第12話 記憶のめざめ

 この世界には魔法があるという。

 言葉をまるで誰かの受け売り言葉のように、空っぽの言葉の意味のまま教えてくれたのは、教室の隅で本を読んでいる変な女の子だった。

 町にやってきたばかりの宗志には、当時友達という人がいなかった。

 おそらく彼女にも友達がいないんだろうなと宗志は思ったし、投げられた言葉そのものの意味も、当時の宗志は言葉通りに、ああなんて説得力がないんだと思っていた。

 彼女に対する最初の印象はその程度だった。

 彼女の宗志に対する第一印象も、あまりよくなかっただろう。きっとそんなところだ。

 あとはよくある自己紹介と他人事のような社交辞令を言い合って別れた。

 彼女との出会いは特別でも何でもなかったし、気がついたら彼女とはよく話す仲になっていた。

 なぜそんな風になったのかは、宗志はよく覚えていない。

 気づけば宗志と彼女は互いに……すくなくとも宗志の中では、彼女の印象はとても強く残るようになっていた。

 平和な日常はすぐに終わる。それでも宗志は、彼女との出会いを忘れなかった。戦場を戦い、幾度もの暗闇を乗り越えるようになってきたときから。ずっと。


 空虚だと思っていたその言葉は、日が経ち宗志が死線を何度もくぐり抜けるうちに次第にその重みを増していった。

 胸の中で反芻するのは、あのとき教えてもらったあの魔法の言葉。

 その言葉がいったい何だったのか。ぐらぐらと揺れる意識の中で宗志は必死に思い出そうとした。だがいくら考えても記憶はたぐれないし、思考も鈍いままだ。

 彼女の幻影がふっと現れて、宗志になにかを教えようとしてくれる。だが目の前にいる彼女は宗志になにも言わないし、宗志もまた少女の幻影が何を言おうとしているのかを理解できない。

 半開きの瞳孔が外に光を感じ、少しずつピントを合わせて小さくしぼむ。彼女の幻影はとたんに消えうせるが、代わりに世界にはあかりがともされた。

 宗志は、どこか知らない倉庫に座らされていた。知りたくもない現実だった。

「うっ、くそ。どこなんだここ……」

 肩の節が痛い。無理な姿勢で腕を上向きに吊され、下半身は硬い床に直座りさせられている。鈍痛が腰から下にあることを感じて、これが一番直視したくない現実かと宗志は冷静に考えた。

 そして、自分はどこにいるんだと考える。

「……どこだ、ここ」

 なんど自問しても答えは出てこない。明るいと言うことは、ここは地下ではない。

 大きなコンテナがあるということは、ここは道路とつながっている大がかりな施設だ。しかも車の出入りが可能で、敷地はだいぶ広いように思う。

「ここ、いったいどこなんだ?」

 広い敷地があって、大型車が入れて、コンテナがあると言うことは大通りからも近い。そんな建物が、自分が覚えている限りでは昼間に自分がいた学園周囲に存在しない。

 と言うことは。

「……どこだろう?」

 宗志は宙づりになった腕の感覚が麻痺しているのをいいことに、腕を左右に軽く揺すってみる。

 じゃらじゃらと音がする。丁寧にも、自分の腕は太いチェーンで縛られているようだった。宗志は自力での脱出を諦めた。

 どこかで誰かが歩いている音が聞こえる。

 硬い床を踏みならすその音は、ブーツのかかとが鳴る音だった。しばらくすると、宗志の座らされているスチールコンテナの脇から知った顔が覗いた。

「目が覚めたようね」

「君は、理香さんか……。どうしてボクはここに」

 新たに現れた黒髪の少女は、宗志の言葉にほとんど反応する様子も見せずつかつかと宗志の近くまで寄ってきた。

 歩幅で言うとあと三歩程度の距離だった。絶妙な距離をとって少女は宗志の前に立つと、手に持っていたトレーを前にかかげ宗志を見下ろす。

「記憶が戻りかけてますの?」

 冷たい視線が宗志を射貫く。宗志はやや戸惑った態度をとったが、すぐに黒髪の少女理香をキッと見上げた。

「ある程度ね」

「早いですね。どこまで思いだしてくれたのかしら。わたくしと宗志さんの、初めて出会った日のこととか」

 理香の持っているトレーは、食事の器が入っているのだろうか。それなりの重さがあるからなのかトレーを持つ彼女の腕は軽く揺れている。

 理香の目は相変わらず冷たい。黒い瞳に、どこまでも無表情無感情な口元。病的なまでに白い肌に、細い手足。

 ただし、口元はわずかに微笑んでいた。

 無表情能面でどこまでも冷たいのに、口元やそのほかのちょっとした小さな仕草から、なんらかの残虐さが醸し出されるというか。だがなぜそう思えてしまうのかは分からない。その正体不明のギャップが、理香の人格がどこかしら歪んでいると宗志に悟らせた。

「これをしたのはキミ?」

 宗志は自分の腕をしばる鋳鉄製の鎖をわざと左右に振って音を鳴らした。

「ええ、これはわたくしですわ」

 さらりと答える少女に、ためらいや罪悪の気配はみじんも感じられない。

 多少は非難の声も含めて質問していた宗志の言葉は、鎖の音と共に空虚に響いた。

「……外してくれないかな。キミもウィザーズの隊員だったんだろう?」

「そうですわね」

 少女は言うと目を細め、宗志を値踏みするような、見下ろすような、あるいは記憶の中の何かと現実に目の前にいる何かを重ね合わせているような、とても不思議な目をする。

 そのあとに小さく顔を傾け、なにか落胆したようにため息をはいてうつむく。

「顔も同じなら声もまったく同じ。なのに言う言葉は全然違いますの」

 少女はため息を吐いたあと、また最初の頃のように人を疑うような、下から見上げて人を値踏みするような顔に戻る。

「ええそうね、わたくしはウィザーズの隊員でしたわ」

 その微妙そうな顔を見て、宗志は不安さを覚える。また何かをされるのかとか。だが少女は、今すぐ何かをする気はないようだった。

「もうウィザーズじゃないの?」

「……わたくしにとっては、ウィザーズは手段でしたわ」

 食事が置かれているだろうトレーを持った姿勢で理香は答え、その場の床にトレーと食器を静かに置いた。

「自分の夢を叶えるための、手段としてのね。でも今はもうそれも必要なくなった。だから、わたくしはウィザーズを抜けましたの」

 トレーの上に置かれた食器からは、宗志の空腹神経をくすぐるのに充分な湯気と香りが漂っていた。かすかに酸っぱみを覚える赤い色のシチューのようなもの。湯気はそこから漂っている。宗志の食欲はすでに我慢の限界を超えつつあった。

