6・地下鉄の中で

 僕は二度、悪霊に取り憑かれたことがある。

 一度目は幼少の頃、保育園の帰り道。二度目はつい一年前のこと。なんだかヤケになって自分から近づいた。

 どちらも同じ悪霊で、原型をとどめていないどす黒い思念の塊だ。それに捕まった。


 姉が悪いものを視ない体質なら、僕は悪いものに惹かれやすい体質なんだろう。ちなみに、祖父は寄せ付けない術を持っている。祖母も同じく対処には手慣れている。父は視る力は良くないが直感は優れており、僕が二度目に悪霊と遭ったその夜、何も報告していないのに気づかれた。「何を考えているんだ」と殴られそうな勢いで怒られた。勿論、土下座して謝った。


 我が山田家は霊感の他にも何かしら特異な体質を備えているらしい。母は驚異的なポジティブ思考というくくりでも良さそうだが、母はとにかく精神が強い人だと思う。でなきゃ、霊感を持った男と結婚なんてしない。

 僕が小さい頃、悪霊に取り憑かれた時に近くにいたのは母だった。悪霊というのは強い思念を持っている。故に、未熟な幼児の思考や行動を乗っ取ることは容易い。悪霊に支配された僕はその場に居た人たちに猛威を振るったという。覚えていないけれど、母が傷だらけだったことと僕の側から離れたことはよく覚えている。しばらく、母は僕と距離を取っていた。

 そんな現場を勿論、姉の真麻江が知らないわけがない。狂暴化した僕のことも知っている。だが、悪いものを映さない姉の目には、僕の周りに漂っていたという黒い影は視えなかったらしい。だから、何が起きていたのかを理解するのに時間を要したのだそうだ。


 あの黒の影に捕まると、何も考えられなくなる。思考が消える。とにかく悪い気持ちでいっぱいになり苦しくなる。嫌なことを思い出す。墨の海に放り込まれたような――終わりがない、果てがない真っ暗闇だ。ずぶずぶと沈んでいく。光なんてない。優しさもない。ぬくもりも、癒やしも、何もない。


 それを僕は、地下鉄のホームに入るたび思い出す。この駅は人の出入りが多い。満員になる時間帯も決まっていて、そんな朝に僕はついうっかりと「幽霊電車」に迷い込んだ。自分の体質に向き合えなかった頃のことだ。人と話をして、受け入れてみることを学んだ。そして、後悔が教える「幸せ」ってやつも知った。

