あとさき(2)

 ――お前の嫌がることは、しないから。

 宗佑が告げた言葉。

 それは駿に対する約束である以上に、自分への誓約だった。


 宗佑は彼に恋愛感情を持っていたけれど、彼はそうではなかった。それを承知で思いを打ち明けたのだ。当然それは叶わず、彼とはそれきりになるはずだったのに。どういうわけか、彼は宗佑の恋人になると言い出したのだ。


 たぶん、俺は恵まれているのだろう、と宗佑は思う。

 本来なら触れることはおろか、顔を合わせて話をすることすらできないはずだったから。

 彼は無理をしている。無理をしてまで、自分との縁を大切に思っている。宗佑を手放したくないと思っているのだ。なんて馬鹿なことを。それを聞かされたとき、胸の中に彼を愛おしむ気持ちがこれ以上ないほどあふれ出て、宗佑を飲み込んだ。心がどうしようもなく震えた。もう少しで泣いてしまいそうなくらい、うれしかった。彼が自分のことを恋愛対象として見ていないというのに。

 いとも簡単に唇を差し出す彼が、わからない。

 どこまで何を考えているのか。どうして自分をそんなに貴重に思ってくれるのか。わからない。わからないから、考えるのはもうよそうと思った。

 だったら、俺だってお前のことを誰よりも何よりも貴重だと思ってるよ。

 だから、これ以上は望まない。次から次へと貪欲に膨らみ続ける欲望を捩じ伏せて、ただ、彼に愛を注ぎ続ける。彼の望む形で。

 駿の気が変わるのが先か、宗佑が耐えられなくなるのが先か。


 心と身体の危ういバランスを保ちながら、季節は一巡した。



 梅雨が明けて最初の快晴の日。

 誰もいない放課後の更衣室に、二人で向き合っていた。グラウンドで部活動に励む生徒のかけ声が遠く響く。伸びきった草が風に揺れるときの、さらさらという音が聞こえる。室内の上部にある窓からは強烈な日の光が差し込んでおり、瞬きをするたび、視界に残像が躍った。

 お互いの体温が感じられそうなほどの距離。前髪からこぼれる雫が、どうかすると相手のむき出しの肌に落ちてしまいそうなくらい。目の前の相手が軽く前髪をかき上げると、冷たい雫が跳ねて宗佑の頬に散った。それを拭うこともせず、宗佑は相手のしどけない仕草を静かに見つめていた。どこか気怠げに吐息をもらし、こちらをちらと見て、恥じらうように、翻弄するように目を伏せる。

 こうして近くにいると、色香というものが本当に香ってくるような気さえしてくる。塩素の匂いが混じった、駿だけが操れる色香。たまらない。

「好きだよ」

 彼の唇からいつもの言葉がこぼれた。彼がロッカーを背にしていて、宗佑はそこへ手をつく。駿を両手で囲うように。更衣室の照明の影になった黒い瞳はどこまでも真剣だった。

「……俺も好き」

つぶやくように答える。顔を近づけ、唇を重ねた。何度かついばむように吸った後、口の中に舌を入り込ませる。吐息はすでに熱い。

 最近はもう深いキスが当たり前になっていた。それに、お互い着替えずに水着のまま抱き合うことも。冷たいシャワーを浴びたはずの身体がすぐに熱を持つ。駿の身体を抱きすくめると、彼は応じて宗佑の背中に手を回してくる。お互いの胸も腹も股間も太もももぴったりと重なって、熱い肌の感触に心が、全身がわきたつ。

 好きだと言うのは必ず駿からで、身体に触れるのは必ず宗佑からだ。それはいつしか暗黙の了解のようになっていた。駿はまだ宗佑が好きだということ。それを確認できた宗佑が彼の身体に手を伸ばすのだ。はち切れそうな欲望をなだめすかせて、許される範囲でその身体を貪る。宗佑が身体の中に飼っている欲望は、常に駿を欲していた。腹いっぱいに喰い尽くすことはできないけれど、毎日、ある程度は満たされている。

