幕間Ⅰ ひかりを灯す

 空洞へ吹きこもうとする逃れることを知らない鋭い風にロングスカートをなびかせすぎないように右手で裾をきゅっと掴みながら、地下鉄の階段をのぼって地上に出る。南北をはしる大通りと東西をわたす大通りの交差点をみとめて、大通りと大通りの名前を組みあわせた交差点の名称が記された標識がヘッドライトによって暗がりからきらりと浮かびあがり、この土地の人間らしく、自らの帰るべき方角を導きだす。

 わたしが帰るのは、西のほう。

 太陽が異国を照らしにむかう、西のほう。

 南北と東西のそれぞれに平行に並べたてられ、直角に交わりあう大通りの法則を理解していなかった十代のころ、夜の繁華街で迷子になって母に電話をかけた。お金は払ったるからタクシーに乗って帰っといで、と母が助言するのでそのとおりにしてタクシーに乗りこみ、この土地の西の果てにある故郷まで戻ってきたのだった。自宅付近はこの土地らしくない、細くて、曲がりくねって、複雑な交差を繰りひろげる道ばかりでタクシー運転手を惑わせてしまうから、大通りにある晴れの日のいっとう青い秋空のようなネオンのコンビニエンスストアのまえで降ろしてもらった。母が迎えにきていた。あほやなあ、と責めるでも呆れるでもない、愛おしさのこもった柔らかい口調で母は言った。わたしは混乱と不安から解放されて泣きじゃくった。

 いまの帰るべき街に越してきた日、西の果ての故郷からわたしとこいびとを追いたてるように降り注いだ豪雨は、地面を傷つけながら音という音を雨音にしまいこみ、この土地を味のしない涙のような淡泊な海にした。わたしたちが進化をとげて金魚になるまえに海は地球の奥深くにひいていき、マグマに焼かれて蒸発して消えて、あの日の記憶をもつ人間は、特別な日をたまたま迎えていたわたしとこいびと以外にはいない。

 わたしは歩きだす。あなたが働いている街から、一歩ずつ、確実に、靴底を擦り減らしながら離れていく。わたしとこいびとがいっしょに暮らすための部屋を探しだしてくれた親切なひとは、周囲のだれからも蔑まれるような結婚をして、妻になる予定のなかったひとと、そのひとが産んだ子どものために、太陽の残酷な熱を全身に浴びながら働いている。ほかのだれかの人生をいくつも見聞きしながら、自身の人生に触れさせないために結婚のいきさつをわざとおかしく聞こえるように何度も話しながら、生きている。話すことで、何年も、何十年も、じぶんでじぶんのこころに爪をたてながら生きのびてしまうのだろう。

 あなたのことを考えると、この土地は、もうずっと海になってしまえばよかった。あなたがいつでも泣くことができるように。あなたが金魚になって泣くことを忘れられるように。あなたと会うことはもう二度とないのかもしれないのに、そういったことを考えるのだった。あなたがいまどれだけ幸せかを知ることができたなら、うっかり祈るようなことなんてしなかった。

 東西の大通りを西へまっすぐ歩いていく。街灯のひかりは白。信号のひかりは青、赤、たまに黄色。歩道と自転車道をわけるひかりは青。乱視のせいでひかりがぶれて増幅し、眼前にひろがる世界をプールの底から見上げた太陽のようににじませる。わたしが見ているものはぜんぶでたらめだった。イヤホンをつけて音楽を流し、車が走る音を遮断する。真夜中をひとりきりで歩いていく。Swallowtail Butterfly ~あいのうた~。20日鼠とエンドロール。Wishing I Was There。わたしが帰るのは西のほう。JUDY。信号がなくて歩道橋をわたらないと西にゆけない道。Marionette Fantasia。灰空。わたしが帰るのは西のほう。ザ・クライシス。わたしが帰るのは西のほう。トリップ。世界に溶けきらない痛みを閉じこめた映画のDVDと外国語を聞きとるよりも難しい母国語の発音が曖昧な歌手のCDアルバムをレンタルショップの返却ポストに放りこむ。まぶしい朝。飽和世界。わたしが帰るのは西のほう。愛を奏でて。わたしが帰るのは西のほうから、この大通りを左に曲がることによって南のほうに変化する。ボクのことを知って。わたしが帰るのは南のほう。ノルニル。信号を渡る。恋することしか出来ないみたいに。電波ジャック。わたしが帰るのは南のほう。Please, forgive me。

