3
バスは住宅街を離れ、山手をなぞる国道を走った。木々の隙間から時折のぞく遠い海は、淡く光って凪いでいた。道が蛇行するたびに、その存在感が少しずつ大きくなってゆく。
老人たちの一団は、わたしが降りるひとつ手前の停留所で下車した。個性的な抑揚のアナウンスが「ドアがひらきます、ご注意ください」を連呼する中、穏やかな顔の乗客たちは運転手に一礼してゆっくり退場していった。
目の前の老婦人が席を立つので、わたしはつり革から手を離し、体を引いて通路をつくった。次の瞬間、一輪の白いデイジーがわたしの手の中で咲いていた。
「どうぞ。ごきげんよう」
子守唄のような声でそう言うと、花束を抱えた老婦人は残り香だけを置いて去った。お礼を言いたかったけれど、わたしの言葉は間にあわなかった。
数分ののち、わたしは片手に白い花を、片手にスマートフォンの地図を持って目当てのバス停に降りた。無人になったバスを見送り、目的地までのナビを開始する。鞄の中で折れてしまうのが惜しくて、花は手に持ったままにした。
蜜を求めてはしゃぐハナアブ。頭上でうたうトビの声。初夏の田舎道は命の気配に満ちていたが、あたりに人の姿はなかった。みんな呪いで虫になってしまったのかもしれない。
古くから拓かれていた土地なのだろう。区画割りは複雑で、道は曲がりくねっていた。ナビがなければ大変だったに違いない。数分ほど歩き、小さな川の石橋にさしかかったときにはもう、来た道の記憶すら曖昧になっていた。
欄干から身を乗り出すと、町の地下に潜りこむ配管の黒いあぎとが見えた。そよ風のふりをした臆病風がさあっと吹いて、わたしは急に弱気になった。
(こわいな。やっぱり引き返そうかな)
そんな思いが頭をかすめる。水道管を見ると心がぐらついてしまうのは、きっとつまらない自己憐憫だ。配管は配管、わたしはわたし。感傷をふりきって顔をあげると、スマートフォンの電源が切れていた。
(どうして?)
一瞬、頭が真っ白になる。
バッテリーはまだ六十パーセントくらいあったはずなのに。再起動を試みるが、縦長の闇は狼狽したわたしの瞳を映すだけで、何の反応も示さない。
慌ててハンドバッグにしまっていた手紙を取り出す。粗い地図をどうにかして判読しようと目を凝らすが、そもそも現在地すらあやふやなこの状況では、たいして役に立ちそうもなかった。
行くか戻るか、しばらく逡巡した後で──
(とにかく、もうちょっと歩いてみよう)
ふりきったばかりの弱音に白旗を上げるのが
わたしは川沿いの道を選んで下流を目指した。海辺にさえたどり着けば、案外すぐに目的の浜辺が見つかるのではという期待があった。ところが、すぐにそれが甘い考えだったと思い知る。ほどなくして道は水路から離れ、自分勝手に枝分かれを始めたのだ。方角を見失い、わたしはいよいよ正真正銘の迷子になった。だれかに道を尋ねようにも、すれ違うのは車道を行き交う自動車ばかり。
ブラウスの背中を汗がつたう。陽が高くなっている。バスを降りていったい何分経っただろうか? 時計がないので時間も知れない。まぶたの裏に熱い波が押し寄せてくるのを、今度はもう止める術がなかった。
思わず空を仰いだ。
すると、花畑が見えた。
車道のむこう、倉庫のトタン屋根と生い茂る木々の間に、色褪せた看板がわずかに顔をのぞかせていた。何か文字らしき跡も見えるが、かすれていて読み取れない。わかるのは、大胆なタッチで描かれた白い花畑。あの花は──
(デイジーだ)
握っていた花を掲げると、看板の絵とぴったり合った。まるでジグソーパズルみたいに。
ガードレールを乗り越えて、わたしはその場所へと急いだ。近づくにつれ、松林に隠されていた建物が姿をあらわす。周囲の景観を完全に無視した、おとぎ話のお城のようなデザイン。あろうことか外壁はオレンジで、窓にはストライプの日よけが取りつけられている。剥がれかかった看板も、すぐそばでなら読むことができた。
〈平和と愛のHOTEL デイジー〉
錆びついたシャッター、叩き割られた部屋番号の内照パネル。建物を飾るひとつひとつが、年老いた皮膚に浮かんだ皺のように、廃業してからの年月を雄弁に物語っていた。
ホテルの脇に松林を通る小径を見つけた。
松林を抜けると、おもむろに視界がひらけた。足を止め、肺いっぱいに海風を吸いこんで確信する。間違いない。目の前に広がる砂浜は、昨日の夜、サムネイルで見た風景そのままだった。
ざざあ、ざらざら、ざらざらざざあ。
ざざあ、ざらざら、ざらざらざざあ。
わたしの中の透明な波が高くなる。
バッグの奥で眠っていたスマートフォンがおもむろに目覚め、メロディーを鳴らして宣言した。
『目的地に到着しました。ルートガイドを終了します』
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