「忘れているのか知らないのか。わたくしには確認のしようがないのであらためて自己紹介させていただきますわね。わたくしはウィザーズの元ナンバーフォー、川端理香。狂犬とか、チームの悪意とか言われることもありますけれど、これでも宗志様の片腕をになう特務隊員でしたの」

「よ、よろしく」

「あらあなたによろしく言われる筋合いはなくってよ」

 そう言って理香と名乗る少女はにっこりほほえむと、トレーの縁につま先をかけて勢いよく蹴り上げた。

「ひっ!? あ、あつッ!!」

 蹴られた食器と共に中身の食事が大きく飛び散る。一部が宗志の頬にこびりつき、どろりとした感触と熱を宗志に感じさせた。

「顔と声だけ似ている偽者め」

「……へ?」

 だがそれよりも宗志の心にキたのは、少女に言われた「偽者」の言葉だった。

 赤い色をしたシチュー。湯気が立ち、ほのかに酸っぱい匂いと溶けた肉や野菜の香りもただよわせている。大きな具すら入っていたらしい。だがそれも今ではただの残飯だ。

 それら食べ物だった物の上を、少女がゆっくりと歩いてくる。

「怒ります? 怒りますよね? 普通なら、こんなことされて、これくらいのことを言われたら怒らない人なんかいませんわ。あの人もそう。だけどあなたは怒らない。ねえ宗志さん?」

 理香は宗志の目の前ですっと座り込むと、にこにこと微笑みながら宗志の顔をのぞき込んだ。

 その姿はかなり挑発的である。目の前で座り込めば自然と無防備なように見えたが、彼女は慎重に宗志との距離をとっていた。スカートの隙間から下着も見えそうな雰囲気だったがそれすらも見えない。彼女は黒いレザーブーツと細身のズボンを履いていた。

 質素で素朴な黒い服。長い黒髪。清楚端麗な身のこなしに、はっきりとした目鼻の筋。

 彼女の表情はすぐに変わる。誰かのことを思い出しているときは、きっと今のようにとてもかわいらしい顔をして笑うのだろう。目の前にいる宗志を見るときは、下からその者の心をのぞき込むような顔になる。

 人を誰も信じていない疑心暗鬼の目。

 彼女はふっと顔をあげると、いたずらっぽく口元をすぼめてほほえんだ。

「あなたはいったい誰なの。この世界に慣れすぎて怒れなくなってしまった宗志さん? それとも、平和ぼけした他のやつらと同じウジムシ?」

 とても丁寧な口調と明るい表情とは裏腹に、その言葉や行動には毒がある。

「ボクは宗志だ。き、君たちの隊長だよ」

 宗志は思い出しかけている記憶の断片をさぐり、なんとなく思いついた言葉を叫んだ。

 少女は一瞬だけびくりと体を震わせ足を止めたが、今度は力を入れてブーツの先を宗志の顔に突き立てる。

「そんな言葉で、わたくしがあなたを怖がるとでも?」

 宗志が必死で思いついた言葉を全否定するように、少女は残飯のカスがこびりついたブーツで宗志の顔を踏みつけた。

「わたくしは強い人が好き。それもただ強いだけじゃダメ、わたくしより強い男が好きなの。素手でわたくしを倒して、わたくしをウィザーズに引き入れた豪胆さと、その冷淡さ。ああ思い出しただけでもぞくぞくするわ」

 言うと少女は恍惚とした表情をして上を向きまた過去を思い出す。

 その思い出している詳細は宗志には分からなかったが、宗志はこの少女が、危険で、暴力が好きで倒錯的で、過去に強い思い入れがある独りよがりな人間性だと言うことが分かった。

 宗志がそう思って少女を見上げていると、その視線に気づいて少女は宗志を見下した。

 そして、ふふっと自己陶酔じみた笑顔で宗志を見返す。

「わたくしより強い男を殺すため。わたくしを倒したその男を倒すため。わたくしがウィザーズに入ったのは、そのためですわ。でももう必要ないから」

「だからキミはウィザーズを抜けたんだね」

「そうよ。よく分かっているじゃない」

「そりゃあね」

 少女に踏みつけられた顔に残飯のカスがこびりついている。それを、宗志は横につばを吐き出すついでに吹き飛ばした。

 その様子をみて少女、理香は満足そうに笑った。

「そんな目まで隊長にそっくりなの。そういう反抗的な目、嫌いじゃないわ」

「そっくりな目ね」

 少女が宗志に向き直り背筋を伸ばすたびに、ブーツのかかとが床を打って音が鳴る。

「わたくしはショックですわ。あんなに強かった隊長が、この世界に墜ちて行方不明になったのは聞いていたけれど、まさかこんなに玉無しのふぬけになってしまっているなんて。もっとも、本物の隊長なら今頃もっとましな生き方をしているでしょうけれど」

「キミがなんと言おうと、ボクは本物の加藤宗志なんだけれどね!」

「上の口ではなんとでも言えますわ。腕を縛り上げてたって口はいくらでも動きますものね。でも」

 少女の右足がふたたび動く。

「その口、こんなことされてもまだ動けるのかしら」

「ぐっ!」

 宗志の顔に足をのせる少女が、男としての宗志のプライドと尊厳を踏みつける。

 ごつごつと硬いブーツの裏が宗志の頬をふみ抜く。宗志は踏みつけられ、この理不尽な行為とその屈辱に怒りで肩をふるわせた。

 上を見れば、そんな宗志の顔を見て妙な顔で笑っている少女の顔がある。

 理香は、こんなにも倒錯した考えの少女だったのか? 今朝はじめて見たときの、彼女の悲しそうな顔からは想像できない。

「わたくしの生きる希望! わたくしの存在意義! わたくしの、喜び! 怒り! わたくしのすべて!!!!! ……それにそっくりなだけのタマナシ男には、こんなことされても怒ることなんてできないでしょう?」

