あとさき

道半駒子

あとさき(1)

 自分の視線から逃れるように顔を背ける相手に、駿しゅんは一歩近づいた。手を伸ばしてその肩を掴み、こちらを向かせる。振り向いた相手の顔には、動揺と、恐怖と、怪訝と、もうひとつ何とも言い難い色の感情が渦巻いていた。

「……何」

「あのさ、」

 この一週間、考えに考え抜いた上での結論だった。考え過ぎたせいか、今日は朝からやたらと顔が火照る。熱に浮かされたようにぼうっとする。けれど、もう決めたことだ。

「やっぱり付き合おう、俺たち」

 言った途端、相手の表情から感情が吹き飛んだように見えた。口を半開きにして、その相手……そうすけが絶句する。彼が何か言う前にと、駿は立て続けに言葉をつないだ。

「こないだはごめん。考え直した。付き合おう。お前の恋人になる」

「……馬鹿言うな」

「馬鹿じゃない。真面目な話だよ」

 ゴールデンウィークが終わり、日ごとに空気が湿り気を帯び、日差しが強くなり始めた頃だった。校舎から中庭の端を通って学校のプールへつながる渡り廊下の端、簡素な屋根の下はまだ涼しい。それでも学ランの襟元から体温が上るのがわかった。

 宗佑の瞳には、地面に跳ね返る日の光が映っていた。伏せたまつ毛が光に縁取られているように見える。駿の言葉を飲み込めていないのは明らかだ。

「お前、男は無理だって言ったじゃん」

「だから考え直したんだよ」

「あのなあ、考え直してどうにかなる話じゃねえだろ」

「後から考えてみたらいいかもしれないって思うこと、あるだろ」

「ふざけんな」

「ふざけてない」

言葉を投げ合ううちに、相手の表情が次第に鋭くなっていくのがわかった。駿の言い分を、冗談か底の浅いものだと思って怒りを覚えているのだろう。こちらはいたって大真面目だと言うのに。

「俺は本気だ」

 このままでは信じてもらえそうにない。そう感じ、駿は思いつきで宗佑のシャツの襟元を掴んで引き寄せた。その唇に自分の唇をぶつける。何ということもない、柔らかい感触。過去に何度か経験したことのあるものと別に大した違いもない。相手が宗佑というだけで。

 そう、大した話ではないのだ。

 仲のいい友人が、仲のいい恋人となるだけで。ほとんど唯一と言っていい、気の合う人間を失うよりはずっといい。

 目的を果たしてシャツを手放すと、宗佑は数歩よろけて固まった。

「……嘘だろ」

信じられないという表情。遅ればせながら、彼の頬が赤く染まる。その顔は少し甘い切なさのようなものがにじんでいた。それは今まで彼が必死に隠していたものだったのだろう。そう思うとこちらも胸が詰まるようで、苦しくなる。駿は一つうなずいた。

 視界の端、中庭の中央を数人の女子生徒が笑い合いながら横切っていくのが遠く見えた。売店へ昼食を買いに行っているのだろう。彼女達の笑い声が完全に聞こえなくなってから、駿は慎重に声を出した。

