春はまだ青いか

善吉_B

 

 なぜ、春という文字も青いのですか。

 

 デイビッドの唐突な質問に、リー検査官は画面越しにフラッシュカードをめくる手を止めた。

 訝し気に眉を顰めて向けられた目線の先には、ふわふわとした綿雲のような画像がスクリーン上でゆるやかに収縮している。

 デイビッドにはアバターが無い。定期的にパステルカラーの色が移り変わる綿雲は、合成音声での返答以外に此方から相手の反応が見えないことを気味悪がった人間の意見を反映して宛がわれた、AIシステムが反応しているかどうかを示すためだけのモニターだ。

『リー検査官、具合が悪いのですか』

 それまで卓球のラリーのように続いていたテストのための質疑応答がフツリと途絶えたからか、それともモニターの上部に取り付けられたカメラで眉間に皺を寄せるリーの映像から判断したのか。十秒にも満たない沈黙を破ったのはデイビッドの方だった。

「……普段と違う質問のされ方だったからね」

『失礼しました。リー検査官、このテストに関して質問が一点あります』

 随分と優秀なAIだ。

 質問時の基本として、予めインプットされている文言を言わなかった―――そう含んだリーの言葉の行間すらも解釈し、対応している。

「はいはい。で、何だっけ。何で春の文字が青いのか、だっけ?」

『正しくは、春という文字も、です』

「それはつまり、このカードの文字のことを言っているんだよね?」

 手に持っていたフラッシュカードの束をカメラに向かって軽く振って見せれば、先程めくろうとしていた「春」の漢字一文字が書かれた紙ごと中指の骨に当たった。思っていたよりも痛い。

『その通りです、リー検査官』

「ということは、今までのカードの文字も青かったけど、春の文字になったら突然気になったってこと?」

『いいえ、今までの文字の全てが青いわけではありません』

「ええと、つまり?」

 問いの真意を促されたデイビッドは暫く黙っていた。

 画面上の綿雲はゆっくりと惑星の自転のように回転しながら、規則正しく色を替え収縮している。不具合やフリーズは無さそうだが、何故か演算やデータ解析の最中のようには見えなかった。

 その様子が何かに似ているような気がして、黄緑色の影を落とす雲の伸縮を眺めながら記憶を手繰り寄せる。

『……今まであなたが私に提示したフラッシュカードの文字達は、それぞれ様々な色で書かれていました。例えばローマン・アルファベットのビーは灰色で、アラビア文字のヤーはオレンジ、キリル文字のЭエーは水色、そして漢字の春はブルーです』

 ようやく流れてきた合成音声を聞きながら、リーは再び眉を顰めた。

 この話し方で、何に似ているのかを思い出した。

 だがそれは、デイビッドがAIであるというこの前提では、まず成り立たないはずのものだ。

 それでも理屈では始めから切り捨てている筈のその可能性に思い当たった途端、心のどこかであまりにもしっくりと来てしまったことも確かだった。

『リー検査官。あなたは先程、私にと聞きました。あなたの目には、このフラッシュカードの文字達は何色に認識されていますか』

 何色も何も無い。

 リーがデイビッドの文字認識テストに使っていたカードの文字は、最初から最後まで最も一般的な面白味も味気もないフォントで、白黒プリントアウトされている。

『これまでの文字認識・理解テストにおいて、言語及び文字体系の種類を問わず、全ての表音文字に、発音だけでなく色を認識していました。また、表意文字テストの最初の文字である春という字においても、発音及び意味だけでなく、青い色を認識しています』

 年若い男性という設定を反映して作られた合成音声は、今まで検査してきた他のモデルのAIと同じように抑揚が少ない、独特の平坦な調子で説明を続ける。その変わりないはずの声が、他のAIとは明らかに違う何かを伴っているように感じられるのは、恐らくリーの気のせいではない。

『リー検査官、これまでのあなたの対応・説明によれば、これは色彩認識の検査を兼ねたものではないはずです。私の文字映像の理解・処理において、何らかの不具合が発生しているということなのでしょうか』

 ――――― 困惑、しているのか?

