なみだの暗渠

柊らし

1

 海辺へ向かうバスは花の香りでいっぱいだった。間違ってビニールハウスに乗りこんでしまったのかと疑うほどに。

 乗りあわせた老人たちは色とりどりの花束を大切そうに胸元に抱き、車窓を流れる新緑の景色を見つめていた。カーブのたびに大げさなほど揺れる車体。つり革に体重を預けて目を閉じていると、中学生のとき社会見学で訪れた植物園を思い出した。クリーンセンターの隣に建つ、ゴミ焼却炉の熱を利用して花の蕾を温めている園だった。

「百六十年前の開園当時、温室は今の約三倍の広さがありました。戦後の人口減少に伴い、ゴミの排出量が大幅に減ってしまったため、現在の規模に縮小されたのです」

 そう説明するガイドさんの口紅は、ハイビスカスのように鮮やかだった。その赤が今もくっきりと脳裏にこびりついている。

 知らない土地の朝は澄みわたり、わたしの情緒は乱れていた。寝不足、バス酔い、古い思い出……そういうものが混ざりあって、感情のバルブが緩くなっていたのだと思う。悲しかったわけではないのに、ふいに一滴、涙がこぼれた。

 涙とともに小魚が一尾、右目の端からすべり落ちた。おそらくニシンの稚魚だろう。朝日を受けてきらりと光る鱗の碧がみずみずしい。わたしは目元をぬぐうふりをしてハンカチでそれをキャッチすると、あらかじめハンドバッグの中に広げておいたジップロックに放りこんだ。

「大丈夫? ここ、おすわりになる?」

 目の前に座っていた老婦人が腰を浮かせて、気遣わしげに声をかけてくれた。

「ありがとうございます、大丈夫です」

 わたしは会釈を返すと、背筋を伸ばしてつり革を握り直した。小魚には気づかれなかったと思う、たぶん。

(朝ごはんを抜いたのはよくなかったな)

 今さらながらに後悔する。低血糖で心がワレモノになっている。

 現地でどのくらい時間を使うか皆目見当がつかなかったから、できるだけ朝早く家を出た。特急と路線バスを乗り継いでの長旅だ。明日も仕事なので、遅くなるのは避けたかった。

 ハンドバッグに手を差しこむと、ジップロックの微かな震えでニシンの稚魚が跳ねているのが伝わってきた。ごめんね、と声には出さずに謝る。その隣、昨夜届いた封筒に指先が触れた途端、わたしの胸に波音が満ちた。


 ざざあ、ざらざら、ざらざらざざあ。

 ざざあ、ざらざら、ざらざらざざあ。


 波浪のような胸騒ぎのわけは、期待なのか不安なのか。

 判別がつけられないまま、わたしは朝を駆けるバスに揺られていた。

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