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 その手紙を受け取ったのは、残業を終えて帰宅した金曜日の晩だった。差出人が書かれていない浅葱あさぎ色の長3封筒。宅配ピザと不動産屋のチラシに混じって、郵便受けで待っていた。

 心当たりのない便りに首をかしげつつ、わたしは「親展」と朱書きされた封筒の口を破った。



 橋本 みう様


 突然のご連絡失礼いたします。

 このたび当方の手違いで、あなたの涙腺が太平洋とつながっていることが判明いたしました。ご不便をおかけして大変申し訳ございません。無償で修理・交換させていただきますので、ご都合のよろしいときに下記の住所までお越しください。

 ※日曜・祝日は定休です


                              海の神



 ほのかに磯くさい手紙をためつすがめつ眺めながら、わたしは台所のシンクで泣いた。まぶたの端から四十センチほどもある回遊魚がこぼれ落ち、尾びれで流し台をリズミカルに叩いた(そんな大物はずいぶん久しぶりだった)。

 疲れきった頭で何度も文面を読み返し、咀嚼しようと努めたが、際限なくあふれる雫が邪魔をしてうまく考えがまとまらなかった。

 うまれつき、自分でもあきれるくらい涙腺が弱かった。ほんの少し心が揺れると涙はすぐに氾濫した。わたしの歴史は水害との闘いだった──思春期を過ぎるまではとくに。

 心はなみなみと水の張られた小さなコップだ。両手で囲って、真っ暗な廊下をつまづかないよう慎重に歩かなくてはいけない。部活の帰り、坂道を登りきったら紫色の夕焼けが見えたとき。家を出てから靴下の左右が違っているのに気がついたとき。大好きだったキャラクターの手帳を大嫌いな先輩が愛用していると知ったとき。喜怒哀楽のすべてが涙の引き金になった。

 周囲からは弱い子だと思われていたに違いない。無理もない。無理もないが、それは誤解だ。

(弱いのはわたしの涙腺で、わたしじゃない)

 三十を迎えた今ならそんな開きなおりも言えるが、当時はまだ、生きづらいという言葉さえ手に入れていなかった。

 書面の末尾に印刷されたグーグルマップとおぼしき地図は、解像度が粗くてガビガビだった。地図アプリを開いて記載の住所を打ちこむと、片道三時間半と出た。サムネイルには無人の砂浜が写っている。かたわらに松林に囲まれたオートキャンプ場があるが、今の季節は営業していないらしい。

(涙腺の修理って、いったいどうやるんだろう?)

 痛いのだろうか。麻酔はしてくれるのだろうか。

(……神さまだから奇跡みたいに一瞬かな?)

 以前テレビで声を失ってしまった歌手のドキュメンタリーを観たことがある。その人は首をまるごと樹脂製の義首に交換して新しい歌声を手に入れた。二度目の声変わりをした気分です、とにこやかに語っていたっけ。

 物思いにふけっているうちに、気がつけばシンクの魚は消えていた。涙とともに飛び出してくる海産物は厄介だが、しばらく目を離すといなくなる。泡になって空気に溶けたか、ここは海ではないと気づいて元いた場所へと帰ったのか。そういうものだと慣れてしまって、いまさら疑問に思うことも減ったが。

 まさか、太平洋とは。

 缶チューハイを一本空けて風呂に入ると、いくらか気分が落ち着いてきた。母に電話をかけて明日のランチをキャンセルしたいと伝えると、「仕事?」と訊かれた。

「違うよ。どうしても行かなきゃいけない用事ができて。ごめんね」

 これは本当だ。

「そうなの、いいけど。仕事は順調? 続けられそう?」

「順調だよ、大丈夫」

 これは若干嘘が入った。

 その後、しばらくとりとめのない話を聞いた。父のこと(毎日飲んでる)、弟のこと(毎日ギター)、近所に新しくできた整骨院のこと(院長がイケメン)。母のアドレスに銀行を騙るフィッシングメールが届き、危うくカード番号を入力しそうになったこと。

 三通りくらいの相槌をローテーションで打ちながら、わたしの視線は食卓に広げたままの手紙に吸い寄せられていた。その中身について、どう話そうか決めかねているうちに──

「ところで、最近水まわりの調子はどうなの?」

 母の口から何気なく出た「水まわり」という言葉に、わたしははっと息を飲んだ。

 子どもの頃、母は嫌がるわたしを引っ張って、眼科、内科、耳鼻科と様々な病院をはしごした。大量のサプリメントや死ぬほど苦い漢方薬も飲まされた。もちろんわが子を思ってのことだとはわかったが、反抗期にさしかかり棘が生えたわたしは、次から次へと新しい療法を勧めてくる母にうんざりしてこう言った。

 もうお節介はいいよ! 病気じゃないし。水まわりのトラブルみたいなものだから。

 忘れていた、今の今まで。そんな言葉を吐いたことなど。

「変わりないよ、ありがとう」

 わたしたちはおやすみの挨拶を交わして電話を切った。

 わたしが何を忘れても、それは消えずに残っていて、縫い目のひとつになっている。世界はまったくややこしい。そりゃ神さまだってミスくらいするよなと、布団をかぶって空が白むまで考えていた。

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