 マンションの階段をのぼり、壁の隙間に挟まったままいっこうに取り除かれない蝙蝠の死骸を見上げてから踊り場と二階のフロアをつなぐ、どんな銃弾も吸いこんでなかったことにしてしまいそうな分厚い硝子のはまった重たい扉を開いて踊り場からフロアに身をわたし、重たい扉が閉まりきらないうちにそのすぐ横にある玄関の扉を開き、素早く勢いよく閉まってしまう扉が騒音をたてないように内がわから押さえながらゆっくりと閉じ、傘立ての上にあるスイッチを押して暖色の穏やかなひかりを灯す。リビングの蛍光灯によって薄暗く染められた玄関が意識を取り戻す。

 ひかりを灯すということは、生きることと同義だ。

 玄関に用がなくなり、電気を消してリビングに進むと風呂あがりのこいびとが濡れた髪にタオルをかぶせてベージュ色の座り心地のよいソファに腰かけている。

 ただいま。

 おかえり。

 わたしはいつもこのひとのために食料を買いこみ、荷物を積んだ自転車で家に帰り、部屋にひかりを灯している。夕闇にむけて、生きている人間がここに存在していることを証明する。買ってきた食料を冷蔵庫に片づけ、バルコニーに出て早朝に洗濯して干しておいた洗濯物を室内に取りこむ。太陽のにおいは、もうしない。取りこんだ洗濯物はすぐにたたむこともあるし、ソファに置いておいて先に夕飯の支度に取りかかることもある。誓いはまだたてていないけれど、際限のないはずの未来が尽きるときまで、そうやって生きていく。高いところから眺めた夜景のうちの、ひかりの一粒はわたしだとして、ほかのひかりの下でもだれかが生活をしている。こいびとが仕事をしている。あなただって、きっと。

 呼吸をしている。

 夕飯をたべそこねたことを告げると、こいびとはキッチンに立ち、雪平鍋に水(大家によるとこの土地にひかれた疎水の先にある大きな湖の、たくさんの人間が飛びこんで失った命が溶けている残虐な水)を注ぎ、即席ラーメンのかりかりとした麺をふやかすためのお湯を沸かしてくれる。

 たまごは?

 いる。

 そうしてふやかされた即席ラーメンは百円ショップで購入した黒いどんぶりに入れられて、こいびとの手によってリビングのちゃぶ台に運ばれる。西の果ての故郷から持ってきたちゃぶ台には、歴史好きのわたしの兄がいたずらで彫った藤原氏のひとびとの名前が刻まれている。

 ありがとうございます。

 いえいえ。

 いただきます。

 深夜にこのようなものをたべては不健康になるという警戒心と、深夜にこのようなものをたべる不良っぽさという高揚感が綯交ぜになって、これまで生きてきてさして美味しいとおもったことのなかった即席ラーメンがやたらと美味しかった。こいびとはゲーム機のコントローラーを握り、その日、日が変わるまえのきょう発売されたゲームを起動する。新作のゲームを発売日に購入し、プレイし、翌週までに一通りクリアするというルーティンはこいびとがこいびとの姿を保つための儀式だ。わたしが文章を書かなければ息ができなくなるのと同じだ。わたしもこいびとも、酸素だけでは生きることができない、ひどく面倒くさいからだに産まれてきてしまった。あの豪雨の日のうちに金魚になってしまったほうがよかった。できればあなたも金魚になって淡泊な海ですれ違い、わたしやこいびとやあなたを掬ってしまわないように、ひとりくらいは金魚を愛でるおじさんになってもいいけれど、なるべくみんな金魚になればいい。

 夜が深くなっていく。家々のひかりがひとつずつ消えて、太陽がこの国のこの土地を照らし、ひかりなしで生き返る時間まで、わたしたちは眠る。キスをして、その日、日が変わったあとのきょうのこいびとのかたちがあることを確かめて、まぶたをとじれば夢をみるかもしれないけれど、夢をふくめて時間はひとつながりのものとして流れ、あしたを迎える。

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春風に立つ 夏迫杏 @b0mayuun

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