 今日こそ、駿から別れを告げられるかもしれない。

 不安は尽きない。彼を抱きしめているときでさえ。こちらに笑いかける彼の顔を見てもなお。

 その日が来ても、取り乱すことなく彼の手を離すのが、宗佑の理想だ。今まで付き合ってくれてありがとう、お前本当馬鹿だよ――と頭でもこづいてやって。

 朝、学校で駿の顔を見たときはそう思えるけれど……こうして口づけを交わしているときは満たされながらも叫び出したい気持ちに襲われる。

 奪ってしまえ。思うまま、彼の何もかもを。きっと駿も最後には許してくれる。自分のことを大切に思っているのなら、それくらい許容してくれてもいいだろう。自分が離れていくことをそれとなく示せば、抗うことはできないはずだ。

「ん……ふっ」

 ぴったりと合わさった身体から、駿の下半身が熱を持ち始めているとわかる。「恋人」となって一年が過ぎ、こうして抱き合いながらキスを始めて十ヶ月。これだけ馴らされると、もう条件反射のようになっているのかもしれない。与えられる刺激に身体は素直に欲望を巡らせ、熱を生むのだろう。心がどう思っていようと。

 我慢できない。

 ――馬鹿野郎。

 鼓動が早まるにつれていやらしく肥大していくぬらぬらとしたものを、鋭い一閃で切り離そうとする。それは日によって上手くいったり、いかなかったりする。今日は駄目だ。駿が馴れてきたというなら、宗佑も抑えることに馴れてきたはずなのに。

 三日ぶりというのがいけなかったのか。違う。


 抑えることに馴れるなんてことはないのだ。もうずっと前から耐えられなくなっていた。苦しい。我慢できない。

 思考が飛んだ。


 宗佑は自分の膝を駿の脚の間を割りこませた。太ももでそこをかすめると、駿の身体がぴくりと跳ねる。明らかにかたくなっていた。

「……っ」


 駄目だ。これじゃあ駿を守れない――


 我に返って脚を引く。息が続かなくなって唇を離すと、駿のため息混じりの声が耳元で聞こえた。

「あし……なんでやめんの」

頭の奥まで震えるようで、どきりとする。

「お前、そういうのが好きなわけ」

駿がにやりと笑ってからかうように言ってみせる。けれど潤んだ瞳と赤く染まった頬が、言葉ほどには彼が余裕がないことを表している。

「ごめん」

「なんで謝んの」

「いや……」

答えられずにいると、駿が同じように太ももで宗佑の股間をさすった。全身がぐらりと沸く。

「なにして……!」

「お前がやったんじゃん。なんかこの絶妙な感じ、すげえよな。ほんと、焦らされてる感じ。こういうの、好きなの?」

その語尾が微かに震えているのは、身体の熱の余韻か、強がっているからなのか。与えられる甘い刺激に脳が圧迫されて判断が難しくなる。宗佑の反応が楽しかったのか、駿はさらに耳へ柔らかな吐息を吹き込んでくる。

「なあ、どう……?」

 こいつ……、いや、俺が仕掛けたせいか。

「っ、じょうだん、やめろって」

「冗談じゃないって」

キスをしているときから既にそこは勃ち上がっていたから、駿の太ももの動きに大人しく従いはしなかった。それがもどかしく、さらに宗佑の欲を煽り立てる。真っ赤な羞恥が目の前を染めた。

「ほんとに、我慢できなくなる、って」

そう言いつつも、駿の身体をはがすこともできない。理性が働くのは口だけで、それ以外の全身がさらなる刺激をねだっている。

「なんで我慢すんの」

 駿は吐息混じりで声は続けた。ただもう、誘惑というよりも内緒話をするような声色に変わっていた。太ももが動きを止める。

「だって、」濡れた声。自分でも嫌気が差す。

「お前さあ、いくら奥手っつっても限度あんだろ。付き合って一年経っても何もなしって。もっと男らしいやつだと思ってたよ俺は」

「うるせえ。できるか、んなこと」

 こちらの気も知らないで。

 ――いや違う、俺が仕掛けたせいだ……。

「なんで我慢すんだよ。前からずっと言ってんだろ、恋人だって。こういうことすんのも普通じゃん。我慢するときついだろ」

 頭の中に自分の軽率な行為への後悔が重く広がっていく。答えられないでいると、なんと駿の手が宗佑の股間へ伸びた。無造作に撫でられて、身体がびくりと跳ねた。

「やめろ」

「いいから」

とうとう水着を下ろされて、直に握られた。すでに雫がこぼれている。それを塗りたくるように擦りつけられ、もう我慢ができなかった。締めつけられ、ぬるぬるとこすられ、早急に追い詰められ、たまらなくなって腰を揺らした。夢中になって気持ちいい刺激だけを追いかける。こんな風に彼の手で昇りつめ解放することをどれだけ欲してきたか。最初から抗えるわけがなかった。

