Harmonia

 どうすれば、なんてことをぼうっと考えながらネオンカラーの光によって薄暗いゲームセンターのなかを一周ぐるりと歩きまわり、クレーンゲームやリズムゲームなんかの筐体の並びによってできた狭い通路のひとつひとつにも視線を投げたけれど、こいびとはいない。施設にこもった煙草の湿り気のあるにおいが服を通り越して肌にまとわりついているような不快感とこいびとが不意にいなくなった不安感はどうしようもなく似ていて、首から背中にかけての皮膚の内がわを冷たいような熱いような変な感じにする。どうすれば、の続きは、どうすればよかったんだとか、どうすればこんなことにはならなかったんだとか、後悔にみせかけた自己満足の自問みたいに未来を他人事にすることばが繋がっていくのだけれど、ふと、腑に落ちることばをおもいつく。

 どうすれば、愛したことになったのだろうか。

 愛ということばじゃ使い古されて安っぽいとおもわれてしまうかもしれないけれど、そういうださいのでよかった。愛ではないいい響きのする背伸びをしたことばやひねた考えを使いこなせるほど強くも弱くもなかった。

 ぼくはゲームセンターの半透明の黒っぽいガラスでできた自動ドアの前に立ち、のんびりと開いていくドアが完全に開ききるのを待たずに隙間に肩を斜めに入れこむようにして外に出て、傘立てから黒いジャンプ傘を一本取って、ばん、と空にむけて放つようにして差した。雨がいつまでたっても止まなかった。それはいなくなったこいびとを、そう遠くへは行っていないはずのこいびとのことをなかなか見つけられないでいるぼくを馬鹿にしているようで、実際、ぼくは馬鹿だ。大通りの歩道を歩き、革靴に跳ねる雨滴に靴下を濡らされて徐々にからだが冷えていくので早歩きになり、車が撥ねた水たまりをかぶりスラックスの膝から下がびしょびしょになってますます体温を失っていくので走りだした。傘を持っている右手にも雨が降りかかる。春先の雨は冷たいばかりで冬を忘れようとしているからだにはきついし、やっと咲いた桜の花びらを散らして濡れたアスファルトに張りつけて、春を奪ってぼくの足もとに閉じこめて踏みつけさせようとする。春は、こいびとがかつて大切だとおもっていたひとのすきな季節だ。春は、息がしやすくなるんやって。暖かくなるからってってた。冬の空気って冷たくて、おもいっきり吸ったら鼻とか喉とかひりひりして咽せるやん。それと……。いつだったか、ふたりでベッドに潜って手を繋ぎながらそんなはなしをした。羽毛布団をかぶっていたからそれほどむかしではない冬のできごとだ。それと、のつづきはおもいだせない。大事なことだったような気がする。どうでもいいようなことだったような気もしている。

 イオンモールの前を通り抜けていままでに一度も通ったことのない路地に入ると青い瓦屋根の長屋が幾棟も並んでいて、このあたりに交番があるはずだけれど見当たらず、スマートフォンの地図アプリを起動して現在地を確認してみると行きすぎてしまったようで、くるりと方向転換して来た道を戻り、地図上の赤い点のぼくが交番の前に辿り着いたので傘を背中がわに大きく傾けて顔に雨粒を浴びながら辺りを見渡してみると東がわの並びにほんとうに交番がある。長屋の青い瓦屋根とは違って交番の屋根は黒い瓦で覆われており、建築されて半世紀以上は経っていそうな煤けた木造の建物は雨に濡れて焦げ茶色に湿り、春日交番と書かれたプラスチックのプレートはなんらかの錆で縁が茶色く汚れ、扉はベランダなんかについているサッシのような上半分は透明で下半分は凹凸があってざらざらと乳白色になっているガラスでできていて、上半分の透明なガラス越しに中を覗きこむと白地に黒い蔦の模様が入った天井から真っ白な光を放つ電球が剥き出しのまま吊るされて光の届かないところをまったくの闇にして室内を薄暗く照らしていた。電球の下には灰色のデスクがあり、警官の制服である青いシャツを着た男がデスクに肘をついて左手で頭部の左がわの短い縮れ毛を円を描くようにもじゃもじゃといじくりまわしている。ぼくは扉の上についているほんの申し訳程度の庇に入って傘をとじ、扉の端についている開閉用の窪みに指をかけて横にスライドさせようとするけれど立てつけがわるく五センチくらい開いたところで動きがとまってしまう。するとデスクにいた警官が立ちあがり、扉の前まで歩いてきて両腕を背中にまわした。

「なんでしょうか」

 扉の隙間から警官に方言ではないけれどこの土地で育った者の訛りが入っているイントネーションで訊かれる。こいびともおなじ訛りで話していたけれど、警官の低い男の声だとやけにおじさん臭く聞こえた。警官はまだ三十路には達していなさそうだけれど二十代後半とおもわれ、細く眠たげな目の下には隈があり、これまでの人生で日焼けをしたことがないのではないかというくらい肌は緑がかった不健康な白色をしていた。

「こいびとがいなくなったんです。もう一週間も帰ってきてなくて」

 ふっ、と警官が鼻で笑い、左手をあたまの横まであげて髪の毛をぐるぐるとまたいじりはじめる。

「そらシツレンセイユウコウショウとちゃいますか」

 警官が溜め息まじりに唱えたことばを、ぼくは声には出さず口のなかだけで発音してみる。

 しつれんせーゆーこーしょー。

 しつ、れん、せい、ゆう、こう、しょう。

 ……失恋?