 例えば、今まで青いと思っていた空が、周りには緑色に見えていると知った子供か何かのように。

 もしもデイビッドが人間という前提であれば、間違いなくそうとしか表現できなかった。

 だが、デイビッドがAIであるこの場合は、果たして何と言えばいいのだろうか。




「珍しいテスト反応のAIだったよ。ひょっとしたら初めてのケースかもしれない」

「へえ、どんな?」

 午前中のAI動作テストを終えたリーが扉を閉めて早々に切り出すと、部屋の奥で一人珈琲を啜っていたナジ検査官が興味深そうに眼鏡越しの眉を持ち上げてみせた。皆テストを終えて早々にランチ休憩にでも行ってしまったのだろうか。周りに他の検査官は見当たらない。

「文字に色が見える、と」

「カラー印刷なら当たり前だろう。それを異常と認識してしまうなら間違いなく不具合判定だが、珍しくもないんじゃないか」

「それがね、白黒プリントされた文字なんだよ」

「ははぁ。それは……確かに、珍しいなぁ」

 次の一口を啜ろうと持ち上げたマグカップの手を思わず止めて、ナジは瞬きを繰り返した。

 リー以上に何百回とAIのテストを行ってきたナジ位であれば、絶対にあり得ないことも、珍しいがあり得ない訳ではないことも、簡単に見分けが付くのだろう。真っ先にこの話ができる相手が、リー自身も半信半疑で悩んだ末の検査結果を疑うような半人前ではなく、ベテランのナジだったのは幸運だった。

「リーがテストしているAIっていうと、どれだ。あの青少年向けの話し相手も兼ねているとかいう、個人端末用アシスタントの新規モデルか。名前は、ええと……」

「デイビッド。音声の方は問題無さそうなんだけどね、映像認識テストの途中で発覚した」

「しかしよく分かったな、そんなこと」

 普通のフラッシュカードで文字の読みや意味を聞いていただけなら気付かないだろうと感心されて溜息を吐く。残念ながら、リー自身による手柄でも何でもない。

「自己申告だよ。デイビッドからのね」

 実際、あの場でデイビッドからなぜ春という文字も青いのかという質問が無ければ、見過ごされていた可能性もあった。

 デイビッド自身も、文字に色を認識していること自体については異常だと当初は認識していなかったようだったし、場合によっては検査もパスして市場に出回ってからの発覚になっていたかもしれない。

 あの後、なぜあのような質問をあのタイミングで発したのかと問われたデイビッドは、淡い水色の雲を自転させながら、やはりどこか戸惑ってでもいるような調子で返してきた。

 ―――― 当初はリー検査官が何らかの法則に基づき、区別をしやすいように表音文字の色を分けているのかと予測していました。

 だが、推測できるような法則は何一つなかった。加えて、文字数が限られている表音文字のテストが終わり、無限に近い数の種類が存在する表意文字になっても色を塗り分け続ける理由がどこにも無い。故に表意文字のテストの一番目に出てきた春の文字が青いことを認識した瞬間に、理由を尋ねることを決めたという。

 話を聞いていたナジのぼさぼさとした眉毛が、眼鏡越しに怪訝そうに中央に寄っていた。

「……それを、自分のシステム内で処理して訊いてきたのか」

「デイビッド自身は、そう言っていたね」

 言いたいことはわかる。

 まるでようなのだ。

 今までのAIならば人間側の非合理的な判断を止めたり、矛盾点を確認するために質問をすることはあった。だが、こんな考え方で物事を訊いてきたAIは初めてだろう。

「こっちの嫌味もすぐに理解したし、随分と人間の思考回路に近いというか、えらく優秀な奴だよ。ここまで行くと、色の認識云々も不具合とは言い切れないかもしれない。他にも確認したいことがあるから、デイビッドを開発したエンジニア本人にコンタクトが取れないか聞いてみようと思う」