 力強く宗志の顔を踏みつける理香のブーツに、さらに力がこもる。

 それは宗志の口の中に靴底の残飯を飲ませんと、むりやり口の中にブーツのつま先を押しつけてきた。

「えっ、あ、あがッ?!」

「ほら、食べなさいよ。こんなものでもあなたなら食べられるでしょう? 加藤宗志、さん?」

 むりやり口に残飯を押しつけられて、宗志は半泣きになりながら少女の顔を見上げた。

 少女は相変わらず不思議な笑みを浮かべている。それは恍惚とした顔、にとてもよく似ていた。この顔が実際にそのような感情から出てきているのかは宗志は分からないがたぶんそのような顔だ。

「なにわたくしを見てるの。食べなさいよ。反抗的ね」

「こんなの食べられるものか!」

「わたくしの育った地下に比べればとてもおいしいわよ」

 少女の足にさらに力が入る。

 踏みつける少女のミリタリーブーツが、宗志の口をこじ開け奥に入る。

「えあっ、あ、あああ」

 口の奥まで力尽くで入ってきたブーツは、宗志には少女の侵入を歯や舌で止める手立てを残さなかった。

 喉の奥まで食い込んだ少女のブーツが宗志の体に直に体の危機をを促し、嗚咽と緊張から来る喉のけいれんが宗志を襲う。

 吐き気が宗志を襲い、宗志は少女のブーツを歯で押さえ込みながら軽く吐瀉物を口の中に含んでから、ゆっくりとそのものを外部に漏らした。

 少女はブーツを抜き出し宗志の様子を見守る。

 宗志は苦しさで息を荒くし、ぐったりとしてうつむく。赤いシチューの残骸、踏みつけられた具の中身や宗志が今まさに吐き出した白色の嘔吐物がぐちゃぐちゃになって混ざり合い、宗志の感情さながらに混沌とした模様を示している。

 あまりにも残酷で容赦のない仕打ちに、宗志はあふれそうな涙を必死に止めるので精一杯だった。それを知ってか知らずか、それとも知らないふりをしているだけなのか。少女理香は腕を組んで意外そうに宗志を見つめる。

「そういう顔も、隊長そっくりですのね」

「だッだから! ハァハァ、ボクが加藤宗志なんだよ! ボクがウィザーズにいたかどうかはまだ分からないけれども!!」

「まだそんな寝言を言うんですの? そういう思い込みも、データの中の複製人格ごときが言っていい言葉ではありませんわよ」

 少女理香はふっと冷たい顔になり顔を横にそらすと、冷たい目と顔をして右腕を背中へと伸ばした。

 そして出てきたのは、長いバレルと超大口径の狙撃銃。

 右手部分は狙撃に特化した長いロングライフルグリップ。左手を添えるフォグリップには、刃物と勘違いしそうな巨大な金属板が挟まれていた。

 事実、少女はその金属部を宗志の胸元に突き刺し冷酷な目で宗志をにらみつけている。

「刺して黙らせるか撃って黙らせるか。それともその減らず口、首から上を切り離せばいいのかしら?」

「キミがなんと言おうと、ボクが加藤宗志だ!」

 にらまれてひるむことなく、宗志は少女理香にかみつく。

 宗志の気迫に理香は一瞬だまりこみ、悔しそうに口元を歪ませた。

 銃口から先に突き出た巨大金属刃をゆっくりとたぐりあげると、少女は覚悟を決めたように宗志の首に銃の狙いをつける。

 引き金に指がかかり、その関節にゆっくりと力が込められていく様子。宗志は彼女の指と彼女の顔の両方を見比べた。

 ふと、不思議で強気な気持ちが胸の奥からこみ上げてくる。宗志はそれを、そのまま言葉にして出した。

「キミの思うとおりにするといい。その結果は、キミが自分で選んだものなんだ」

 そうして宗志は、顎をあげ胸を張った。その言葉と様子を見て理香は目を見張る。それは、驚きの表情そのものだった。怒りの感情もあるようだった。

 少女の歪んだ口元がさらに歪みはじめる。銃を握る少女の腕がガタガタと震え、明らかに動揺していた。

「撃ちたいなら撃ちなよ。それでもボクは、加藤宗志だ!」

「こっコイツ……! どこまでも隊長の名前をかたって!!」

 少女の瞳に殺気がこもる。引き金にかかった指がゆっくりと動き、もう少しで銃口から白い光と煙が出るといった時。

「双方やめろ!!」

 少女の後ろに、新たな三人の人陰が立った。

 暗い倉庫の中で、わずかに庫内を照らす天窓の光をさえぎるようにして現れた三人組の一人が銃を持って叫ぶ。

「川端理香、私は彼に事情を聞けと言ったんだ。分かっているな? 彼を拷問しろとは言っていない。それ以上下手なことをしたら、私がオマエを殺すぞ川端理香」

「……チッ、ロシアの犬公め」

 理香の大きすぎる独り言に、新たに現れた三人組の一人、中心に立ついちばん背の低い少女がぴくりと肩を動かした。

「ふ、なんとでも言いなさい。もっとも、私たちに言わせれば飼い主を裏切って敵に渡しちゃうようなのは、犬以下の存在だけどね」

 少女と理香の罵り合いを聞いているうちに、理香が宗志に突きつけていた銃口がふと離れていった。

 見れば、理香の表情は怒りそのものの顔になっている。理香が見ている先は、三人の黒い影。一人は、先ほど宗志を学園のクラス内から拉致していったアグラーヤという少女だ。

「いったい、どういうことだ」

 埃の舞う空間にわずかな太陽光が入り、庫内は断片的ながら乳白色に染まっている。金色の髪色だったはずのアグラーヤも、その隣に立ってナイフの腹を手で執拗に打っている大男も、何もかもが曖昧な乳白色に染まっている。三人の中でいちばん目立たない中背の男もそうだ。

 男は手のひらサイズ大の端末を叩いて何か調べているようだった。

「さて、本当はこの子の口から言って聞かせたかったんだけど、改めて聞きましょうか。アクティベートキーはどこにあるの?」

「だから、いったい何のことなんだ」

「ふ、とぼけてもダメ。ねえヴァシーリー?」

 三人組の中心人物、長髪のアグラーヤが後ろを振り返る。そこには三人組の中でももっともおとなしそうで、背も普通、体格も普通で服も雰囲気もなにもかもが普通でまともそうな男がモバイル端末のキーボードを叩いていた。

