消しゴム

消しゴム(1)

 あいつは、俺の親友だった。


 親友……のはずだった。

 ——ある時までは。



 あいつと俺は、保育園から一緒だった。

 小さくて細くて色が白くて、くるくる笑ったり泣いたりするやつだった。


 俺にはなんでもないことも、あいつには苦しいことや、悲しいことになるみたいだった。

 理由もよくわからないまま、悲しそうに俯いたり、ぽろぽろ涙を零したりする。


 一人ぼっちでそんな顔をしているあいつを見ると、俺はよくわからない気持ちになった。

 なんですぐ泣くんだよ!とイライラする気持ちと、すぐにでも涙を止めてやりたい気持ちがごちゃごちゃになった。

 けど……泣いている理由を聞いても、どうせよくわからない。

 自分のとっておきのヘン顔で無理やり笑わせるくらいが精一杯だった。


「どしたんだよ、りょーた」

「……なんでもない」

「へー。……じゃ、下見てないで、こっち見ろよ」

「……ぷっ……」


 泣いていた顔が、我慢できないようにちょっとだけ笑う。

 俺はますます面白い顔になって、あいつの額に自分の額をぐりぐり押し付ける。

「げへへ、どうだー」

「あはは、もうやめてよしゅん」

「ほらーもっとすごいぞー」

「きゃはははっ!!なんだそれー」


 笑顔の戻るあいつを見ると、俺も嬉しくなった。

 青ざめていた頬がぱっと桃色になり、口元がふわりと綻ぶ。

 暗い雲間から日差しが差し込むような、柔らかく輝く笑顔。

 俺はいつも、それが見たかった。


「……元気でた?」

「…………うん」

「じゃあさ、いっしょに外いこーよ。いちりんしゃ、おもしろいからさ!」


 俺の手をぎゅっと握るあいつの手が、俺には何よりも大事なものだった。



 小学校に入学し、あいつと俺は同じクラスになった。

 あいつは勉強ができて、宿題も毎日きちんとやってくる。忘れ物をして困っている様子も見たことがなかった。

 その辺適当な俺とは、正反対だ。

 俺がしょっちゅう忘れ物や無くし物をしても、あいつはいつも嫌な顔一つせず俺を助けてくれた。

「涼太ぁ、消しゴムどっかに落とした!さっきまであったのになんで!?どうしよー?」

「えー、またぁ?……じゃ、僕二つあるから、ひとつあげる。なくさないでよね?」

「サンキュー!涼太って、いつもちゃんとしててほんとえらいよなー」

「あははっ!えらいんじゃなくて、僕が普通だと思うよ?」


 あいつの優しい笑顔は、幼稚園の頃と全然変わらない。

 人懐こい瞳が、俺を見つめる。



 運動会の対抗リレーで、他の奴らを全部抜いてトップになった時なんかは、あいつの顔は弾けるように輝いた。

「どーだっ涼太!俺の走り見たか!?」

「すごいすごい駿っ!やっぱかっこいいなあーー!!!」

 頬を紅潮させ、瞳を輝かせて走り寄ってくるあいつに、満面のドヤ顔をしてみせる。


 ……もしかしたら俺は、こんな風にこいつを微笑ませることが、何より嬉しいのかもしれない。

 クラスメイトの歓声に囲まれながら、俺は漠然とそんなことを思った。



 

 そんなあいつとの関係は、ある時を境に変わっていった。



 小学校も高学年になると、一人ひとりのキャラクターがはっきりしてくる。

 気づけば、あいつと俺は、全く違う時間の過ごし方をするようになっていた。

 あいつは、本を読んだりして静かに過ごすのが好き。

 俺は、いつも友達と絡んでわいわい騒ぐのが楽しかった。



 ……あいつにも、俺の側にいてほしい。

 これまでと変わらず……いや、これまで以上に。

 俺は、無意識のうちに、強烈にそんなことを望んだ。

 あいつが離れていくと感じるほど、引き止めたい思いが暴れる。



 けれど——

 いくら、そんな思いが暴れても……

 じゃあ、どうしたらいいんだ?