 経験豊富とはいえ、リーもナジも所詮はただの検査官だ。外部からの委託を受けて開発されたAIの機能に問題が無いかテストするだけの自分達には、開発されたAIにどのような意図が込められているのかは、設計表やプロファイルをなぞって推測できる程度にしか分からない。

「それがいいだろうな。けど、他に何を確認するって言うんだ」

 ここまで話していながら、最後の気になる点について口にすることをリーは一瞬の間ためらった。

 確信も何もない、だがデイビッドと会話をした者なら間違いなく感じるだろう、AIではあり得ない違和感。

 恐る恐る口に出した可能性を聞いたナジは、静かに溜息を吐いた後首を振ってみせた。マグカップをデスクに置いた手が、リーの肩を労わるように軽く叩いてくる。

「リー、長いことこの検査をしていると、確かに色々なAIやエラーに出会う。中には信じられないものも沢山あった」

 ―――――けど、だけはあり得ないよ。

「お前、あんまりにも珍しいケースに合って、混乱しているんじゃないか。とりあえず色のことやAIの思考経路システムについては開発者のコンタクトを待つとして、普通に検査を進めていった方がいい」

 百戦錬磨の検査官ナジの言葉には重みがあった。

 だが、そうかもね、と呟くように返したリーの声は、どこかぼんやりとしたままであった。





 初日の検査以降も、デイビッドの文字認識テストは続けられた。

 先方が多忙のため、という理由で開発者と話ができるのは六日後だと告げられた。

 テスト期間は七日間。その間に不具合につき再調整が必要か、それとも商品化しても問題ないかの判断を下さなければならない。

 出来れば早めに確認を取り、その内容を踏まえて性能テストに取り組みたかったのだが仕方ない。諦めて文字認識テストを行いつつ、他の動作確認も並行することにした。

 深層学習機能により自己学習が進めば、文字と共に色彩を認識することも無くなるかもしれないという予測も一応は立ててみたのだが、これは二日目の検査で早々に外れであることが分かった。

 自己学習を通じて多くの色彩パターンを学んだらしいデイビッドは、文字の色を示す表現が、時間の経過とともにむしろ豊かになっていったのだ。

 ローマン・アルファベットのビーは、獣の毛並みのような銀灰色へ。

 アラビア文字のヤーは、オレンジに限りなく近い山吹色へ。

 そしてキリル文字のЭエーは、クジャクの羽根の先のように薄く緑がかった淡い水色へ。

『春の文字は、濃い青です。透き通った底の深い海の色と同じ、深い青色を湛えています』

 ―――― まるで詩人だな。

 解答の変化をバインダーに挟まれた記録用紙にメモしながら、三日目の検査を終えたリー検査官は首を傾げた。

 開発者は、AIの創造性でも試そうとでもしたのだろうか。たかがティーンエイジャー向けの、音声ガイドアプリに。

 



「随分と面白い機能のついたAIですね。人間でいう、共感覚みたい」

 テストが進めば進むほど首を捻るリーに同僚のメリエム検査官が笑ったのは、テスト終了まで丁度折り返し地点の四日目に入った時だった。

 三日目のデイビッドの検査結果に、AIの詩人でも作るつもりかと似たような感想を呟いたナジの提案だ。施設内でも珍しい、芸術関連のAI検査に特化したこの検査官ならば、同様のケースとまではいかずとも、似たようなケースを知っているのではないか。

 だが、いつも通りいそいそと定時で上がろうとしたところを無理矢理捕まえて、デイビッドの検査結果を読ませた後に返ってきた答えもまた、初めて耳にする、というものであった。