 その男、三人組の中では限りなくまともそうに見えたが、細長い眼鏡にするどい目つきはやはりどこか研ぎ澄まされた様子。やはり雰囲気は、どこか軍人のようでもある。

「……急いだ方がいいですアグラーヤ隊長。インテンデンツの軍事施設の浸食が止まらない」

「だそうだ。オマエも、そろそろ記憶喪失ごっこは終わらせた方が賢明だぞ?」

 アグラーヤは宗志を振り返ると、ゆっくりと銃を宗志に向けた。

 その銃は、暗い室内にあっても異様なほどに目立つ。後退した銃の薬室、短い銃身、大きすぎるトリガーガードに、小型拳銃にしては似つかわしくないほど大きな口径。

 これはロシアのミリタリースペック表にも存在しない軍の武器だ。小さな拳銃に不必要なほどの力と安定性を求めた奇特な武器。グリップからはみ出た長い弾倉には計二十発の超大型拳銃弾が装填できる。

 弱点は重さと大きさだと、宗志は考えた。それらを冷静に見て観察できる自分に宗志は驚いたし、それだけの知識を自分が持っているのにも驚く。

 宗志は変に冷静だった。なのに、頭と意識が追いつかない。

「べっ別に好きで記憶喪失しているんじゃあ……!」

 庫内に舞う埃が、天窓からの淡い光を受けて乳白色に染まる。ヴァシーリーがアグラーヤを目だけで追い、アグラーヤも宗志をにらみつけ拳銃を握る指に力を入れる。

 その瞬間が見えた。宗志には、どうしようもできなかった。

 覚悟を決めたしゅんかん、肩に重く激しい衝撃が走り、同時にまばゆい光が視覚を奪って宗志を捉える。

「ぎ、ぎゃあぁぁぁぁぁぁああああ!!!」

「つぎ答えなければ頭を狙う、私たちも遊んでいる暇はないの。もう一度聞くわ、MMICSを止めるウィルスのアクティベートキーはどこ?」

 アグラーヤが銃を撃った瞬間、天窓から覗く太陽の光がふっと消えた。代わりに出てきたのは、淡い月の光。

 昼だった世界が一瞬で夜になり、倉庫の外では夜の虫が鳴き始めた。

「?! なんだッ?」

「アグラーヤ隊長! 外で何かが!」

「何かが起こったのは分かっている! 何があった!」

 天窓を振り返り動揺するアグラーヤを、端末を見ていたヴァシーリーがすこし動揺した顔で見た。

「……何かが来ます。MMICSかもしれません!」

 携帯式端末の出す青白い発光に顔を照らされながら、ヴァシーリーは慌てたように画面を叩き続ける。

「クソッ! 何か様子がおかしい……接続が不安定で……待てよ?」

 携帯式端末のタッチスクリーンを叩き続け何らかの情報を得ようとしていたロシア側の三人目の兵士、ヴァシーリーは画面を見つめながら何かに気づく。

「発見された。見られてるんだ。アグラーヤ隊長、MMICSの自動巡回ボットがきます!」

「ケッ、ボットごときにこのグレゴリ様がやられると思ってんのかよ。返り討ちにしてやるぜ!」

「だまれグレゴリー!」

 なにか考え込むようにしていたアグラーヤが、ナイフを手に打ちつけ高揚していたグレゴリを一喝する。

 端末を投げ捨て足で踏み潰したヴァシーリーが、アグラーヤの次の指示を冷静な目で見て待つ。

 アグラーヤはしばらくうつむき黙り込んでいたが、なにか決心したようにゆっくりと顔を上げた。

「第二拠点に移動する。グレゴリー、脱出路を確保しろ、ヴァシーリーはその男の処分を急げ。荷物はそのままだ」

 すぐにでも戦闘が始まりそうな予感を漂わせて、アグラーヤは次々と部下達に指示を送った。

 アグラーヤの指示は的確で素早い。それを見て巨漢のグレゴリもゆっくりとうなずき、あらかじめ決められていたであろう出口側へゆっくり歩いて行った。

 細身のヴァシーリーも言われたとおり動くためゆっくりと宗志の近くまで寄ってくる。

 そして、痛みをこらえる宗志の耳元にゆっくりと口を近づけた。

「なあ兄弟、男同士だから正直になろう。正直、ボクは君を殺したくない。キミだって訳もなく殺されたくないだろう? ウィルスのアクティベートキーのありかを正直に言ってくれれば、この場から逃がしてあげられるんだ。どうだい?」

「ハァッ、ハァッ、あなたがなんて言ったって、分からない物は分からないよ」

「ヒントだけでもいいんだよ。なんてったって、このままじゃ世界が滅ぼされるかもしれないんだからね。キミを好いているMMICS、インテンデンツにね」

 ヴァシーリーは小声でそう言い、宗志の目に向かって小さくウィンクする。だがその小声すらも、アグラーヤの耳に入っていたようだった。

「余計なことはするなヴァシーリー。その男を直ちに尋問し、答えなければ処分しろ」

「……了解、アグラーヤ隊長」

 緊張感ただよう暗い庫内で、ヴァシーリーは静かに答えた。

 耳を澄ませば遠くからかすかに音もする。宗志には、肩からあふれ出る血と脈の音に合わせて、どくんどくんと強い痛みが耳の奥に響くだけだ。

 皆が外を警戒する中、ウィザーズの元隊員、返り血を浴びたように靴を赤く汚しスナイパー銃をかつぐ川端理香だけが違う方を見ていた。

「処分? 殺さずに苦しめるだけの約束よ」

「状況が変わったのよ脳筋。今は彼の生き死にに気をかけている余裕はない」

「わたくしを、騙したのかしら?」

 理香は大口径スナイパーライフルを腰だめの姿勢で、ヴァシーリーを貫く形でアグラーヤに向けた。

「約束が違うわ」

「逃がすための条件が変わっただけだ。彼がキーのありかを話し、我々がキーを手に入れられればその男を生かして帰す。違ったか?」

 背中越しにアグラーヤは、余裕と言った様子で理香に答えた。

 ヴァシーリーは緊張した顔で理香を見つめ、ゆっくりと護身用の拳銃を理香に向ける。やや離れた場所で天窓とその外を見ている大男のグレゴリも振り返って鉈をしまうと、ショットガンを構えて理香に向けた。

