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 砂浜への入り口は、腰丈に張られた虎縞ロープでさえぎられていた。くぐり抜けて浜辺に立つと、さあっと世界が遠ざかっていく感覚に襲われた。せいぜい幅三百メートルほどの海岸。砂から波へ、波から空へと引き継がれてゆくグラデーションに息を呑む。

 見回すと、海岸の端、消波ブロックの上に釣り人がいた。季節外れの防水ベストが暑そうな、小太りの中年男性だ。

「すみません」

 声をかけて歩み寄る。こちらを向いた顔は、まるでハコフグのようだった。

「ちょっとお尋ねしたいのですが、このあたりに海の神さまという方は……」

 わたしが言い終わらないうちに、男性は外見とは不釣り合いな高い声を発した。

「海の神はわしだけど?」

 その言葉の意味を飲みこむには、多少の努力が必要だった。

(イメージと違う……)

 では、どんな姿なら海の神さまらしいのか、と聞かれても答えに困るが。少なくともキャップを後ろ前にかぶって長靴を履いたおじさんだとは予想していなかった。

「ちょっと待ってな」

 男性は緩慢な動作で消波ブロックから降りた。尻を置き、両手で体重を支えてから、片足ずつ順番に砂へと下ろす。その立ち居振る舞いは、神さまというより動物園のナマケモノを連想させた。

「ああしんど。で、どしたん?」

「あの、これ……」

 例の手紙を差し出すと、彼はそれを鼻先に触れるほど近づけて、まじまじと眺めた。

「ははあ。あんた、だまされたんだなあ。今年に入ってもう三人目だよ。この手紙を持ってきたのは」

「だまされた?」

 予想だにしなかった言葉に、おうむ返しをしてしまう。

「詐欺だよ詐欺。ほら、人間社会でも流行ってるでしょ? なんだっけ、あの本物っぽいメールとかハガキを送って、なりすますやつ」

「……フィッシング詐欺、ですか?」

「そうそうそれそれ。フィッシング的な」

 釣り竿を振るう仕草でにやりと笑う。

「まあ、こんなことやったって何の利益にもならんから、おおかたヒマを持てあました悪魔のいたずらだろうなあ。あいつら人間の悪事を真似るのが好きだし、神をかたるのはもっと好きだもん」

 はあ、と気の抜けた返事が漏れた。

 時間をおいてもう一回。

 はあ。

 呆然自失のわたしに、訳知り顔のおじさんは、人差し指を左右に振って訓示を垂れた。

「いいかいお姉さん。古来から、神は大事なことを郵便で通知したりはしない。直接夢枕に立つんだ。覚えておくように」

 太陽は天頂近くまで昇り、海面は降りそそぐ光を浴びて、宝石よりもきらめいていた。もしもこの世の平和や愛がすべて経年劣化で朽ちたとしても、この場所だけは永遠に輝きつづける、そう思わせるほどの美しさがここにはあった。

 にも関わらず、わたしはひどく戸惑っていた。砂浜の美はわたしの混乱をよりいっそう深くした。

「えっ、じゃあ修理、涙腺の修理は……?」

「あのね。そもそも何を修理するっていうんだい? 人の涙腺はぜんぶ海のどこかにつながっている。今はそれがふつうじゃないか。そしてだね、そうしてくれと頼んだのは、お前さんたち自身なんだよ」

 おじさんは、ひと言ひと言、噛んで含めるような口調で語った。

「昔、この国の人間たちは三十三年間におよぶ激しい戦争をやっていた。その結果、人々の涙は一滴残らず枯れてしまった。そりゃそうだ、愛するものが次から次に死んだんだから……。そこで生き残った連中は、わしのところにやってきて『涙を貸してほしい』と頼んだ。同情したわしは、目には見えない配管で人々の涙腺と海をつないで、好きなだけ泣けるようにしてやったんだよ」

 海の神さまは言葉を切ると、わたしの目をのぞきこんで言い足した。

「こんな話、聞いたことない?」

「ありません」

「教科書とかに載ってなかった?」

「覚えてません」

「まったくなあ」

 おじさんは深々とため息をついた。

「こういうことを、お前さんらは、どうしてちゃんと伝えていかないんだろうね?」

 あきれた声でそう言うと、彼は手紙をするすると折り、紙飛行機につくり変えた。空中に投げ出された飛行機は雲に向かって一直線に飛びあがり、やがて放物線を描いて落ちた。水面に触れる直前で、それは白いイルカになった。

 しぶきを上げて潜ったかと思うと、数メートル離れた水面から跳躍する。わたしを翻弄した手紙は、ダイブとジャンプを繰り返しながら遠ざかり、やがて水平線の向こうに消えた。

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