「失恋、ですか?」

 背後の雨の音が強くなる。

「そうです。失恋のショックで彷徨ってしまうんです。すぐに帰ってくるひともおれば、この世界とよう似た並行世界に迷いこんで二度と戻ってこうへんくなるひともおります。警察ではどうにもできませんね」

「待ってください! ぼくたち別れてないですし、そんなはなしも」

「こいびとどうしが別れることだけが失恋なんですか? いっしょにおっても愛を見失ったら失恋なんとちゃうんですか?」

 警官は左手の動作をやめて右手を額に当て鼻から深い息を吐く。警官の言うとおりだとおもった。けれど、こいびとが愛を見失った理由がわからない。記憶のなかのこいびとはいつも笑っていて、冗談を言っていて、鼻歌をうたいながら料理をしていて、後ろから抱きすくめると照れて、キスをすると呻くような欲情した声をだして、抱きしめると瞳を潤ませて頬を赤く染めた色っぽい表情になって。

 ――おれは、あなたを愛している。

 むかし、届かない愛を胸に抱いていて、という歌詞の歌をうたっているひとがいて、それはカラオケでひとがうたっているのを聞いて知った曲で、こいびとどうしになるまえのこいびとがうたっていたのだと、たったいまおもいだす。あの声がすきだったのだ。いいや、すべてがすきだったのだ。どうしようもないくらいに。この手から滑り落ちた体温はあまりにも温かかった。

 ――だから、あなたがいなくなった理由をおれは知りたかった。

 警官が右耳に手をやって、つけていた黒いイヤホンを耳に押さえつけ、左手でシャツの襟についている小さなマイクを掴んで口もとに近づける。

「OK, later. ……お兄さん、わるいんですけどちょっと行かなあかんのでこれで」

「あ、はい。すみませんでした」

「謝らなあかんのはこっちのほうです。申し訳ないです。シツレンセイユウコウショウ発症者の捜索は警察ではできひんのです。けど……チームB、ヒトキュウマルマル、突入開始。繰り返す、チームB、ヒトキュウマルマル、突入開始……すんません、通信入ったもんやから」

「いえいえ」

「諦めたらあきませんよ。見つけたら、名前呼んで、しっかり抱きしめてください。ほんで、二度と離したらあきません。ええですか?」

「はい」

 ぼくが扉を閉めようとすると警官も室内から扉の枠に人差し指と中指をかけるようにして力を入れて動きのわるい扉を閉めた。ぼくは傘を差して交番の前から離れた。遠目に中を見てみると、先ほどの警官がデスクに戻り生成り色に変色した古そうなパソコンのキーボードを猛スピードで叩いていた。ヒトキュウマルマルってまるで戦争をしているみたいだな、といまさらながらおもった。

 アパートの部屋にこいびとは戻っていなかった。三足横に並べて置くのがやっとの玄関でじぶんの靴を脱いで、近場に行くとき用の履き潰した青いスニーカーと安かったから買ったもののいつ履けばいいか悩ましい紺のレースアップシューズの隣で仕事用の黒い革靴と黒い靴下をいっしょに脱ぎ、靴を入れるには奥行きが狭すぎるベニヤ板の棚の五段あるうちのいちばん下の段に収納している使い古した薄手のタオルを出してきて革靴についている水滴を拭う。靴下を革靴のなかから出し、ベニヤ板の棚の横に置いている古い新聞をひとつ取ってページを剥いて丸めて革靴のなかに突っ込む。こいびとがいなくなってから雨が止まない。だから、こいびとがいなくなってからぼくはまいにち革靴の手入れをしなければならなかった。