 ヴァシーリーとグレゴリがそれぞれ理香に銃を向け、理香は長身の白人の女アグラーヤに銃を向けて構える。

 暗がりの中。アグラーヤは軽く笑みを浮かべて理香を振り返り、右手のひらからはみ出る勢いのハンドガン……新型の大口径自動拳銃を理香に向けた。

「だが、おまえ一人だけ残してこの男を殺しても、残されたオマエが寂しかろう。せめてもの手向けだ、オマエも一緒に楽にしてやろう」

「このアマっ!」

 理香とアグラーヤは一歩も引かず、銃口を向け合って互いに相手を撃ち殺す構えを見せた。

 二人が同時に銃を撃てば、二人はともに即死する。その状況を巨漢でもありアグラーヤの部下のグレゴリは半笑いで見守り、もう片方の部下ヴァシーリーは呆れながらも一歩引いて観察している。そのうちに、状況が再び変わったらしい。ヴァシーリーがふと脇にある暗がりを見つめた。

「しっ!! 誰かいる!」

「ああん? もうボットがきたのか?」

 大きな図体のグレゴリがショットガンを暗がりに向け、ところ構わずといった様子で一発発砲する。銃弾は暗がりの中の何かに当たり、跳ね返って黄色い火花を散らして消えた。

「……」

 暗がりに発砲と跳弾の響く音がひろがり、ややあって庫内はふたたび静寂が広がる。

「……銃は、あなたが先に下ろせばよくて?」

「はン、狂犬の言うことは信用できなくてね」

 理香とアグラーヤはまだ互いに銃を向け合って構えている。だが宗志にも、何かがどこかにいる気配が感じられた。

 たしかに誰かいる。暗がりに目が慣れているせいなのか、それとも死の淵に居続けるうちに殺気と気配に敏感になっただけなのか。

 宗志は痛い肩を半身でかばいつつ、見えない暗がりの中を凝視した。

「っ……」

 たしかに誰かの息づかいが聞こえる。

 即座にグレゴリがショットガンを撃ち、息づかいと気配のあった場所にスラッグ弾を放った。

 二連。三連と気配のする方向へとショットガンは撃たれ、板金やコンテナのフタ、雑多なゴミを打ち抜く軽い跳弾の音だけがこだまする。

 余裕だったはずのグレゴリは、しだいに感情の高ぶった様子で罵倒の言葉を吐き始める。

 最後に数発ショットガンが撃たれると、弾切れを起こしたシェル補充のためにふたたび静かな時間が訪れた。

「キミは……」

「ボクだ」

 暗がりの中から、誰かが顔を覗かせる。一段高い場所から姿を覗かせた背の低い人物は、紛れもなく午前中に見たあの謎のピエロだった。

「……誰?」

 ヴァシーリーがあっけにとられた顔をしたが、すぐに構えていた拳銃を上に向けて撃つ。ピエロはもちろん弾をよけたが、避けがけに四角い妙なものを展開させて闇の中に消えた。

 ヴァシーリーはしばらく闇雲に拳銃を撃ち続けたが、効果がないと知るとすぐに発砲をやめた。

 代わりに左手を宙にかざし、何かを呼び出すような仕草をする。すると、青白い光に包まれて新しい携帯型端末を取り出した。

「!」

 宗志は目を見張った。まるでゲーム空間の中でよくある召喚魔法とか、何かを突然呼び出すような仕草その物だったからだ。

 すぐ近くでショットガンシェルの補充を終えたグレゴリが、暗闇に向かって制圧射撃を再開する。ヴァシーリーは端末を起動し青く輝く画面を見ながら何かを調べだした。

「なんだい、調べ物をするのがそんなに珍しいのかい?」

「……もう何もおどろかないよ」

「ふん」

 ヴァシーリーは余裕そうな表情で笑い、端末の画面をたたく。

「グレゴリ、あの四角いのを撃ってみてくれ」

 言われたとおりにグレゴリが四角い空間を撃つと、跳弾はおろか貫通した手応えもなく弾が空間に吸い取られる。

 ショットガンの弾が着弾したエフェクトは表示されるのだがその気配が一切ないのだ。

「やっぱり、あれはバグだ」

 ヴァシーリーが叫び、グレゴリはショットガンを撃つのをやめる。

 理香とアグラーヤはまだ互いに銃を向け合って硬直していたが、状況がさらに急変しだしたことに対しアグラーヤは少しずつ焦りを感じ始めているようだった。

 もちろん、理香の方にも緊張している兆しは見える。だが、両者は一歩も引かず互いの頭を銃口で狙い続けていた。

 それしかできなかった。動けば殺されるからだ。

 四角い謎の空間はその場にとどまり、周りとは明らかに違う淡いピンク色で固まっていた。

 即、また別の方向で誰かの気配がする。グレゴリが振り返りショットガンを撃つ。

 バグの空間がはなたれ、ショットガンの弾を無音で吸収する。

 またどこかで音がする。グレゴリが撃つ。ポリゴンが放たれる。合わせてヴァシーリーが先読みで拳銃を撃つ。撃つとまたバグが放たれる。

 なにかの異変に気づいたヴァシーリーは、怪訝な顔をしながら銃口を横に向け一発だけ銃を撃つ。

 しばらくすると、カーンという跳弾の音に合わせて黄色い火花が見えた。

「おかしい。こいつ、MMICSのボットじゃないぞ」

「なぜそう言える?」

 グレゴリは忌々しそうに口元を歪ませショットガンをスライドさせる。ヴァシーリーも拳銃のマガジンを素早く交換すると、グレゴリの背中を守るように自分の居場所を変えた。

「バグを意図的に使う奴なんて聞いたことがない」

「どこでだ? おまえがよく使ってるライムチャットでか?」

 ヴァシーリーとグレゴリはたがいに背中を合わせ、周囲の闇の中を必死の目でにらみ付けていく。

「MMICSが創ったこの世界で、だよ」

「オレにも分かるように言え、クソヤロウ」

「MMICSが独自に創った仮想世界で、わざわざバグを使うなんて侵入者のオレ達でもやらないだろう?」

 ふたたび物音がして、ヴァシーリーは即座に拳銃を発砲した。

 物音が移動するたびに先読みで発砲する先を変えるが、闇を走る何者かに銃弾が届く前に、バグ空間が広がって銃弾を無音で吸収する。

 グレゴリもショットガンを撃つがそれもバグに吸収される。

 たしかに誰かがいる。誰かがいるが、尋常ではない動きだった。

 宗志には彼らと彼らと敵対する何者かの戦いを、ただじっと見ることしかできなかった。

「クソ! なんなんだこいつ!」

「バグらだけじゃねェか!!!」

「MMICSですらない、ボットでもない! なんなんだコイツ!!」

「そう、ボクは何なのだろう」

 ヴァシーリーのすぐ横に現れたピエロのアバターが、ヴァシーリーの体にかるく腕を突き刺す。

 とつぜん近くに人が現れたヴァシーリーは驚きの表情で銃を構え直しピエロに向けたが、その動きはピエロが腕を貫通させた瞬間に止まって、動かなくなった。

「もろいものだね」

 グレゴリがショットガンを構えてピエロに向ける。だがショットガンは発砲せず、グレゴリの体にピエロが触れたその瞬間をもって動作は停止した。

 グレゴリのアバターは止まった。ヴァシーリーのアバターも止まった。ピエロは笑顔のまま、停止した二つのアバターを見比べる。

「異常な値を入力したら、普通は止まるよね。でもなぜボクは動けるの? キミはボクに何をしたの。自我も持たない、ウィルスでしかなかったこのボクに」

 ウィルス、の言葉にアグラーヤが反応した。自身が殺されるかもしれない状態であっても、彼女の動きには迷いがなかった。大口径ハンドガンを、ウィルスと名乗るピエロに向けて至近距離からの発砲を試みる。