「俺だって、お前が好きなんだよ。……恋愛感情とは言えないかもしれないけど」

 その言葉に、ますます宗佑は怪訝な顔をする。

「はあ? だったら、なんでこんなこと、」

「お前といれなくなるのが、いやだ」

「は……」

「お前、ここんとこずっと俺をシカトしてたろ」

「……当たり前だろ」宗佑はまだ少し赤い顔を背けてぼそりと言った。「お前は俺のこと好きでも何でもなかったんだから」

「好きだよ」

「っだからあ、」

尖っていく相手の声。駿はそれ以上言わせなかった。

「お前が俺のこと嫌いだとか、俺がお前のことを嫌いとかいうなら話はわかる。けどお前は俺のことを好きだって言っただろ。だったら俺だってお前のことが好きなんだよ」

 どうして俺は、宗佑と話もできなくなってしまったのか。

 俺があいつと恋人になれないからか。

 そんなことで俺は、気の合う友人を失わなくてはならないのか。

「お互い好きだと思ってんのに、なんで他人みたいにしなきゃいけないわけ」

 本当に、心から駿はそう思ったのだ。

 好意を持つ人間同士がまるで他人のように、お互いの存在を無視し、言葉を交わすことなく過ごす。馬鹿げている、とさえ思った。宗佑が女だったら、きっと一も二もなく付き合っていただろう。男だから付き合えないというのはなんだか変な気がした。

 ……だったら、恋人になればいい。宗佑が望む通りに。

 結論は初級の方程式のように簡単に出た。

「……駿、てめえ」

 低い声。今度は駿の方が胸倉を掴まれた。不意をつかれてよろめく。手加減なしのその力に、シャツのボタンが弾け飛ぶ。宗佑が眉を吊り上げてこちらを睨む顔が数センチと迫る。何よりも彼の目が怒りに燃えていた。ボタンがコンクリートの床に落ち、微かに音を立てた。

「わかってて一から十まで俺に説明させる気か。お前と俺と、気持ちの意味が全然違うんだよ。俺がお前に何を望んでるかわかるか。ベタベタにきったねえこと、クソほど考えてんだぞ」

噛みつかんばかりの宗佑の言葉に、けれど駿は怯まない。

「そんぐらい想像つく。俺だってクソほど汚えこと色々考えることあるわ」

「だから! 俺もお前も男だろうが。気持ち悪いと思わねえのかよ」


「そんな簡単な話じゃねえんだよ!」


 自分が思う以上に大きな声で叫んでしまっていたらしい。宗佑が驚いて目を見開く。

「そんな簡単にお前のこと嫌いになれてたら苦労しねえよ! だってお前、俺のこと好きだって言ったじゃねえか! そんで次の日には嘘みたいに冷たくなりやがって、そんなの、ついていけるわけねえじゃねえか!」

風が音を立てて吹きつけてきた。至近距離で向き合う二人の髪やシャツをなぶっていく。唐突に疲労感が駿の身体を浸し始めた。

「……わかってるよ、馬鹿なこと言ってるって」

額を片手で覆う。重くなった頭を支えた。宗佑がシャツから手を離す。

「駿、」

吐息混じりの声だった。辺りの気配が急速に冷たくなっていくような心地がする。空気も、床も、日差しも、雑草も、すべてが駿の味方でなくなったような心地。それでも、駿はもう一度言った。

「お前の恋人になるよ。ほんとに。だからもう、他人みたいなのはなしにしてくれ」

「……なんでそこまで、」

「何度も言わせんな」

「わかんねえ。なんで、」

「お前が言ったんだろ、気持ちの意味が違うって。お前にわかるわけねえよ」

顔を上げる。宗佑の引き結ばれた唇が震えていた。目は赤く潤んでいて、瞳には自分の顔が映っているのが何となく見えた。

「はい。恋人に、キス」

 わざと冗談のように自分の唇を示してみせる。宗佑は誘われるようにそこへ視線を落としたけれど、我に返ったようにさっと身を引いた。

「……ちょっと、考えさして」



 それから一週間後。水泳部の活動を終えた更衣室で、宗佑は駿の顔を見ると短く返事だけを伝えてきた。承諾の返事だ。

「うん。よし。じゃあ決まりな」

 何のことか、訊くまでもない。室内にはまだ他の部員も残っていたこともあって、なんてことないというように笑って見せたけれど、内心駿は緊張していた。これから宗佑とどのような関係ができあがるのか、まったく想像がつかない。いや、それは今恋人になるのだと決まったわけだが……彼と自分がどのような恋人となるのか、すべてが未知で不安を感じないと言えば嘘になる。