 その答えは、いくら考えてもさっぱりわからない。


 そんな行き場のない不満は——ガキくさいちょっかいであいつを無理矢理自分の側へ引っ張り込む、そんな乱暴な行動にしかならなかった。



 あいつとのそんな関わり方に、ある日、とうとう亀裂が入った。



「——そういう乱暴なヤツ、僕は嫌いだ」




 このままいったら、いつか、こうなる。

 わかっていたことなのに。

 その言葉を突きつけられた俺は、呆然とした。


 俺には、これがただの喧嘩には、どうしても思えなかった。



『——お前の側から、もう離れたい』


 あいつの言葉は……そんなふうに、俺の心に深く突き刺さった。



 ——もう、あいつには近づかない。


 そうやって……あの時。

 俺は、あの笑顔を手放した。






 小6も終わり間際の、2月。

 父と激しい言い争いをした末、母が家を出て行った。

 二人とも仕事を持ち、元々それほど親に甘えて育ったわけでもない。

 以前から喧嘩が絶えず、仲が悪いこともわかっていた。


 母には、既に恋人がいるらしい。

 こういうの、つまり浮気というんだろうけど。




 金があってコンビニがあれば、別に何も困らない。

 それに……困った、と誰かに漏らしたところで、一体何になるのか。



 ただ——

 暖かく自分の側にあったものがどんどん離れていく寒さは、防げなかった。









 中学に進んですぐ、俺は素行の良くない連中と連む楽しさを覚えた。



 何だか、とても楽だった。

 そこにいれば——悩みからも、悲しみからも、離れられる気がした。


 髪色も変えた。

 今までのように、何かに押さえつけられている毎日がバカらしくて……なんでもいいから突き破ってやりたくて、仕方なかった。


 鏡に映った俺は……

 確かに何かを突き抜けたような、中身のない顔になっていた。



 それでも——

 あいつのことは、気になった。

 昔と全く変わらず。

 隣のクラスで過ごすあいつが、何かに傷つけられていないか。泣いてないか。

 一人きりで俯いてるんじゃないか。

 そんなことばかり思った。



 休み時間、廊下で友達と話すあいつを、つい目で追う。

 それに気づいた途端、あいつは逃げ出すように何処かへ遠ざかった。


 ——あ。あいつを怖がらせてんの、むしろ俺じゃん。

 その度に、自分の馬鹿さ加減に苦笑する。



 なんで、毎日生きてるんだろ。

 俺は、なんとなくそんなことを思った。









 中2の夏。

 怠さしかないプールが、また始まった。


「お前、高校行くつもりなら、授業はとにかく受けろ。

義務教育は中学までだ。その先は自己責任なんだからな——後でいろいろ悩まれても、父さん助けてやれないぞ」


 数日前の夕食時にボソリとそう呟いた父の言葉が、頭に残った。

 元々無口で無愛想な男だ。心のどこかでは、息子のことも考えているのかもしれない。

 そうやって夕食を一緒に取るのも、月に何回でもないのだが。



 サボろうかどうしようか迷った末、渋々更衣室に向かう。

 もうみんな着替えを終えて、プールサイドに集まり出している頃だろう。

 そう思いながら、更衣室のドアを無造作に開けた。



 その瞬間。

 驚いたように、誰かが振り返った。


 ——あいつだった。



 脱ぎかけたワイシャツから、白い首筋と肩先が露わになっている。

 思いもよらない目の前の光景に、俺はぎょっと固まった。



「……やべ、遅れた」


 やっと、そんな言葉だけが出る。


「あ……

僕も、委員会で遅れたから……」


 俺ひとりに向けて、あいつが言葉を発するのは、本当に久しぶりだった。


 お互いにこじれてしまった感情が、いきなり強く擦り合わされるように……その場の空気が、ギリギリとおかしな音を立てそうだった。

 あいつはそんな空気に苦しげに反応し、頬を一気に紅潮させて必死に着替えを進めた。


 華奢なうなじに、柔らかい栗色の髪がかかり……あいつの動きに合わせて、透けるように白い背の滑らかな肌が動く。

 その横顔はまだどこか幼いけれど、整った鼻筋や顎の輪郭は、昔とは見違えるほど大人びている。

 真っ直ぐに伸びた脚の綺麗な腿が、バスタオルの裾から見え隠れする。


 目を合わせることもできずにいた間に……あいつは、驚くほど美しく変身していた。


 ——どうしても、目が吸い寄せられ、逸らすことができない。

 こんなにまじまじと見つめてはおかしいと、わかっているのに。



 俺の視線に捕らえられていることを、あいつもビリビリと感じるのだろう。

「じゃ先行ってる」

 バスタオルできつく自分の身体を包むと、あいつは更衣室から逃げるように飛び出していった。



 ——自分の鼓動がおかしいほどばくばくと乱れ、一向に治まろうとしない。




 何もかもが鬱陶しい。

 身の回りの何かをじっと見つめるのも、面倒臭い。

 何にも深く関わらない。……それが結局、一番楽だ。


 ——そう思って、やってきたのに。



 ……うるさい心臓、止まれ。


 俺を嫌いなあいつと、あいつを遠ざけたい俺。

 なのに……なんだこれ。



 ふざけるな。——鎮まれ。



 俺は、そんな意味不明な動揺と苛立ちを、プールの水面へ散々叩きつけた。




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