 理香の方も動いた。スナイパーライフルを構え直しながら飛び退き、アグラーヤを挟んでピエロの頭に狙いを定めた。

 まずアグラーヤが銃を撃つ。口径の大きさは前大戦で使われていた航空機の主武装と同じものを、バレルの長さはその半分以下で、威力と反動を人間が撃ってもぎりぎり耐えられる程度にはそぎ落とし使う代物を。それを、毎分九百発は撃てる怪物クラスの拳銃を。

 彼女は両手で撃った。バグ使いの謎のピエロに。

 次いで川端理香もスナイパーライフルを撃つ。アグラーヤが撃ち漏らしたピエロの先をピンポイントで狙う高度な技だ。

 ピエロは相変わらずバグポリゴンを放ち銃弾を吸収していくが、バグとバグの間にある数ドットしかない隙間をアグラーヤと理香は正確に撃ち抜いた。

 立ち姿勢で大口径銃を撃つアグラーヤの足は、まるで地面に根が張ったように動かなかった。そこへバグ使いのピエロが駆け足で詰め寄ると、理香がまるで狙っていたかのようにピエロの胴を狙って狙撃する。狙撃のタイミングでピエロの足が止まると、ふっとアグラーヤは身をひるがえして距離をとりふたたびピエロを大口径拳銃で撃ち抜く。

 狩る獲物を変えようとピエロが理香を狙うと、今度はアグラーヤがピエロの背中に狙いを定めて連射する。

 予想外の連携技に手こずりだした謎のピエロは、しばらく暗い倉庫の中を月明かりに照らし出されながら走り続けた。

 逃げるピエロを、理香とアグラーヤは的確に追い詰める。しかし、次にピエロがとった行動は予想外かつ、妥当すぎる当たり前のことだった。

「やあ、また会ったね加藤宗志クン」

 暗闇に隠れていたピエロが突然、宗志の近くに飛び降りてきた。

 宗志の腕を縛り上げていた鉄の鎖が自然に解ける。ピエロが鎖を切り落とし、無理矢理宗志の腕を引き上げた。

 激痛が宗志の脳に悲鳴を上げさせようとした。だが宗志はもう声すら出ない。肩の銃撃から今まで、体力は限界に近づいていた。

「キミもっ、そういう人……だったんだね」

「そうかい? たぶん勘違いだと思うよ」

 ピエロは笑顔のまま固まって動かない表情で宗志の目をのぞき込み、そのままぐるりと腕をまわして理香やアグラーヤの方へと向けた。

「遊びは終わりにしようよ。キミたちがボクを撃てば、ボクはその弾を彼に当てる。彼に弾が当たれば、彼は死ぬ。意味は分かるね?」

 唐突に出されるピエロの言葉に、ライフルを構える理香がわずかに目を見開いた。

 だがアグラーヤの方は動じない。

「ふ、ふふ。黒騎士気取りのピエロめ。その程度の恫喝に我々は屈しない」

「彼が死ねばキミの任務は達成できない。キミが任務に失敗すれば、その責任をとってキミの開発者は左遷されるか、死刑になる。それでも?」

「何か勘違いしているようね。わたしの任務は狂ったMMICS、インテンデンツの暴走を阻止しデータを持ち帰ることだけ。その男の生死は問われていない!」

「彼はインテンデンツを止めるウィルスのアクティベートキーを、まだ持っている。それでも彼を殺すつもり?」

 キーを持っているという言葉に、アグラーヤも動きを止めた。

「なんだと? いや、その男の検査はすでに終わらせている。その男は何も持っていない」

「そうだね。彼は何も持っていない。彼はアクティベートキーを、自分の中に隠したんだから」

「ウィルスの分際で、でたらめを!!」

 ウィルス? なんのことだ?

 宗志は鎖で縛り上げられた腕を前に下げ、首に巻きつかれた二の腕ごと後ろを振り返った。

 そこには今朝見たピエロがいる。ピエロの素顔は分からない。闇の中だから、その顔が見えないのと同時にその顔がけばけばしい装飾で埋もれているからだ。

 表情も見えない。つねに笑顔のまま凍り付いて動かないような、仮面のような表情だ。

 ピエロは振り返った宗志に顔を向けた。そして、口元を動かさないままゆっくりとしゃべる。

「そう。ボクは、キミに捨てられたウィルスだ。インテンデンツにキミが飲み込まれる寸前にキミが切り離して捨てた、MMICS端末とその中身のウィルスデータだよ」

 MMICS端末? 切り離して捨てた? なんのことだ? そう思った瞬間に、今朝見た謎の夢がフラッシュバックする。

 暗い部屋の中で、自分はたしかに何かを誰かに渡されて、それを自分の端末のソケット口に入れた。

 中身はプログラムだった。MMICS、インテンデンツを止めるためのウィルスプログラムだと説明されたそれを、自分は受け取って自分の中に取り込んだのだ。

「思い出したかい?」

「ち、ちがう!」

「もうごまかすこともないよ。キミは加藤宗志だし、キミはウィザーズの一員で、インテンデンツの夢の世界を止めるためにやってきたエージェントだ。だけどキミはインテンデンツの停止に失敗し、人格を彼女に飲み込まれた。でもその直前に、キミはボクを切り離したんだ。ボクというウィルスプログラムと、キミの持つアクティベートキーを別にしてね」

