春風に立つ

夏迫杏

Replica

 ゲームセンターから出るとき、雨や、といつもおもう。けれど大抵のばあい雨は降っていない。ゲームセンターの半透明の黒っぽいガラスでできた自動ドア越しに外を見ると、空が薄暗く、コンクリートが湿った黒色に見えるのだ。このドアから見える世界はいつでも雨降りなのだった。

 きょうも雨は降っていない。

 自動ドアが開くと、ほんとうの外の世界は夕暮れで、夜中につけた車内灯みたいな、たしかに明るくてけれども遠慮がちな暖色の光が、陽にやかれた写真のような色に町を染めていた。ゲームセンターにこもっていた湿り気をおびた煙草のけむりのにおいが、自動ドアが閉じたことによって遮断され、町の空気のにおいに鼻が慣れてくると、灰色のロングカーディガンからかすかに煙草のにおいがすることに気づく。どこに行ってたん、と心配してくれといわんばかりの、危なっかしい、わたしじゃないにおいにどぎまぎしながら、ゲームセンターの前にとめていた自転車にまたがった。すきでも得意でもないリズムゲームのボタンの叩きすぎで前腕にかよう筋肉だか神経だかわからない一筋がだるく痛んだ。ゲーム機についていたターンテーブルを回し損ねた小指のつけ根も、突き指でもしたのか、わたしの手についていることに違和感があるような鈍い痛みを発していた。


  ○  ○  ○


 残照におびやかされて、愛だとか、誰かに宛てるきもちを捨てた。

 春だから嘘をついてもいいのかもしれない。

 けれど、桜はもう散る。


  ○  ○  ○


 アパートの駐輪場には彼のバイクがなかった。合鍵で部屋に入り、三足横に並べるのがやっとの玄関でじぶんの靴を脱いで、先に置いてあったかかとが潰れている青いスニーカーと新品の紺の男物のレースアップシューズの隣にじぶんのグレージュのパンプスを綺麗にそろえて置いた。奥に進むまえに、必要なものをほぼ詰めこんでいてぱんぱんになっている黒いバックパックをいったんその場に下ろしてロングカーディガンを脱ぎ、靴を入れるには奥行きが狭すぎるベニヤ板の棚のうえに置かれている衣類用消臭剤のスプレーを振りかけた。清潔なにおい、という具体的にはなんの香りだかよくわからないミストを、何度も、何度も、気が済むまでかけたら、ニットの毛羽立ちに細かい雫がたくさんついて、カーディガンが湿ってすこし重たくなった気がした。かけすぎやろ、とすこし呆れるような、笑うような、でもさしてなにもおもっていなさそうな彼の声を想像した。

 スプレーをもとの場所に戻し、バックパックを肩にかけてキッチン兼廊下を通り抜け、奥の部屋に移動した。玄関の狭さと比例するように狭く、必要なものしか置くことができないこの部屋は、シングルベッドと、折り畳み式の小さなちゃぶ台と、フローリングに直置きされた五十インチのテレビと、数種類のゲーム機と、パソコン用の大きなモニターが二台と、その横にある彼の自作のマシーンを収納する大きなケースによって圧迫されている。その合間を埋めるように、お寺のパンフレットや、映画の半券や、中身のないお菓子の箱や、ごみ箱にシュートしそこねたらしい丸まったティッシュが散らばっている。カーテンレールには洗濯ばさみがたくさんついた物干しハンガーがいくつも無理やりかけられていて、どれもかけかたと洗濯物の重さのせいで左右のどちらかに偏っていて平行になっていない。わたしはベッドの木製の柵にバックパックをもたせかけ、その上に清潔なにおいでじっとりと湿っているロングカーディガンをかけ、ベッドに上がって大の字になって寝転がった。シーツはわたしの寝相がわるいせいで右端のほうがめくれあがって中央に寄ってしまっていて、梅雨の時期に草花を刈りとったときの青臭さに似た、人間くさいにおいが染みついていた。枕より上のほうには目覚まし時計がわりになっている古い機種の携帯電話がごろごろと置かれていて、ちょっとした棚のようになっている部分には避妊具の箱が三箱、無造作に詰めこまれている。三箱のうちのどれかにはまだ中身が入っているけれど、ぱっと見ではどれが正解の箱かわからない。白い天井にはなにが原因だかわからない薄茶色のシミが、ここに来るようになったころにはなかったとおもうのに、いつのまにか紅茶をこぼしたみたいに徐々に広がってきていた。


  ○  ○  ○


 送らない手紙をいだくような日々が終わるようにはおもえなかった、――アクリルを割って取りだす町がスノードームじゃなくなるみたいに――消えてよ。


  ○  ○  ○


 いつのまにか眠っていた。変な夢やったな、とおもって夢を反芻して、ある程度のことをおもいだした。フィギュアスケートの夢だ。といっても、実際にフィギュアスケートをしているのではなくて、ダンス教室やバレエ教室をおもわせるような鏡張りのスタジオで、本来なら天井照明が映りこむくらいつるつるにワックスをかけられているはずの床が埃まみれになっているのを、毛先は短く横幅は長いブラシのような箒でただひたすらに掃きつづける夢。なぜこれがフィギュアスケートの夢なのかはわからない。けれど、はじめてみたときにフィギュアスケートの夢だとおもったのだから、そうなのだった。この夢は何度もみているのだ。夢のなかのわたしの視界はセピア色で、見るものすべてを懐かしいものに仕立てあげていたけれど、知っているものはなにひとつなく、ただ、掃除という労働を強いられているだけだった。