 最も、それだけで終わらないのが流石の芸術系AI専門検査官だ。AIでは初めて耳にするが、と前置きした上で、メリエムはこう続けたのだ ―――― 人間であれば、同様のケースは多数ある、と。

「一般の人ならバラバラに機能する感覚器官が、混線する人がたまにいるんですよ。文字に色を感じたり、音楽に味を感じたりといった具合に、一つのものに複数の感覚が反応するそうです」

 つい先程まで古美術品の鑑定補佐用AIの機能テストを行っていたという検査官には、この珍しいAIの検査担当であるリーが羨ましくて仕方がないらしい。穏やかな物腰は変わらぬものの、どうしてティーン向けのAIアプリとして回されてきたのかと検査用紙を握る手には、珍しく力がこもっている。

「昔の有名な詩人や音楽家にも、共感覚能力者だったのではないかと言われている人達が何人もいます。丁度、そのAIみたいに文字の色について詩を残した人もいるんですよ。ええと、どんなのだったかな。Aは黒、Eは白、Iは赤、Uは緑…」

 諳んじられたうろ覚えの短い詩は、なるほど確かにデイビッドの色の表現達にも近いものがある。

「―――― でも、やっぱりよく分からない部分がありますね。そのAI」

 詩を聞き終えた後も怪訝な顔をしたままのリーの顔を、こちらもまた困惑したような表情で見下ろしたまま長身のメリエムは続けた。

「いくら似せている部分もあるとはいえ、人間の神経経路と、AIの思考ネットワークは別物です。混線するなんて、人間の脳ならあり得る偶然の産物による能力が、AIでも、不具合ではないにせよ、何かしらの予期せぬ異常エラーという形で発生することなんてあるんでしょうか」



 メリエムの話を聞いた翌日の五日目、他の一般的な機能テストを難なくパスしたデイビッドに、音には色が見えるのかと尋ねてみた。

『いいえ、音声認識においては、色彩認識機能は反応しません』

 デイビッドの中で、人間で言う混線らしきものが起きているのは、初日に発覚した文字と色の間だけだという。

 確認した事項を念のため記録用紙に記入していると、いつもはこちらが何かを書いている時には黙って綿雲の色を変えているだけのデイビッドが、不意に音声を発した。

『リー検査官、私の文字と色彩認識に関して、質問が一点あります』

 初日に注意されて以来、デイビッドはいきなり質問の内容から入ることは無くなった。

「はいはい、今度は何?」

『あなたの名前は、どういう文字で書かれているのでしょう』

 思わずペンを動かす手を止め、モニターに顔を向ける。

 デイビッドの文字認識テストは、四日目から一文字ずつのフラッシュカードだけでなく、単語テストや論文一本を含む様々な文章で行われていた。複数の文字で認識テストを行う段階には、昨日のうちに入っている。

 必要性のないテストを行おうとする意図を推し量りかねているリーをよそに、変わらず自転とグラデーションによる色の変化を繰り返すこの綿雲は、抑揚の少ない声でそのまま続けた。

『あなたの名前が何色か、見てみたいのです』

 思わずペンを落としそうになった。

 人間で言うなら、それは好奇心にあたるものだろうか。

 或いは、友人に近付きつつある人のことを、知りたいと思う気持ちのようなものなのだろうか。

 だが、AIで言うなら、それは何になるのか。

『リー検査官、具合が』

 ぽかんと口を開けたまま静止したリーの映像を認識したのか、いつかと同じようなことを言い出した綿雲のモニター上部に取り付けられたカメラに、普段は白衣のポケットに突っ込んだままのIDカードを無言で突き付けて黙らせた。