「そんなの知らない!!!」

「今さらとぼけるなよ、ボク」

 痛む肩をかばいながら宗志は懸命に肩を振りピエロの腕から逃れようともがいた。だがもがく中で、宗志はピエロの言葉にはっとする。

「ねえボク、そろそろ逃げるのは終わりにしようよ」

「ボク?」

「そうさ。キミの名前は加藤宗志なんだろう?」

 ピエロは宗志の耳元に口を近づけ、話しかける。しゃべれば吐息が感じるくらいの距離だ。

「キミの名前はサージェントカトウソウジ。認識番号はSEF92-71309、ウィザーズ機械化電脳歩兵の指揮官……」

 ピエロは宗志の体を、力を入れてぐっと引き寄せた。

「そして、ボクはキミの中に入ったウィルス。キミたちが作った、世界を守る悪意のプログラム。キミがキミを守るためにボクを投げ捨ててから、ボクはずっとキミを探していたんだ」

 ピエロの男が宗志に顔を寄せ、視線をアグラーヤ達から一瞬離す。その隙に、理香がスナイパーライフルをピエロめがけて立て続けに撃ち込んだ。

 撃たれた弾丸は宗志の顔の近くをかすめ飛び、宗志をつかんで離さないピエロ男の頭を撃ち抜く。だが、ピエロは倒れなかった。

 ピエロの化粧は衝撃で吹き飛んだが、その下から覗いた顔には、顔がなかった。

「その姿ってッ!! 嘘でしょ?!」

 顔ではなく覆面。それも、宗志が夢の中で見ていた夢の中の自分自身の姿だった。

「嘘じゃないよ。これがボク、そしてキミの姿さ」

 弾丸を弾き飛ばしたバイザー付きヘルメットで、男は宗志の顔を振り返る。そしていつの間にか背中につけていた、超大型のブースターを発火させ勢いよく前に走り出す。

 今度はアグラーヤが発砲した。

 だがピエロの男はそれも避けずに、なお前進する。弾は男の肩に直撃し、大きな音を立てて弾かれた。

「クッ! この男ッ!!」

 連続してアグラーヤが発砲するがもう間に合わない。勢いよく前に走り始めたピエロ男はアグラーヤのすぐ前に迫り、肉薄して片腕を広げる。

 その腕を、アグラーヤはすんでの所で避けた。

 避けるタイミングがあまりにもぎりぎりだったので、アグラーヤの金色の髪の先端が宗志の鼻先をかする。香水のにおいのようなものを感じたがそれどころではなかった。

「ひ!?」

「ソウジ隊長!?」

 高速で暗闇を走り出す……ジャンプスーツのブースターを使って、倉庫内を滑空しはじめるピエロだった男、かつて夢の中では宗志だったもう一人の男、MMICSを駆り、インテンデンツを食い止め世界を救うための覚悟を決めたと言っていたもう一人の宗志が、二人の少女を闇の中で追いかける狩人となって彼女たちを追い詰める。

「隊長!!!」

 地獄の時間の始まりだった。川端理香がスナイパーライフルを撃ちその火線の隙間をフォローするように、アグラーヤの銃弾が宗志たちの機動の先を埋め尽くして激しく撃ち抜く。

 だがもう一人の宗志は、空間を埋め尽くす銃弾をすべて避けきり迷うことなく二人の方へと視線を向けた。

 少女たちにはもう一瞬の猶予も残されていなかった。だが、二人はまだお互いが敵対関係であるのを気にして、たがいに相手の出方をうかがうためかちらと横を見る。

 その隙をついて、男は少女の片方に狙いを定めた。

「クッ!」

「遅いよ!」

 男は叫んで、理香の方に突っ込む。建物内での接近戦では、ライフルはほとんど役に立たない。男は横に腕を開き、すれ違いざまに理香の首を切り落とそうと手刀を展開する。それで人間の首をたたき落とせるのかと宗志は思ったが、思って見ているうちに男の手は、人間の素肌ではなく何かのバトルスーツを着ていることに気がついた。

 黒い強化スーツと小手。ボディアーマー。背中のブースターは、スーツと一体化した飛翔用のもの。今朝見た少女達のつけていたボディアーマーとほぼ同タイプのものだ。

 太い腕に首をくくられるように抱えられ、宗志は飛びすぎる世界の中で男を見る。それは、夢の中で宗志が着ていたバトルスーツそのものだった。

 距離を詰められた理香は急いでライフルを構え、決死の抵抗からかその場で男を射殺する体制をとった。だが、その準備すらままならないほどの急接近である。

 少女はライフルで撃つのを諦め、横に構えて男の斬撃を受け流す構えをとった。

 男はブースターを開ききり、勢いよく理香に飛びかかる。獣が、獲物を捕らえ一撃で仕留める構え。男は腕を大きく振りかぶった。

「遊びは終わりだ、理香!!」

「終わらせない!!」

 そのとき横からアグラーヤが飛び出し、理香を突き飛ばしながら男に向けて発砲した。

 至近距離からの発砲で、飛び出た12.7ミリ弾が男の肩に直撃する。

 衝撃でアグラーヤは吹き飛んだが、男も振り下ろす腕をもろにはじかれ吹き飛んだ。

 宗志には、視界がぐるぐる回るだけで状況がつかめない。だが視点が定まり上を振り返ると、男は自分の肩をぱっぱっと手のひらで払い少女二人を見つめていた。

「ふふふ、やるねえ」

 そのとき、倉庫の一画で爆発が起こる。

 庫内にこもっていた重い空気が一瞬にして弾き飛び、爆音と轟音、倉庫にたまった糸くずやほこりに火がつき燃え始める特有の臭さが空間上に一気に広がった。

 首を脇に挟まれ身動きができない宗志には、何が起こったのかが分からない。

 男の顔は仮面に隠れていた。その表情は、陰に隠れていてよく見えない。

 崩落した倉庫の屋根が周囲に落ち、埃と火の粉が舞う中に夜空が見えた。


 雨が降っていたと思う。


 それは記憶の中のそれとまったく同じで、その冷たさは夢の中で感じたそれそのもの。

 宗志の頬にぽつぽつと雨粒が触れ、少しずつその雨脚は強くなっていく。

「私のォ! 私の、私だけの宗志様はどこ!!!!!!!」

 雨に濡れた大量の黒塗りたちが、壁を破壊し、コンテナを吹き飛ばし倉庫の外界から割り込んでくる。声には聞き覚えがあった。だがその声は、この世にあらざる者のような恐ろしさを感じた。なぜそう思ったのかは分からない。ただ、これは人の声ではないように感じた。もしかしたら声ではなかったのかもしれない。彼女の言葉は、すでに人の発する「声」ですらなかった。

