消しゴム(2)

 中学になってから、俺はバレンタインになんだかやたらに女子からチョコをもらった。


 全部いらなかったから、連んでる連中に全部やった。

 その年のバレンタインも、レジ袋に適当に入れたそれをガサッと仲間に渡す。



「お前さー、なんつー罰当たりなワケ?」

 皮肉交じりの薄っぺらい笑みで、そんなことを言われる。

「うっせーな。モテたいならタバコやめろ。ハゲるぞ」

「あ、そういえばさ。うちのクラスの花井馨、6組の澤田涼太にチョコ渡したって」

「えっうそ花井?すっごい可愛いのに真面目ちゃんだから俺らなかなか近寄れなかったのになー」

「澤田涼太ねえ。アイツすげえ大人しくて目立たねえけど実はキレーな顔してるよなー」

「だよなー。なんかそそられる」

「ぶははっ。お前らヤバいんじゃねーの?」


 そんなどうでもいい噂話が……ぐさりと刺さるのを感じた。



 数日後の昼休み。

 小さく聞こえてくる女子達のおしゃべりで、そのことを知った。

「かおるー、やったじゃん!」

「おめでと!澤田君、優しそうだもんねー。いいなあ」

「……うん」


 彼女の頬は、幸せそうな桃色に染まっていた。






 中学3年の春。


 俺は、花井馨に告白した。



 断られても、何度でも繰り返した。


 ——あなたが好きだ。

 どうしても側にいたい、と。



 女なんか、口説くどころか告白すらしたことがなかった。

 恋心も何も、そんな熱いものが湧き上がったことなんてない。


 恋なんて全くしていないのに。

 俺は、彼女が落ちるまで執拗に告白を続けた。



 彼女は、苦しみ抜いて……やっと俺の求めに頷いた。




 ——ただ、ぶち壊してやりたかった。

 あいつは、何一つ失うことなく、ああして幸せそうに微笑んでいる。



 ……俺は——。



 あいつに、失う苦しみを味わわせたかった。

 置き去りになる苦しみを味わわせたかった。

 かつてあいつが、俺にしたように。


 けれど……

 あいつは、悲しむ顔を一切見せなかった。

 あいつが悲嘆に暮れたなら——俺はもう少し、この女を大切にしたのに。



 俺の望むものは、相変わらず何一つ手に入らない。




 俺は、すぐに彼女を捨てた。









 中学3年の夏。

 進路を確認され、受験勉強を大してしなくても受かりそうな高校を選んだ。

「なんでお前、ぜんっぜん勉強しねーのにそこそこの点取るわけ?ほんっとムカつくわ」

「俺は別にぜんぜん点取れなくたっていーんだけどさ、どーでもいーし」

「あーこういう奴の言うことっていちいちムカつくわー」

 他の奴らが必死に机に向かっている時間も、俺の中に何かにしがみつく意欲は生まれなかった。




 全力で勉強に励む奴にも、いい加減な奴にも、時間は流れた。

 そして、3年の3月。

 俺は、その辺の適当な高校に合格した。



「よかったな、駿。おめでとう」

 父親は、ボソリとそう言った。

 どこか居心地の悪そうな表情の奥に、安堵と喜びが見える。


「……ああ」

 俺も、なんだかボソリとそう答えた。




 ——あいつは、どうやらずいぶんいい高校に受かったらしい。









 花吹雪の舞う中、卒業証書をカバンに適当にぶっ込んで帰宅する。



 中学時代のいろいろをシャワーで洗い流し、適当に夕食を済ませ、自室でゲームや漫画を適当に楽しんでベッドにどさっと寝転んだ。




 ——今度こそ。

 あいつは俺から、遠く離れていく。

 絶対に届かないところへ。



 ——清々する。







 なのに——


 その夜、あいつが現れた。




 ワイシャツから、白い首筋と肩を露わにした、あの夏の日の姿で。



 眠っている俺に、その肌を添わせ——

 滑らかな唇で、何度も俺の唇を塞いだ。


 必死に手を伸ばしても、腕は虚しく空を掻く。

 それなのに、あいつは俺から離れない。

 そして、その微笑みは昔のまま——俺を見つめて、何度も柔らかく綻んだ。


 ようやくその肩を掴み、力一杯引き寄せた。

 細い腰に、きつく腕を回す。

 その美しい首筋に、やっと頬を埋められる——



 そう思った瞬間に、目が覚めた。



 朝になっていた。

 静かな部屋に満ちる、春の日差し。

 涙が、頬を伝っていた。


 そして、自分の下着が、温かく湿っていることを知った。






 呆然としながら、腑抜けになったようにふらりと身を起こす。



 今になって……

 もう二度とあいつに会うことのない、今になって。

 自分の想いを、こんな風に見せつけられるなんて——。



 抑え込もうとすればするほど、思いは勢いを増して溢れ出す。



 あいつに——

 俺は、あいつに何一つ言えないまま——これからの時間を耐えなければならないのか。

 ずっと側にいたかったことも。

 ずっと、俺だけに微笑んでいてほしかった事も。

 腹立ち紛れに、あいつの大切なものを奪い、傷つけた。

 それを謝ることすらできずに——


 ただ、苦しいほどのこの想いを、黙って抱え込んでいくしかないのか。




 ——そうか。

 これは……罰だ。


 罰が当たったんだ。



 この苦しみを、嫌という程味わえばいい。




 俺は、ただ静かに自分の頭を両腕で抱え込んだ。







 その時——


 テーブルの上のスマホが鳴った。





 登録がない相手らしい。番号が表示されるだけで、誰だかわからない。


「——はい」

 警戒しつつ、応答する。




『————駿?』



 電話の奥の声は——あいつだった。



 間違いない。

 昔の声じゃないけれど……声変わりしても、穏やかで優しい、あいつの声。


「——涼太?」

『うん。

突然電話して悪い。番号わかんなかったから、友達に聞いた』


 頭の中の渦は、一層ぐるぐると混乱する。

 どっどっと高鳴る心臓を必死に押さえ込んで、何とか最小限の応答をする。

「……どうした?」


『実は、ずーっと昔に借りてた漫画、机から出てきてさ。……返してなかったよな。ごめん。

もしかしたら、今も探してるかもしれないと思って。

……もし、もういらなければ、処分しとくけど』



「漫画……ああ。

……いや。……それ、いるよ」


 やっと、それだけが声になった。



『そっか。じゃ電話してよかった。

なら、近いうち、中学校の前かどこかで待ち合わせしようか。そこで渡すよ。

……今週の金曜とかなら僕は大丈夫そうだけど』


「…………

わかった。じゃ、金曜……」

『うん』



「——涼太」


『何?』



「……やっぱいいや。会ったら話す」


『うん。……僕も、話したいことがあるんだ』


 俺の言葉に、あいつの緊張もふっと緩んだようだ。

 声が微かに明るくなった気がした。



「ん。……じゃあ、金曜な」

『うん。じゃあ』




 通話を終えたスマホを静かに置き、立ち上がって窓を開けた。

 顔を出し、外の明るい空気をいっぱいに吸い込んだ。





 ——もう一度、あいつに会える。

 あいつの顔を見られる。




 会ったら……何を伝えよう。






 ……伝えたいと思った全てのことを——全部、伝えよう。





 全てを打ち明けて、俺たちがどうなっていくかなんて、知らない。



 けれど——


 今この目の前に湧き上がる感情。

 これが、幸せなんだ。

 間違いなく。





 幸せだ。





 生まれて初めて——俺ははっきりと、そう思った。






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漫画と消しゴム aoiaoi @aoiaoi

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