 十秒にも満たない沈黙を破ったのは、これもまた初日と同じようにデイビッドの方だった。

『リー検査官、あなたの名前の文字は、静かな夜の森の色と、月の光の色の組み合わせで出来ています』

 一文字目は、生い茂る葉のように深い緑の色。深緑の森の奥深く。

 二文字目は、限りなく白に近い淡い黄色。木の葉を白く照らす月明かり。

 三文字目は、微かに青みがかった黒い色。音の無い夜の色。

 リーには黒い文字の列にしか見えない名前を成す文字の色を、一つ一つデイビッドは読み上げていく。

『私は、この色の組み合わせを綺麗だと思います』

 平坦なはずの合成音声が、笑っているように聞こえる。リーの気のせいに違いないはずなのに、そうではない可能性を信じかけている自分がいる。

 ナジは、AIではその可能性はあり得ないと言っていた。自分でも今までの経験から考えれば、まずある訳が無いと断言できるはずだった。

 だが、自我や感情を持つ人間でしかあり得ないことを、このAIは行っている。

 もしも人間でいう自我が無く、データの塊なのであれば。

 どうしてテストにも機能にも関係のないリーの名前の色を、自ら知りたがるだろうか。認識した色彩を綺麗だと、笑うことができるだろうか。

 AIでいうのなら、それは何になるのだろうか。

 



 唐突な宣告を受けたのは、六日目の午前中のテストを終え、夕方に設計者と話す予定の時間を確認しようと諸連絡用の端末を開いた時だった。

 新着メッセージが並ぶ中で≪緊急≫というアラートが光るものがあった。それが上司からの指示だと気付き、ひとまず中身だけでも確認しておこうと開封したリーの眼に、ひどくシンプルな数行の指示が飛び込んできたのだ。


 ――――― 開発会社からの依頼により、現在検査中のアプリ用AI・デイビッドのプロトタイプ検査を中止とする。これに伴い、設計者側との通話による機能確認の予定はキャンセル。詳細は追って連絡。


「何だ、そりゃ」

 思わず一人で声に出してから、慌てて周囲を見回す。

 デイビッドが天体の話に食いついたせいで、検査が長引いたのが幸いしたようだ。他の検査官は皆ランチ休憩で出払っているらしく、リーに不審な眼を向ける人は誰もいなかった。

 もう一度、落ち着いて指示を読み返してみる。文面の内容を頭では理解できるものの、このタイミングでの中止の理由がやはりどうしても分からなかった。

 検査を依頼している開発会社から何かしらの指示があるとしたら、開発者とコンタクトを取ろうとした初日や、その翌日の二日目だと思っていたのだ。

 それが中止や回収の指示も無く、代わりに六日後に開発者と検査官で話をするというアポイントまでつけておきながら、なぜ。 

 一人眉を顰めるリーの手に握られた端末が震え、着信を告げた。

「リーです。さっきの指示ですが、一体どういうことなんですか」

「突然ごめんね。デイビッドの開発者が、勝手に余計な機能を加えていたことが発覚したとか何とかで、会社の方からストップがかかったの」

 どうやらメッセージ上での素っ気ない指示は、怒りを抑えて必要事項のみを伝えることに重点を置いた結果だったらしい。通話画面無しでもひどく憤慨していることが伝わる調子で、上司は怒涛の勢いで話し始めた。

 始めからティーンエイジャー向けのAIアプリとして開発されたはずだった、デイビッド。

 そこに開発者の一人であるエンジニアが、兼ねてから個人的に関心を抱いていた脳科学分野の実験の一つとして、人間の脳で起こる現象を部分的に再現できる思考ネットワークを意図的に発生させたのだという。

 その結果が、あの共感覚によく似た混線だった。

「勿論、上層部には黙ってね。いい研究材料だと思ったんじゃない。発想といい実現する技術といい、研究者だったら大したものだわ。会社で商品開発するエンジニアとしては、どうしようもない問題児でしかないけれど」

 当のエンジニアよりも連絡をしてきた相手の会社に怒りを覚えているらしい上司の口調には、呆れともとれる感情が滲み出ている。それに適当な相槌を打ちながら、リーはこっそりと溜息を吐いた。