 けれどそんな思いも、一週間前の彼の態度を思い出せば霧散した。

 あんな風に、全く面識のない赤の他人のような態度を取られるよりずっとずっといい。部活でも目が合わず、声をかけられることもない。学校の廊下で偶然会うことも、姿を見かけることもない。休みの日に電話をかけてくることも、部活が終わった後にお好み焼きを食べに行くこともない……そんなことになるよりも。何より、宗佑はやろうと思えば駿に対してどこまでも他人のように振る舞うことができるのだと思い知って、怖くなったのだ。すべてが冷たく閉ざされたような、表情のない彼の顔。今思い出しても、ぞっとする。

「お前、今後悔してるだろ」

 二人並んで校門を出て、家路を辿る中で宗佑は鋭くそう言った。彼が押す自転車の車輪がきりきりと音を立てている。返事を聞いた後の駿の心の動きを察知したようだった。それは昨日今日で読み取れるものではないから、きっと彼は以前から駿の表情や仕草をつぶさに見ていたのだ。今まで気づきもしなかった。

「してない」

 宗佑と、自分自身に言い聞かせるように駿はそう言い切った。

「俺がマジでうんって言うと思ってなかったんじゃないの」

意地悪い声色。けれど無理もないだろう。こんな突拍子もない話、冗談と思うのが当たり前なのだから。

「マジだって、こないだも言ったろ」

冗談ではないことは確かだ。だから今、心の一部が緊張している。隣に並ぶ彼の身体や、自転車のハンドルを握る彼の手の位置を必要以上に意識している。その指が動くと、どきりとする。

「だったら、無理してる」

自転車の車輪の音が止んだ。振り向く。宗佑は足を止めてこちらを見ていた。強い視線に思わず顔をそらしてしまう。

「無理なんかしてねえよ」

 嘘だ。

 ……正直なところを言えば、多少無理はしていた。

 宗佑が自分に望むもの――「クソほどきたねえ」ことも、実はぼんやりとしかわかっていない。

 先週彼に胸倉を掴まれてボタンが弾け飛んだシャツ。ボタンを拾うのを忘れたまま、ほどけた糸の切れ端が残るそれを、今日も駿は着ていた。留めることができなくなった第二ボタンの跡。今更ながらに胸を騒がせる。駿に対する宗佑の思いの大きさがどれほどのものか、自分はわかっていないのではないか。わかっていないまま、安易な方程式を盾にとんでもないことを迫ったのではないか――。

 けれど無理をしてもいいと思ったのも本当なのだ。彼とならいいと。

 誰よりも気が合って、何かと一緒にいて、兄弟よりも仲がいいと言われ、それを気恥ずかしいと思いながらも楽しく過ごしていた相手。感情を記したカードを並べて問われたなら、駿は「好き」「親友」という言葉を選んだろう。

 クラスにも友人と呼べる人間は何人かいたけれど、実のところ駿は彼らに大した興味も感心もなかった。ただ円滑に学校生活を送る上で必要だから、声をかけたり群れたり、適当な馬鹿話をするだけの関係だ。正直に言えば、どうでもいい人間だった。……だから、宗佑に避けられることは、思った以上にこたえたのだ。

 それを思い返すと、胸騒ぎは止んだ。

「そんなに文句があるんなら、」先週と同じように軽い調子で唇を相手に突き出してみせる。「ほら、もう恋人だろ。キス」

 けれど彼は、静かな瞳で駿を見つめていた。先週見せたような押し殺した動揺やいらだたしさ、甘さはない。ただまっすぐ駿を見つめていた。

 宗佑は黙ったまま片手で自転車を押し、もう片方の手で駿の腕を引いた。通学路を逸れ、日が沈みきって少しずつ暗くなっていく公園を横切り、人気のない裏道に自転車を止める。

「……お前の嫌がることは、しないから」

やがて許しを請うような、粛然とも言える声でそう告げた後、宗佑はそっと駿に口づけた。鼻先が触れ合い、今までぼんやりとした認識でしかなかった彼の匂いがはっきりと感じられて、一瞬心臓が硬直したような心地に襲われる。

