世界の端
花岡 柊
世界の端
世界の端って、何処なんだろうね……。
あの日彼女が言った言葉を、私はただ聞いてあげることしかできなかった。
もしも、私がもう少し大人だったら。
もしも、私がもう少し沢山の言葉を知っていたら――――。
彼女の家は、複雑だった。両親は、共に再婚だときいていた。再婚してからできた、年の離れた幼い弟が一人いて、母の連れ子だった自分の居場所を、彼女はいつだって探していたように思う。
「ねぇ、アイス食べにいこうよ」
街に新しくできたおしゃれなアイスクリームショップ。同級生の女の子たちは、こぞって雑誌に載ったそのお店の話をしている。
「三上さんも行かない?」
屈託なく誘うクラスの子達へ、彼女は申し訳なさそうに苦笑いを浮かべている。
「ごめん。弟をみなくちゃいけないから……」
「ああ、そっか。じゃあ、またね」
アイスクリームの話をしながら楽しそうに教室を出行くクラスメイトたちの背中を、彼女の瞳が寂しそうに見送っていた。誰にも見られていないと小さくついた彼女の溜息に、私は気がついていた……。
彼女は今まで、その溜息をどれほどこぼしてきたのだろう。
誰にも気づいてもらえない、その溜息を……。
たまには息抜きしない? そうやって誘うのは簡単だけれど、彼女の家の事情をよく理解していない私が、そんな言葉をかけるのは迷惑なんじゃないかって、ずっと思っていた。
だから、せめて学校にいるときだけでも。
「お弁当、一緒に食べよう」
これが私の精一杯だった。
「うわー。彩のいいお弁当だね」
私のお弁当の中身を見て、彼女が目を輝かせる。中に入っていた小さなハンバーグがハートの形をしていて、それが可愛いと彼女は言ってくれた。
「うちのママ、こういうの得意なんだよね。きっと暇なんだよ」
冗談交じりに笑い飛ばしてから、自分の軽率だった発言に息を呑んだ。
彼女が弟の面倒をみなくちゃいけないくらいだもん、おうちの人はきっと凄く忙しいのだろう。
なのに、私……。
考えなしの私の発言に、彼女の瞳が切なそうに揺れている。だって、彼女のお弁当は、購買で買ったサンドイッチとペットボトルのお茶だったから。
家族から貰う優しさを当たり前だと思っていたことに、痛いほど気づかされる。
「食べる?」
精一杯の笑顔で、彼女にハートのハンバーグを勧めた。だって、それ以外にどうしたらいいのかわからなかったんだ。
どんな言葉をかけても、私の知っているものじゃ傷つけてしまいそうで恐かったから。
「ありがとう。嬉しい」
目を細めて笑う彼女の笑顔が、もっと増えたらいいな。
心からそう思った。
修学旅行の場所が決まった。行き先は、北海道だった。
「美味しいもの、たくさん食べられるといいね」
浮かれている私の言葉を聞いて、同じ班になった彼女が寂しげに笑ったことに気づくことができなかった。
放課後、班長になった私は、担任から職員室へ来るよう言われていた。
職員室へ行った私へ、担任が思いもよらないことを告げてきた。
「え……。どうしてですか?!」
「家の都合らしいから、仕方ないよな……」
俺も何度か説得したんだが、と担任は寂しい笑顔を私に向ける。
彼女と一緒の旅行は、本当に楽しみだったのに。せっかく、同じ班になれたのに。
たくさんいい思い出を作って、いっぱい笑顔になってもらいたいって思っていたのに。
なんで……。
現実の不条理さに抗うこともできず、違和感を覚えても、ただ目の前にあるものを無理やり飲み込むことしかできなかった。
「お土産、買ってくるからね……」
「うん。楽しんできてね」
彼女を一人残して、クラスメイトを乗せた飛行機は飛び立った。
一緒に行けなかった彼女が、せめて寂しい思いをしていないことを私は願うしかなかった。
三年生になり、夏休みが明けた頃から、彼女の早退や欠席が多くなっていた。
「弟の調子が悪くて……」
両親が忙しいから、彼女が病院へ連れて行ったり、看病をしているんだと思っていた。
だけど、本当にそんな理由だけなのかな。
休みがちな彼女の元気のなさは、それだけじゃない気がしていた。
そんなある日。彼女の袖口から、チラリと見えた痣に気がついた。
「ねぇ。その痣……」
言いかけた私の視線から腕を隠し、彼女はなんでもないと引き攣った顔で首を振る。
「けど……」
「ごめん。……本当になんでもないの……」
頑なな彼女の態度に、私は何も言えなくなった。
だって、彼女の瞳は泣いていた。ゆらゆらと揺れていて、それ以上何かを言ってしまえば、零れ落ちてしまいそうな雫をためていたから。
何かしてあげたいのに、何もできないことが物凄くもどかしくて、とても悔しかった。
握った拳を震えさせることしかできない自分が、本当に悔しかった。
「ねぇ。世界の端って、何処なんだろうね……」
「え?」
それは、屋上の冷たい風に吹かれながら、彼女が呟いた言葉だった。
小さな呟きは、冷気と共に直ぐに風にさらわれていき、冬の空気に凍りつきそうになりながらも、彼女は屋上から去ろうとはしなかった。
自分の体を抱き締めるようにしながら、まるで寒さに立ち向かうように風を受けている彼女は、何かと戦ってでもいるみたいに見えた。
「世界の端まで行きたいな」
屋上のフェンスを握り締めて、遠い空を見つめる彼女がポツリと呟いた。
「どう……して?」
それがどんな意味を持っているのか。
私は、考えるのが恐かった。
ただ、寒空の下。彼女の背中を見つめていた。
「ここから一番遠くて、誰も私の事を知らない、世界の端まで行きたいの」
願うように冬の空を見上げていた彼女に、私は何も言ってあげることができなかった。
空を仰ぐ彼女を、ただ寒さに身を縮め、見ていることしかできなかった。
あの時の彼女が、その小さな胸にどれほど沢山の思いを溜め込んでいたのか。吐き出せずに苦しんでいたのか。
きっと、辛すぎる現実の重さに、毎日ギリギリのところで堪えていたのだろうと今なら思える。
そのバランスは、いつ崩れたっておかしくなかったんだ。
年が明け、冬休みも明けた教室で、担任が深く息を吸い、ゆっくりと吐き出してから静かに言った。
「とても、残念なことです……」
担任の話したことに教室は一気にざわつき、僅かな沈黙とすすり泣く声に包まれた。
「黙祷――――」
世界の端って、何処なんだろうね……。
あの日、彼女が言った言葉に、今の私ならこう返しただろう。
世界の端なんて、ないんだよ。
みんな世界の真ん中にいるの。
それは、誰も独りにならないためなんだよ。
真ん中にいれば、必ず隣には誰かがいる。
だから、あなたの隣には、いつだって私がいる。
あの頃伝え切れなかった思いが、胸を抉る――――。
世界の端 花岡 柊 @hiiragi9
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