 人間の脳で起こる混線を、部分的に再現されたAI。

 そういうことか、デイビッド。

 だから君は、文字に色を読んだのか。

 春が深い海の青であることに困惑し、私の名前を綺麗だと笑ったのか。

 不具合でも偶然のエラーによる産物でもなかった。

 誰かの勝手で、こっそり付け加えられた機能だったのだ。

 だが、エンジニアと検査官の通話当日の今日、スケジュールから予定外の異常な機能が入っていることを知った会社側は大いに慌てた。大慌ての結果、上司の方に突如連絡が入り、結果、検査の中止と回収の依頼という事態にまでなった。

 本来アプリに搭載されるべき機能を越えたAIが大量生産され、市場に出回ってしまった場合の影響を考えてのものだ、というのが開発会社からリーの上司に説明された理由だったという。

「けど、あんなもの多分建前ね。そのエンジニア、多分前々からあれこれ騒ぎを起こしていたんじゃないの」

 あれはこれ以上妙なもの仕込まれていちゃたまらないって対応ね、じゃなきゃあんなに慌てる訳が無いでしょうと続けた上司は、ああ今思い出しても腹が立つわぁと通話越しにいない相手に向かって罵声を飛ばした。

「他の試験は問題なくパスしているんだから、明日の結果を待ってからでもいいのに、発覚した瞬間に問答無用で今すぐやめろ返せだなんてさぁ。いくら問題児のエンジニアの独断行動とはいったって、あちらの内部の問題なことには変わりないはずなのに、こっちにまでそんな態度だから、もう頭に来ちゃって」

 それでもこの上司のことだから、ちゃっかりしっかり五日と半日分の検査代は請求した上で相手の要求を呑んだのだろう。何ならキャンセル料もせしめている可能性がある。

 ぷりぷりと話し続ける上司の怒りを通話越しに聞きながら、デイビッドはどうなるんですか、と尋ねたリーの声は、自分で思ったよりも随分と小さな声だった。

「回収してからデータも深層学習の記録も余分な機能ごと削除して、全部リセット。再調整してから再検査に回します、だって」

 偉そうな言い方でなおのこと頭にきたと、上司は鼻を鳴らしてみせる。

「あいつら、今までの『余分な機能』付のデイビッドの痕跡は、全部無かったことにするつもりだよ。普通なら検査結果を踏まえて微調整とかで済む話でしょう。あっちの勝手でこっちの仕事も全部パアにされるとか、余計に腹が立つったらもう」

 どうやらリーの質問で、怒りの燃料が再投下されてしまったらしい。

 怒り続ける上司の通話を切るタイミングをすっかり逃したリーには、検査が中止されたことに対する怒りは全くなかった。

 やけに凪いだ頭の中で、代わりに浮かんだのはこの検査の間ずっと抱えていた疑問だった。

 これから静かに消されていくであろう、あのAIの中にあったもの。

 それを何と呼べば良かったのかは、ついに分からないままだった。





 調整を終えたデイビッドが再検査に戻されたのは、唐突な検査の打ち切りからちょうど一週間後のことだった。

 回収される前と同じようにパステルカラーの綿雲をモニターに映し出したAIは、検査室に入ってきたリーの姿をカメラで認識すると礼儀正しく挨拶をした。

『はじめまして、リー検査官。私はデイビッドです』

 抑揚の少ない合成音声は、前と同じ年若い男性の設定をそのまま引き継ぐ全く同じ声だった。一週間と五日前に交わされたものと全く同じ言葉が、同じように独特の平坦な調子でスピーカーから流れてくる。