 どうして駿がこんな馬鹿な真似をしようと思ったのか、さっぱりわからなかったけれど、その疑問はとろけるほどの快感の前に飲み込まれた。

「はあっ、はあっ、はあっ……はっ」

 自分一人荒げた呼吸を更衣室に響かせていることに気づいたときには、すでに駿の手の中に放った後だった。身体に力が入らない。目の前の彼を気遣う余裕すらなく、彼を挟んだままロッカーに寄りかかった。しばらく、息が整わない。

「気持ちよかった?」

駿の静かな声が耳元で聞こえた。触れた頬が溶け合ったかと思うくらい、温度を感じなかった。宗佑と同じくらい、彼の身体も熱くなっていたのだ。

「ばか……なにしてんだよ」

「だからあ、もう我慢すんなって話」

片方の手で宗佑の背中を撫でながら、駿は言った。

「たまにお前、すっげえ苦しそうな顔すんだよ。自分でわかってる? 普通の男女の恋人だってさ、一年も経てばセックスぐらい済ませてる。なのにお前全然そういうことしようとしないから」

「当たり前……だろ」

「じゃあこの先一生しないつもりだったわけ? 頭も股間も爆発するわ」

「お前が嫌がることはしないって、約束した」

「今俺が何か嫌がってるように見えるか?」

「……見せないようにしてるだろ」

 身体を離して、宗佑は駿の顔をのぞき込んだ。そのまま背中に触れていない方の手を掴む。べとべとした汚いものがついている。きっと、受けきれなかったものが彼の腕にも腹にもついているだろう。ふいに、宗佑は泣きたくなった。

「いやだろ。こんなもん手で受けて」

駿の瞳が揺れた。その色を隠すようにまぶたが下りる。

「……なんでいつもそうやって無理すんだよ、お前は」

「……お前の苦しそうな顔を見るくらいなら、大したことねえよ」

 次に目を上げた駿は、こちらに挑むような表情を見せた。数秒、睨みつけるように宗佑を見つめた後、短く息を吸う。口が開いてはっきりと言葉を発した。

「好きだよ、宗佑」

有無を言わせない、愛情表現というには勇まし過ぎる瞳の色。いつか感じた強い思いが、また宗佑を襲った。

 どうして彼はこんな無理をしてまで、自分の傍にいようとするのか。

 ――お前が言ったんだろ、気持ちの意味が違うって。お前にわかるわけねえよ。

 言葉が出ず、信じられない思いで目の前の男を見つめ続ける。彼は大きく息を吐いて、宗佑の唇に自分のそれを重ねた。あまりにも軽い感触だった。

「こう言ったらいいか? ――宗佑に、俺をやるよ。だから俺には、宗佑をくれ」



 その後シャワー室で、宗佑は駿に腕を引かれた。冷たい水に打たれながらまたキスを交わし、抱きしめ合う。激しい水音の中、彼に導かれて、宗佑はさっき自分がされたことと同じことを彼にした。水着を下ろして現れたそれを慰めてやると、駿の身体は驚くほど敏感に反応を見せた。後頭部を抱えられて口づけを強要され、彼の表情を見ることはできなかった。息が苦しくて、お互いの吐いた息を飲み込むことを繰り返す。それでも最後には耐えられなくなって、室内の隅によろめきながら辿り着く。

 熱い。冷たい。熱い。

 駿が果てたときに上げた小さな声は、水音にかき消されて宗佑には聞こえなかった。



 着替えを済ませて更衣室を出ると、辺りはすっかり夕日のオレンジ色に染まっていた。長いこと水に打たれたせいか、生温い風が身体に優しく感じる。鳥肌が立つほどだ。傍で歩く駿を見ると、彼も心なしか顔色が白い。もしかすると明日は二人揃って熱を出すかもしれないと、複雑な気持ちになる。

 自転車を押しながら校門をくぐり、いつもの通学路を辿る。宗佑の視線には気づいているはずなのに、駿は頑なに前を向いていた。さっきの行為を後悔しているのか、恥ずかしがっているのか。この手で触れた感触や彼の息づかいは、水に紛れてほとんどわからなかったけれど。