 触れた唇はしっとりとしていて、熱かった。そういうやり方なのか、啄むというより感触を確かめるように静かに包まれる。

 特に何ということもない。ただ全身で、宗佑の存在を感じ取った初めての瞬間だった。なんともいえない、ぼんやりとした熱いものが胸をかき回す。その感覚に気を取られているうちに、ぬくもりのある指が鎖骨の辺りに触れたので、どきりとした。

「付けろよ、」

「え?」

「ボタン。付けろよ」

 宗佑の指が、駿のシャツの合わせ目をなぞっている。

「ああ。どっかいった」

「予備があるだろ」

「風紀検査も終わったばっかだし、別にいいじゃん」

「だらしない」

「お前がやったんだろ」

 そう指摘すると、宗佑はぎゅっと眉をひそめて目を伏せた。

「わかった。俺が付けるから」

「できんの」

「ボタンの付け方くらい、家庭科で習ったろ」

「そうだっけ」

「……見てると変な気分になるんだよ」

 思ってもみなかった言葉を受けて、駿は胸元を見下ろした。日に焼けた肌。向かい合う宗佑とは共に水泳部で、毎日のように放課後はお互い水着姿で過ごしている。胸元どころか腹やへそ、下腹部のあたりまで日に晒されるし、彼と比べて体型もさほど変わりない。それほど特別なこととは思えなかったけれど、彼にとってはそうではないらしい。目のやり場に困ったというように頬を染めて顔を背ける。不思議な気分だった。

 こいつ、本当に俺に惚れてるんだ。

 エロいと思う、と訊いてみると、ぱかんと頭を叩かれた。



 宗佑との恋人関係は、始まってみれば気楽だった。

 毎日楽しく話をして、ふざけ合って、笑って過ごす。女子相手ではこうはいかない。宗佑には訳のわからない言葉の地雷などはなかったし、急に泣き出すことも、怒り出すこともない。夜に眠りこけたせいでメールのやり取りが途絶え、それが数日続いたからといって「私とメールするの、つまんない?」と真剣な顔で訊いてくることもない。隣にいて沈黙が気まずくなることもない。

 キスやハグにも馴れた。案外こういったことは雰囲気が決めるものなのだなと駿は納得した。甘い言葉を紡ぐ宗佑に気恥ずかしさやいたたまれなさを感じたのは最初の数ヶ月間くらいで、馴れればその言葉を聞くと恋人モードに心と身体が切り替わるようになった。

 宗佑には大きな乳房や柔らかい肢体はない。代わりに水泳部で鍛えられた身体がある。初めて水着のまま抱き合ったとき、それはそれで悪くないな、と感じた。もちろん毛ずねもあればひげの剃り残しもある。けれど、彼の脇腹や首筋の辺り、背筋、鎖骨下の胸筋の辺りは吸い付くような滑らかさなのだ。いつまででも触っていられると思うくらいに。

 それでも、彼はそれ以上駿に触れることはなかった。口づけを交わして、身体をかき抱き、それだけ。その気がないわけではないことは一目瞭然だ。彼の目が欲に煽られて染まっていく様はすぐにわかるし、何より身体は嘘がつけない。けれど宗佑は抑え込んですぐに手を離す。苦しそうに顔を背ける。

 それを見る度、駿は罪悪感に似たしびれを胸に抱くのだ。

 彼も、無理をしているのだ。

 ――無理なんか、しなくていいのに。


 何にしても、駿は宗佑が好きで、二人は恋人だ。

 お互いの気持ちに違いはある。けれど、世の恋人同士だってお互いの気持ちがどこまでも全く同じだなんてことはないはずだ。程度の差こそあれ、どこかずれている。どれだけお互いを思い合っても、結局は別の人間だ。ひとつになることはできないのだから。

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