「幽霊電車」がひっそりと走るこのホームで、優しさに触れて絶望してまた優しさに出会えた。そんな出来事を思い出す。


 そして、出会った幽霊たちから繋がれた縁が今、横で大あくびをしている……


「一限だりーな……」


 陽介はのんびりと言い、気だるそうに電車を待つ列に並んでいる。


「一限だりーなって思えることも幸せなんだろうな……」


 ぽつりと呟くと、陽介は怪訝に眉を曲げた。


「どうした、太一。俺のことアホって言ってる?」

「そんな風に言ったつもりはないよ」


 彼は彼なりに苦労しているはずだ。昨年に父親が亡くなっているのだから、朝は実家の花屋を手伝っていると聞いた。お母さんだけで切り盛りするのがまだ大変だからだろう。

 陽介はスマホの画面で時間を確認しながら適当に唸った。


「ふーん……まぁ、なんか相談があったら言えよ」

「よし、分かった。相談しよう」


 僕だけで悶々と考えていても仕方がない。彼なら理解も早いし、なんたって昨日は姉にも会っている。陽介は身構えていなかったようで「はやっ」と驚きの声を上げた。


「僕が今ものすごく困っているのは姉ちゃんのことなんだ」

「ほぉ、真麻江ちゃんか……あの姉ちゃん、凄いもんなぁ……面白いけど」

「うん。その真麻江が昨日、彼氏を連れてきて」

「えっ」

「しかもその彼氏、幽霊で」

「は?」

「結婚したいって言い出して」

「ちょっと待て、太一」


 陽介は慌てて止めた。そして低い声で言う。


「いくらコミュ障でも、そんな説明の仕方があるか。分かるように言え。でないとうちのバイト、いつまで経っても採用出来ないからな」

「僕がいつアサマフラワーのバイトに応募したんだよ……いや、でも、昨日の出来事を言えば本当にそうなんだけど」


 要約すればそうなる。コミュ障は関係ない。

 陽介は深いため息を吐き出し、嘆くように頭を抱えた。


「そりゃ、山田家が特殊なのは分かるよ。現にあの姉ちゃんを目の当たりにしたら分かるし、お前が俺の親父と会ったことも信じてるけど。でもな、幽霊と結婚するって普通に受け入れられる案件じゃないと思うんだよ、俺は」

「大丈夫。お前だけじゃなく僕もそうだから。当然、うちの家族も反対してる」


 それを言うと陽介は安堵したのか「ならいいや」と笑った。


「しっかし、やっぱ彼氏いたのかー真麻江ちゃん」


 陽介が落胆したように言う。こいつ、曲がりなりにも友人の姉に手を出そうとしていたのか。恐ろしい……


「で、その彼氏は死んでるんだ」

「うん……どうも、死んだ後に出会ったらしい」

「ほぉ。死んだ後でも付き合えるって可能性があるんだな。すげぇ」


 まぁ、そんな確率は奇跡や偶然が起きない限りないけども。陽介は感心したように言うが「まぁ、羨ましいと思わないけど」と小さく苦笑した。


「ただ、その彼氏凄いな……死んで更に結婚したいって思うなんて。執念がヤバすぎる」


 陽介は唸りながら言った。

 そうかもしれない。執念、か。なんだか嫌な響きだな。


「まぁ、結婚は駄目だけどね。これだけでも普通じゃないのに、死人と結婚なんて世の中やってけないし」

「でも、もし仮に結婚出来たとしても、世間的には真麻江ちゃんは独身ってことになる、のか。普通じゃないけど、可能性はなくはない……?」

「まぁね……別に出来なくもないのかな……それでいいんならって前提だけど」


 姉もケイスケさんも本気ではある。人の恋路をとやかくは言いたくないが、本当にこれでいいのかどうか分からない。そもそも、父をはじめ家族全員が反対なのだから認められるには時間が大いにかかることだろう。


「まぁ、まだ付き合って二週間らしいし、この先何が起きるか分かんないからな……それは姉ちゃんも言ってたよ。明日喧嘩して別れるかもしれないしって」

「え?」


 僕の言葉に陽介が、何か引っかかりを帯びた声を上げる。


「二週間?」

「うん。付き合って二週間だってさ。早すぎだよ、結婚決めるの。それに、向こうは死んでるけど姉ちゃんはまだ学校卒業もしてないし……」

「待った。二週間で結婚決めるって怪しすぎるだろ」


 陽介が眉をひそめて言った。対し、僕はあまり実感がない。昨日の出来事のせいで慣れてしまっているのは明白だった。


「ん? うん……まぁ、そもそも死んでも結婚したいって思うこと自体、異常というか……」


 言ってみて気づいた。何か、変だ。違和感がある。なんだろう、この不吉な予感は。


「結婚を決めた理由、ちゃんと聞いた?」


 段々と不安を感じ始めたのか陽介が問う。僕はこくりと頷いた。


「なんか元々、姉ちゃんのこと知ってて仲良くなりたいって思ってたけど、死んで後悔したから、とか言ってた。諦められなくて、でも真麻江に見つけてもらって嬉しかったんだって」

「それは、まぁ、本心かもだけど……相手は、生身の人間じゃないんだろ。死んだ人が成仏出来ないっていうのはあまり良くないって、太一、自分でそう言ってたよな」


 僕はまたも黙って頷く。陽介の言わんとしていることがなんとなく分かってきていた。


「なんかよく考えたら本気でヤバイやつじゃないか? まぁ、これは俺の思い込みだけど、その幽霊は死んだばっかりなんだよな。死んだことに納得してないんじゃないか?」


 寂しい、という思いもまた強まれば負の思念が溜まっていく。悪いものと化していく。今は良くても、どんどん不安定なものに変わってしまう。祖母は「悪いものを寄せ付けなければいい」と言っていたが、それは祖母が悪霊への対処を知っているからだ。