 濡れたタオルを棚の上に広げて掛けて干し、通勤用の黒いショルダーバッグを肩から下ろしつつ奥の部屋に移動した。学生のころから住んでいるこの部屋は玄関の狭さと比例するように狭いわりに、収納つきのシングルベッドと、ニスがところどころ剥げている折り畳み式の小さなちゃぶ台と、テレビ台をずっと買いそびれているせいで床に直置きしてしまっている東芝REGZAの五十インチのテレビと、Nintendo SwitchとNintendo 3DS LLとPlayStation 4とPlayStation VRとPlayStation Vitaと、パソコン用のモニターが二台と、自作マシーンなど必要なものをすきなだけ置くことができた。モニターが片方壊れてしまったので新しいのを買わなければいけないとおもいつつどれに買い換えるか考えあぐねている。すこしまえまではお寺のパンフレットやら映画の半券やらデートで行ったところでもらったものを捨てるに捨てられず床に放置していたけれど、クリアファイルに入れてベッドの下の収納に片づけたおかげでフローリングが見えるようになった。しかし、床が綺麗になってもカーテンレールに洗濯物を無理やり干しているせいで部屋の見栄えはいまひとつだった。ぼくはベッドの木製の柵にショルダーバッグをもたせかけ、スーツとワイシャツを脱いでハンガーにかけてカーテンレールにスペースをつくって吊るし、ベッドに置いていた灰色のスウェットに着替え、ベッドに上がってこいびとはいないけれど左はしにからだを寄せて横になった。

 帰ってくるかもしれないから。

 枕からこいびとがよくつけていた香水のにおいがする。お風呂あがりのにおいに似た、石鹸の、清潔な香りだった。その奥からじぶんの汗や精液といった体臭の青いにおいが漂ってくる。これは植物のにおいに近い。だから、ぼくたち人間はかつては植物だったのだとおもう。咲いて散ることを繰り返す不滅の存在であることをいつしかやめて、おなじものではなく異なるだれかを愛するためにいつかは破滅する人間のかたちになったのだとおもう。


  ○  ○  ○


 ――横たわるあなたの手に指を絡めて腰を動かす。くしゃみをしそうな感じで愛らしく歪んだ顔で、泣きだしそうなくらい瞳に水分を溜めながら、あなたはおれを見ている。おれもあなたを見ている。目合まぐわい、ということばがあるくらいなのだから、抱きしめあうときは、見つめあうのがいい。そして名前を呼ぶのがいい。二村ヒトシも言っていた。

「すきだよ、……!」

 あなたの髪を撫でながら動いているうちに下半身の緊張が高まって、熱くなって、瞳の裏がわが白くはじけて、ほどけるように射精をした。膣から抜くとまだ勃起がおさまっていない赤黒い性器が粘液とおりものでぬらぬらと濡れていて、避妊具をつけていなかったことに気づく。そういえば避妊具を切らしていて買ってくるのを忘れていたのだった。ベッドに据えつけられたちょっとした棚からティッシュを取って尿道に残っている精子を押しだしつつ性器を拭き、あなたのからだにあいた穴を見るけれど、精子が垂れてくる様子はない。あなたは息を切らせながら口を動かしておれの名前を呼ぶのだけど、おれもあなたの名前を呼ぶのだけど、名前のところだけテレビを消音にしたときみたいにノイズまで失くした静寂になってしまう。おれたちに名前なんかなかった。

 性器を拭いたティッシュを丸めてごみ箱に放り投げ、枕もとに置いていたスマートフォンを手に取ると熱をもっていて、おれはすかさず充電コードの差しこみ口を唇で咥えて吸う。スマートフォンの孕む熱が徐々にあがっていき、中で水分が揺れる感覚が強くなったので唇を離して新たなティッシュをあてがうと、さっき射精した精子がどろどろと溢れてきた。これで妊娠の心配はない。べつに子どもがほしくないわけじゃないけどそれは結婚してからでよくて、結婚はあなたと暮らすためのもうすこし広い部屋に引っ越してからだ。

 ふと、あなたに腕を掴まれて、そのまま引き倒されてキスをした。息苦しくて泣きそうになるキスだった、というかあなたもおれも泣いていた。どこにおるん。どこにも行かない。そっちこそどこにいるの。こっちかってどこにも行ってへんよ。そんな会話を脳みそのなかにあるのだか胸のなかにあるのだかわからないこころという花のように崩れやすい部位で交わしたような気がした。


  ○  ○  ○


 目をあけて、こいびとの名前を強く念じる。夢をみているあいだこいびとの名前がわからなくなっていたことに動揺していた。股間に手を伸ばすと湿り気はなく、淫夢をみたというのに夢精はしていないらしい。右がわに寝返りを打つ。こいびとは帰ってきていない。頬がこそばゆくて手の甲で触れてみるとすこし濡れていた。そういえば夢のなかでも泣いていたなとおもう。枕の上のほうに置いている照明のスイッチで部屋の電気を消す。またパソコンが勝手に起動しているせいで、マシーンのスイッチのあたりにある青い光が点滅しつづけていて、部屋のなかのものを青白く照らしだして立体化させ、深い影を宿らせる。なにかを照らすということは闇を生みだすこととおなじだった。ぼくは一度起きあがり、パソコンをシャットダウンしてふたたびベッドに戻り、夢のなかで触れたこいびとの温もりを忘れたくなくてじぶんの腕を抱えこむようにしてじっと息をひそめる。こいびとがいなくなってからずっと降りつづけている雨が地面を打つ音が聞こえる。

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