 隣に、彼はいない。部屋の電気はつけっぱなしになっていて、ベッドに寝転がったときに正面に見えるように設置された丸くて縁の黒い壁掛け時計は一時五十五分を示していた。昼の? 夜の? と考えて、わたしがここにきたのは夕方なのだから夜のに決まっているとおもい直した。部屋の持ち主が不在のあいだに眠りこけてしまうのは、よく似ているけれどぴったり合わないジグソーピースを無理やりはめこんだみたいにすわりがわるくて、同時に不思議な感じもした。

 わたしはここにいる。

 彼の必要なものが揃った部屋で、こいびと、という肉体として横たわっている。

 そういえばレンタルショップでDVDを借りてきていたので、それを見ることにした。寝起きの眩暈にあたまをやられないように慎重にからだを起こして、ベッドから下り、バックパックからレンタルショップのとても小さな黒い手提げかばんを取りだし、物を踏まないように気をつけながらパソコンが置いてあるところまでつま先立ちで歩き、マシーンの起動ボタンを押した。五十インチのテレビには再生機器がついていないからDVDが見られないのだった。マシーンにDVDを挿入し、再生するためのアプリケーションを起動したら、二台あるモニターがどちらも同じメニュー画面を映しだし、同じ映画を流しはじめた。二画面で映像を見るのは乱視になったみたいで鬱陶しかったけれど、片方のモニターを消すのも面倒くさかったのでそのまま見ることにした。

 ベッドまで戻り、枕もとに置いてあった照明のリモコンで部屋を真っ暗にして、あたまから掛け布団をかぶる。マシーンのスイッチのあたりにある青いライトが点滅しながら強く光っている。盤面が焼けてしまっているのか、主人公の女の子以外のものは――映画の題字も街並みもひとびとも――ぼやぼやとしてなんとなくでしかとらえられない。音も、ぽこ、ぽこ、と途切れがちでときどき台詞がとんでしまう。

 〈私〉は……。


  ○  ○  ○


 この胸に誰かの風が吹き抜けて、〈私〉の欠如にかたちをつくる。

 空っぽになる。

 空っぽになるのなら、のぞみは持っていたかもしれない。


  ○  ○  ○


 〈私〉は……。

 ベッドの上で空気を抜かれた主人公はすきなひとにふたたび息を吹きこまれて、空気以外に満たされることのないまま、すきなひとのおへそのあたりに穴をあけたらしく、今度は自らの口で息を吹きこもうとする。主人公の口もとが、なにかのアニメ映画の女が山犬から毒を吸いだそうとしたときと同じように血の色に染まる。血まみれの口で、おそらく臓物に満たされた、けれど、どこにあるのかもどんなかたちかもわからないなんらかの部位が空っぽのすきなひとをじぶんの息で生き返らせることを望んで、主人公はすきなひとを死なせてしまったようだった。ごみ捨て場のようなところで動かなくなった主人公を、マンションらしき建物の窓からやけに感動しながら見ている女らしきシルエットと同じように、熱っぽい感じでふたつのモニターに交互に視線を注ぐようにしながら見て、泣いて、ふと、彼と長いあいだキスをしていないことに気づく。むかしどこかで出会ったひとが寝起きのキスはドブの味という即興劇をしていて、たしかに唾液の分泌量が少ない寝起きのキスはふつうのキスよりもちょっとだけ息苦しいのだけれど、目覚ましのアラームをいくつかけても目覚めない彼を目覚めさせるには息がとまるような違和感と危機感を与えなければならない。そういえば、彼が帰ってこないのだ。だからわたしは彼とキスをしていないのだった。

 かぶっていた掛け布団を足もとのほうに追いやって横になり、彼はいないけれど、ベッドの右がわにからだを寄せた。

 帰ってくるかもしれないから。

 彼は記憶の引き金で、彼のことを考えるとおもいでが視神経を刺激して脳裏にことばと感情が半々になってできた〇・一秒にも満たない透明な映像をきれぎれに流す。お寺に花や紅葉を見に行ったり、映画館でひとつのジュースにストローを二本挿して飲んだり、新発売のお菓子を食べたり、鼻をかんだティッシュを丸めてごみ箱に投げたり、もしかしたらこういうのはわたしにしか意味がなく彼ですらどうでもいいようなおもいでなのかもしれないけれど、一等星や二等星と見間違うくらいに明るい飛行機の赤いライトみたいに眩しくて、あのころは楽しかったなとおもう。さいきんのことは薄すぎる乳酸菌飲料みたいに味気なく、そのわりにざらざらと舌にひっかかる不愉快な感じがあって、おもいでをいっそうきらびやかにして彼とわたしを引き裂くようで、なんだか悲しくて脱力してしまう。いま見えている世界は、むかしと同じようで違う、虚構の、模造品レプリカの世界なのかもしれない。

 からだを丸めて、さっき見た映画のショックは和らいできているはずなのに涙がとまらなくて、そのまま泣いた。忘れたくないことと手放したくないことが多すぎた。こころのなかで彼を呼ぼうとして、名前がわからない。わたしにも名前がない。たしかに呼びあっていたとおもうのに。どうして。けれど、名前がなくてよかったとおもう。名前があったら、名前を呼ばれた数だけ、彼に呼ばれたおもいでを失うということだ。失くして気づくということに人間は甘えがちだけれど、失くすものは少ないほうがよかった。


  ○  ○  ○


 色褪せていく感情が夕暮れの色ですべてを錆びさせていく。

 馬鹿みたいだなとおもったその日から、ふたりの世界は偽物だった。


  ○  ○  ○


 左がわに寝返りを打つ。彼の夢をみたような気がする。おもいだそうとしたけれど、夢は脳内でなかなかかたちにならずついに無へと帰してしまった。目をあけてみても、彼はいない。パソコンをシャットダウンしていないせいで、マシーンのスイッチのあたりにある青い光が点滅しつづけていて、部屋のなかのものを青白く照らしだす。きっと朝まで点滅はつづく。

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