5

 小学校三年生のとき、水泳の授業が憂鬱で、前夜に激しく泣いたことがある。わたしの涙があまりにたくさん流れるので、子ども部屋はたちまち水没し、小さなプールみたいになった。

 溺れちゃう! と焦ったけれど、涙のプールは優しくわたしを抱きあげて、犬かきや平泳ぎを教えてくれた。消しゴムのペンギンやシャチもペンケースを飛び出して、朝まで練習につきあってくれた。

 部屋を水浸しにしてしまい、母にひどく叱られはしたけど、これは泣いてよかった数少ない思い出。



   *



「目から魚とかが出るんですけど」

「うーん。個人差があるからねえ。漢方薬でも飲んでみたら?」

「飲んだんですけど」

「大変だねえ。あ、そうだ、これをあげよう」

「なんですか、これ?」

「さっき浜辺で焼いたアジだよ」

「目に効くんですか?」

「いいや。でも塩加減が絶妙でうまいよ」



   *



 神さまは食べきれなかった焼き魚をホイルに包んで持たせてくれた。手さげがほしいと要求すると、スーパーのビニール袋を渡された。中身に対して大きすぎる袋をガサガサ鳴らしながら、バス停までの道をさかのぼる。無限のように感じられた道のりも、ナビを片手に歩いてみれば、拍子抜けするほど近かった。

(もう気絶しないでね)

 と、スマートフォンに釘をさす。

(そろそろ替えどきなのかなあ)

 老婦人がくれたデイジーは、心なしか萎れはじめているように見えた。帰ったらペットボトルに活けてあげよう。

 振り返れば、思いもよらない荷物ばかりが手元に増えた一日だった。一方で、下ろせると思っていた荷はそのままわたしの中に残った。

 ままならないなと唇を噛む。骨折り損といえばそうだが、不思議と心は凪いでいた。

 バス停のベンチに腰かけ青空を見る。

 田舎町の、高い高い空に広がる海原を、色とりどりの風船が舞っていた。行きのバスで乗り合わせた老人たちが降りていった方角だ。停留所の名前はたしか、戦没者記念公園前。

 風に乗ってブラスバンドの演奏が流れてきたが、ここからでは曲名まではわからなかった。

 帰りのバスはあと四十分ほど待たなければ来ない。

 わたしは目を閉じ、体の中をめぐる水路と、太平洋に思いを馳せた。それから、過去から今へとつながっている、無色透明の悲しみにも。胸に手を当てて耳を澄ますが、波の音はもう聴こえない。

 魚たちも、感情も、今は眠っているのだろう。

 なにしろこんなにくたびれて、そのうえよく晴れた一日だから。


(おわり)

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なみだの暗渠 柊らし @rashi_ototoiasatte

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