 これはやはり「好きだから」で済む話じゃない。


「陽介……ありがとう。事の重大さにようやく気がついたよ」

「それは良かった……だけど真麻江ちゃんだよな、問題は」


 その通り。問題は真麻江だ。あいつの思考が楽観故に、この重大な事実を突きつけても納得はしてくれないだろう。それに、あいつは悪いものが見えない。もしも、ケイスケさんが悪霊化したとしても彼女には分からない。ぼんやりと天井を仰いで、ため息を吐き出す。


「父さんに話してみるよ。どのみち、父さんは彼氏には改めて断るって言ってたから……まぁ、あの人のことだから、それくらい既に気がついてるかもしれない、けど……」


 言いかけて僕はふと、目を脇にやった。人の目というものに敏感な僕は、刺すような視線に気がついてしまった。いつもなら、無視をするのに何故か気になってしまった。

 人の群れ――中には死んだ人もいる駅のホームで、僕は確実にその人を見つけた。


「ん? 太一?」


 横で陽介が異変に気づく。だが、彼にそれが視えるはずがない。僕はごくりと唾を飲んだ。


「おはよう。太一くん? だっけ。ちゃんと一限に出るなんて偉いね」


 昨夜、うちに来た幽霊――ケイスケさんが明朗な声で話しかけてきた。なんというタイミング……


『間もなく、4番乗り場に電車が到着します――』


 アナウンスが唐突に鳴り、ホームは気が逸る。賑やかさとぎこちなさが織り交ざったところに、大きな風が吹いた。それと共に電車が通過し、やがて停まるとドアが開く。同時に人の波に飲まれながら電車の中へ――は向かわず、僕だけが立ち尽くしたまま。


「おい、太一?」

「ごめん、陽介……僕、今日は休む」

「はぁ?」


 発車のベルが鳴り響き、陽介は怪しむような目で振り返りながらも電車の中へ走った。それを見送って、僕は目の前にいる人物をじっと見つめる。


「あの、何か用ですか」


 カバンを抱え、疑心の声を向けると、顔なしの彼は苦笑を漏らした。


「見かけたから声をかけただけだよ。仲良くしたいなぁって思ってるからさ。昨日は全然話が出来なかったし」


 なんだろう……一旦、怪しいと感じた瞬間、彼のことが胡散臭く思えてくる。僕は目を凝らした。黒い影はないのだが、顔がないせいで表情が分からない。


「突然ごめんね。一限、まだ間に合うかな」

「さぁ……でも、僕、今日はちょっと調子悪いんで、休もうかなって」


 なんで僕の前に現れたのか分からない。でも、何か理由があるはずだろう。だって、口調がまったく悪びれていないから。


「コミュ障だって真麻江ちゃんから聞いてるよ。警戒されるのはしょうがないなぁって思うけどさ、そんなに離れなくても良くない?」


 あの馬鹿姉貴……そういうことをベラベラ他所で言うなよ。そんな思いが沸き立つも、すぐに冷めていく。


「じゃあ、あの、警戒ついでに一つだけ」


 掠れそうになる喉に喝を入れ、僕は咳払いした後に言った。


「真麻江のこと、諦めて下さい」


 家族全員の意思をこの場でぶつけても大丈夫だろう。どのみち、父が断ると言っていた。姉の気持ちを無視するのは嫌だけど、この問題は姉だけで解決出来るものじゃない。

 ケイスケさんは「うーん」と唸りながら何故か笑った。困ったように。そして、頭を掻きながら返してくる。


「ごめん。それは無理だな」


 穏やかなのに、有無を言わさない。陽介も言っていたが、これはまさしく「執念」であると僕も感じざるを得なかった。

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