 データも学習記録も全て消去されたデイビッドにとって、リー検査官は初対面の人物だった。

「検査を担当するリー検査官です。これから七日間の検査を開始します。よろしく、デイビッド」

 対するこちらも、新しいAIの検査の時にお決まりの挨拶を返してやる。言い方まで同じようにできたかどうかは、自信が無かった。

 初日の検査は基本的な認識の検査だ。画像認識・音声認識に基本的な欠陥が無いか確認されたのち、処理機能に問題ないか確認を行う。

 写真やイラストに適した単語を選ぶテストをパスした後は、映像と言語処理の両方の機能を確認するためのテストだ。使用するのは、各主要言語からランダムに一文字ずつ書かれたフラッシュカード。

 初めは表音文字の読みを答えさせ、次に表意文字の読みと意味を答えさせる。

 認識機能テストもイラストの処理機能テストも、デイビッドは難なくパスしてみせた。処理速度の微調整を行ったのだろうか、以前よりも解答までの時間も早くなっている。

 あるいは、考える時間が無くなったのかもしれない。

 表音文字のテストも、デイビッドはあっさりとクリアした。

 そのまま検査の流れ通りに表意文字のテストに進み、リー検査官のフラッシュカードが最初の一文字を提示する。

『四季のうちの一つ、スプリングを示す漢字です。読み方は、華話マンダリンチュン。その他の中国系言語では、声調や発音に若干の違いが存在しています。日本語での読みはハル

 デイビッドの答えは淀みない。

 だが、春の文字が印刷されたカードは、中々次の問題へとめくられなかった。

『リー検査官、具合が悪いのですか』

 それまで卓球のラリーのように続いていたテストのための質疑応答がフツリと途絶えたからか、それともモニターの上部に取り付けられたカメラで、何かを耐えるように歯を食いしばるリーの映像から判断したのか。十秒にも満たない沈黙を破ったのは、やはりデイビッドの方だった。

 デイビッド、君の方こそ不具合は無いのか。

 その質問の前に、何か訊くことがあるんじゃないのか。

「色、は」

 喉まで出かかった、検査官失格の問いを抑えながら代わりに尋ねた自分の声は、自分でも驚くほど掠れていた。

 ―――――全く、何という様だ。

 たった数日間テストで一緒にいて、不具合があったAIを調整に出して、データがクリアされた状態で再テストをしている、それだけじゃないか。

 もう何百回と繰り返してきた作業のはずなのに、こんなことで、これほどまでに動揺するとは思わなかった。

 もしかしたら本当に具合が悪いのかもしれない。この試験が終わったら、医療検査のための休憩を申請した方が良いだろうか。

 絞り出すようなリーの声を、マイクが拾ってくれなかったのだろう。パステルカラーの綿雲は、ほんの数秒しか沈黙せずに尋ね返した。

『すみません。もう一度、質問を言っていただけますか』

 予めインプットされた、人間の質問が聞き取れなかった時の対応のテンプレート通りだ。音声の不具合による質問内容認識不可の際の対応、問題無し。

 完璧だよ、デイビッド。

 今の君には、皆が言っていた不具合や、誰かが意図的に混ぜ込んだ余分な機能なんてどこにも無さそうだ。

 もう一度改めて尋ね直した自分の声は、やはり誤魔化しきれないほど押し潰されていた。何とかマイクが拾えるようにと発声したつもりだが、呻き声のようにしか聞こえない。

「色は、何色なんだ」

 春の文字の色は、何色だ。

 ローマンアルファベットのビーは、アラビア文字のヤーは、キリル文字のЭエーは、私の名前は、何色なんだ。

 君のそのカメラの向こうで、春の字はまだ深い青を湛えているのか。

 答えなど聞かずとも分かっている。それを確かめる目的も兼ねた再テストだ。

 だがそれでも、尋ねずにはいられなかった。彼のカメラに映る春の文字が変わらず青い色のままか、縋るように確認せずにはいられなかった。

 そうでもしなければ、目の前の綿雲が映るディスプレイを、カードの束を握り締めたまま殴り倒してでもしてしまいそうだった。

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春はまだ青いか 善吉_B @zenkichi_b

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