に結婚しなくてもいいじゃないですか」


 そう。交際ならまだしも、こんなに早々と結婚を決めてしまったのはいくらなんでもおかしい。気持ちが逸りすぎている。

 まるで、姉をにしようとしているみたいだ。


「うん。そりゃ、逃したくはないよ。だって俺、死んでるんだよ? 真麻江ちゃんと別れてしまうと、いよいよ俺の居場所がなくなるじゃん」


 彼は渇いた笑いを上げた。空っぽの笑い。僕はもう一歩下がった。


「……死んだらさ、存在が消えるんだよ。誰の目にも映らないんだ。話しかけても返ってこない。突然だよ、あっという間。目を覚したらそんな状況で……簡単に受け入れられるわけないだろ」


 未練が溢れてきた、と認識した。彼の全身から未練の塊が一気に浮かんだ。それは、黒ずんでいて段々と彼を侵食していく。僕は目を瞠った。


「死んだことないから分かんないよな。誰の目にも映らないって、相当きついんだよ。家にも帰れないし、実家に行けば親は泣いてるし、慰めようにも出来ないし、まだやりたいことあったし、普通に寿命最後まで使って死ぬんだと思ってたし、どうせまだ先のことだと思ってたし……それが、一気に消えたんだ。だからさ、いいだろ。期待したって」


 僕は少し後ずさった。気持ちは、分かる。実はよく分かる。僕もつい最近まで、幽霊みたいに生きていたんだから。

 生きているのに、死んでいる。死んでいるのに、生きている。その境界が分からない世界につい最近までいたんだから。


 でも、駄目なものは駄目だ。情を持つな。これは彼の問題であって、僕までが請け負うことでない。余計な情けだ。


「太一!」


 背後から鋭い声が上がった。それは耳に馴染みのある声。


「え? 婆ちゃん?」


 祖母は小さな黒い影を抱いて、僕らを睨みつけていた。


「太一。こっちに来なさい。早く」


 言われるまま、僕は半透明な祖母の元まで駆け寄った。黒い影を抱いているせいで、ちょっと離れておくけれど。


「あんた、あの子に何したの」


 祖母は遠く離れたケイスケさんをじっと見つめながら訊いてきた。


「え、僕に訊くの、それ」

「そうよ。あんた、何かいらんこと言ったんじゃないでしょうね。昨日までなかったのに、あんなに真っ黒になっちゃって。良くないわ」


 いらんこと……僕は顔をしかめた。それを見て、祖母が呆れの息をつく。


「まったくもう。未熟者は大人しくしときなさい。お父さんに任せれば良かったものを」

「……ごめんなさい」


 言い訳も出せず、僕は項垂れた。すると、祖母が「あっ」と声を上げる。見ると、もうケイスケさんは消えていた。


「太一」

「……はい」


 祖母の声が重々しい。僕は恐る恐るその顔を見た。般若顔……これは、姉が見せるものとそっくりで、すかさず拳が腹を貫いた。


「この大馬鹿もの! 外に姉ちゃんがいるから早く迎えに行きなさい!」

「はぁ? 嘘だろ。なんで外に姉ちゃんが……」


 いやそれよりも、僕の腹が無事じゃない。殴った後に迎えに行けだなんて、鬼か、このババアは。


「つべこべ言うんじゃない! いいかい、家に帰ったら爺さんに言うんだよ。そしてお父さんにも連絡しなさい。ちょっと、事情が変わってしまいそうだ」


 それはそうかもしれない。とにかく、僕は言われたとおりに改札まで走った。腹は冷たさと痛みで疼くけどこればかりは気にしていられない。


「婆ちゃんは?」


 慌ててホームを出ようとして、ふと立ち止まる。祖母は未だ怒り顔でいたが、腕に抱く黒い影に目を落として言った。


「このわんちゃんを電車に乗せてからすぐに行くわ。だから、先に行きなさい。グズグズするな」

「わ、分かった……」


 厳しい祖母の声を受け止め、僕はもう振り返らずにホームを出た。

 外……祖母が抱く犬がいた場所に、もしかしたら姉がいるのか。ということは、日陰になった場所か。

 何の確証もない勘を働かせて、駅の外へ飛び出す。左右前方、確認するけれど姉らしき人物はない。日陰まで行けども、やはり姿はない。


 しばらくぐるりと駅周辺を走り回ったが、姉の姿はなかった。スマホを出し、電話をかける。言いようのない焦りが全身を占め、コール音の安穏さに苛立ってしまう。


「早く出ろよ……真麻江……」


 だが、願いは虚しく耳元には無慈悲な機械音だけが流れていた。

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