 節子の姿が遠目に見える。黒塗りの男女達の集団に囲まれて、彼女だけが目立っていた。

 振り返れば、男は表情の見えない顔のまま節子を見ている。彼の表情は見えないが、彼女を見て笑っているようにも見えた。

「この男は渡さないよ! 彼はボクのものだ!」

 バイザーの先からしずくを垂らし、男は宗志の首を強い力で抱え込む。

「その男は私のものだ!」

 アグラーヤがゆっくりと立ち上がり、男に向かって銃を突きつける。その隣ではライフルを杖代わりにした川端理香が、宗志を逃すまいと無言で立ち上がり手をかざす。

「隊長……すい、ません。まさかこんなことになるなんて」

「ぼ、ボクは」

 宗志が言葉を言いかけたとき、男が宗志の口を腕でむりやり塞ぐ。腕にはウィザーズ隊の愛用するタクティカルアームパッドと部隊章が刻まれ、それらが宗志の記憶をさらに呼び起こさせる。

 宗志は彼を、彼は自分自身の抜け殻だと確信した。

「さあ、このまま突き抜けるよ。世界の果てまで!!」

「あらぁ! そこにいたのね! 私の大切な人!!」

 節子が腕をかざし宗志に突きつける。そのとたん、黒い男や女たちが宗志たちに向かって駆けだした。

 宗志を抱える名前のないウィルスは、迫る黒塗りたちに向かって猛然とダッシュを始める。開かれる背中のブースターが勢いよく輝きを増していき、輝きが増すにつれて宗志の皮膚に熱量が伝わってくる。相対的に、脇に抱えられ身動きのとれない格好の宗志は男の加速を体全体で感じた。

 目が回るような展開と男の跳躍、いっしゅんにして上下左右が反転し、節子や理香、アグラーヤ、崩れる建物や炎上している町並み、暗い影、暗い世界、高速で頬に当たる雨粒が宗志の意識を削いでいく。

 それでも意地にかけて目を見開き、今目の前で起こっていることをつぶさに目にしようと宗志は踏ん張った。

 男がブースター出力に任せて上下に跳ねると、過重な運動エネルギーが岩塊のように宗志の首の骨にのしかかってくる。

 左右に跳ねれば、腕が折れるかと思うくらいの衝撃が。視界が暗くなり、あるいは赤くなり、逆流した食べ物が喉のすぐそこまで迫ってきて宗志に嘔吐を促す。だが宗志は、すべてを飲み込み歯を食いしばった。

 視界のすみに節子が写り、手を伸ばして宗志をつかもうとする。宗志は彼女の指先に手を伸ばした。だがそれも、はずれ。次に理香が手を伸ばす。それもはずれ。すべてが宗志の指先に触れては、どこかにいってしまい、または黒い群像たちが宗志をつかもうとめいめいに手を伸ばす。

 視界が暗くなり、わけがわからなくなる。目の前にいる誰かの手をつかもうとして腕を伸ばすが、それらはすべて目の前で通り過ぎていき、指先が触れることすらかなわない。

 男は高速機動で彼らの隙間を縫うように通り抜けていく。雨粒が走る。すべてはもう遙かかなた。

「隊長!!」

「宗志様!」

「クソが!!」

 三人が叫び宗志を追いかける。いつの間にか、動きを止められていたアグラーヤの部下達も動き出し宗志を追いかけ始める。

 皆が宗志を追いかける。男は止まらない。宗志は男に掴まれたまま、彼らからはるか先に進み続けた。

「どう? 久しぶりのキミ自身の動き方」

「なにが、どうなのさ」

 無理な動きや素早すぎる上下移動の連続で、宗志は疲れ切った顔で男を振り返った。

「ボクは、キミが考えているような人じゃないんだ」

「そうかい? じゃあもうちょっと思い出してみようか」

 バイザーをかぶった男はそう言うと、宗志をつかんで急上昇を始めた。

「ヴ……ッ!!!!!?????」

 男と共に空を舞い、超高高度まで一気に上昇する。宗志は体温が急低下していくのを感じた。頭がクラクラとしはじめ、鼻から血が噴き出し足先が痛いほど熱くなる。

 だが男は上昇をやめない。街ははるかかなた。

 宗志はくらくらする頭で、まだ彼女たちのいた場所を捉えていた。

「まだだ! キミがキミ自身を思い出すまで、ボクは飛ぶのをやめない!」

「なぜ……なぜ」

「なんだい?」

「キミは……いったい、なにを」

 宗志は墜ちる寸前の意識で、男に問いかけた。

 男はさもくだらないといった様子で首を左右にかたむける。

「分からないのかい? ボクはキミだ。キミのMMICS端末そのものだ。キミはキミを守るためにボクを捨てた。けどボクはね」

 男の急上昇が終わり、宗志と男はゆっくりと空を飛び始める。

 眼下にはあの街。とても大きな、普通の街だと思っていた街は、街の格好をした、臨界層が霧でとても曖昧になった、小さな島だった。

「ボクはね、ボクを捨てたキミと一つに戻りたいんだ。ボクはキミ自身だ。ボクはキミになる」

 男はそういい、宗志の肢体を強くつかんで引き込んだ。

「ボクはキミを、ハックしたい。そうすればキミは、永遠にこの平和な日常世界にいられる。その方がいいだろう?」

 そこまで言われて、宗志は自分が何か忘れているのを思い出した。

「だめだ。ボクには、助けなきゃいけない人が、いるんだ……」

「いるのかい、そんな人」

「いるよ。きっと、この、どこかに……」

 そう言って、宗志は眼下に望む街のすべてを見下ろした。

 燃える倉庫街。宗志を探す群衆。節子と街の人々や、彼女たちと銃撃戦をして逃げているロシアのアグラーヤ達。彼女らを出し抜き裏手へ回る理香。それから、救急車やパトカーに追いかけられている例のあの二人、萌と美月。

 皆が皆、宗志を探している。でも宗志が探している彼女はいない。

「きっと、いるんだよ。このどこかに」

「いないよ。彼女はもう取り込まれてしまったんだから」

 男がそう言い、街をもっとよく見れるようにと宗志の髪をつかんで引き上げた。

 痛いと思ったが、もうろうとする意識の中で宗志は別のことを思う。

 今は、何時なんだろう。

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わたしウィルスなんですけどハッキングしていいですか? いいですよね? 名無しの群衆の一人 @qb001

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