「駿」

 自分の声がなんとも頼りない。ん、と駿はこちらを見ずに応じた。どうしても今彼の顔を確認しておきたくて、腕を引く。

 目が合った途端、みるみる彼の顔が赤く染まった。しかめ面をしている。

「なに」

「寒くない?」

「平気」

「嘘つけ」

掴んだ腕は宗佑と同じように鳥肌が立っている。

「……無理すんなっての」

「してない」

 この一年で何度繰り返したかわからないやりとり。懲りない自分も彼も、どうしようもない頑さだ。短くため息をついた。

「あのさ。お前の言いたいことはわかったよ。けど、無理してるのは認めろ。そんで、嫌なことははっきり言え」

「今のところないけどな」

「お前が無理してるのを見んのは、俺もやなんだよ。わかれ」

「さっき言ったろ。お前が苦しそうな顔してるのを見んのは嫌だ。嫌なことって言えばそれだけだ」

「嘘つけ」

「嘘じゃねえよ。あとはまあ、セックスするなら段階踏んでほしいかな」

 そう言うとすぐに顔を背けた。柄にもなく照れているようにも見えるし、表情を読まれまいと隠す仕草とも見える。どちらなのかわからない。宗佑の、駿に対する洞察力は恋人となって以後衰えていく一方だ。以前は表情や仕草一つで何となくわかったことが、今ではわからない。それがとても歯痒い。

 もしかして、駿自身、自分の感情がはっきりわかっていないのだろうか。無理をしていないという言葉が本当なら。

「セックスって……本気で言ってんのかよ」

「だから本気だって。今まで本気じゃないこと言ったことねえだろうが」

「何言ってるかわかってんのかよ」

「しつけえな、わかってるよ。なんなら明日やってみるか? 試しに」部活の続きのように気軽な調子で駿は言う。ああでも更衣室だとタイル痛いな。立ちバックとかならいいか。どっちにしろ俺ちょっと慣らさないと。ケツ使ったことねえし。

 今度は宗佑が真っ赤になる番だった。

「何言ってんだお前!」

「なんで怒るわけ。お前が訊くから答えただけじゃねえか」

「俺はそんなつもりじゃ」そう言いながら、早くも脳内ではあられもない姿で腰を突き出しこちらを振り向く駿の映像を描き出している。自分を殴りつけたくなった。

「俺はそのつもりだっての」

駿が半眼で宗佑を睨む。彼の言う本気とは本当に本気らしい、とわかって宗佑は少しのあいだ呆然とした。

「……お前ほんと……ばかじゃねえの」

「はいはい、馬鹿だよ。悪かったな」

 ――宗佑に、俺をやるよ。だから俺には、宗佑をくれ。

 あの言葉は……いや、けれど、わからない。違うかもしれない。

「駿、」

「なに」

わずらわしそうな声色。構わず、その横顔に向けて宗佑は言った。

「好きだよ、お前のことが。これから先、死ぬまでずっと好きだ」

 駿がこちらを振り向く。一瞬、縋るような気弱な光がその瞳を通り抜けた。瞬きのあいだにそれはかき消え、引き結んでいた唇がほどける。

「……おう、よろしく」

駿はまた前を向いて歩き始めた。



 このままどこまでいけるのだろう。どこまで? いつまで?

 完全とはいえない関係。宗佑と駿のあいだには、一方通行の気持ちが二つあるだけだ。違う気持ちの両思い。それでも、相手のことを求めているのは本当なのだ。たぶん、きっと。

 駿の後ろ姿を見つめる。

 ひょっとすると、ある意味では恋が成就するよりも俺は恵まれているのかもしれない、と宗佑は思った。駿は宗佑に恋愛感情を持っていない。それでもなお好きだと言って、傍にいようとしてくれているのだから。無理をしてまで。

 恋情ではないのだ。恋を飛び越えた思いは、愛なのか、欲なのか、打算なのか――わからない。いつかそれを教えてもらえる日が来るのかすら。

 それでも、俺に駿をくれるというなら、それでいい。お前がそう望むなら。

 すっと息を吸い込んで、宗佑は自転車を押して小走りに駿を追いかけた。



(終)

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あとさき 道半駒子 @comma05

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