桜【6】・舞衣【4】

 吐瀉物と血で汚れた身体と、涙をシャワーで流す音を聞きながら部屋の吐瀉物を掃除していると、桜への申し訳なさがぷくりぷくりと湧き上がってくるのが分かるのだが、今はそれよりも不安と恐怖が俺を支配していて、桜の身体と精神への心配にまで気が回らない。


 いや、気を回そうとはしているのだがそれよりも舞衣の存在に怯えていて、俺は舞衣が本当は生きていて俺の事を恨んでいて俺への復讐を企てているのではないかというありえない考えをしてしまう程には追い込まれている。


 そんな事はありえない。


 そういって否定することは容易い。


 しかし本当に否定していいのだろうか。


 もうなにが本当でなにが嘘であるかが俺には分からないし、本当と嘘に境界があるのかさえ疑わしく思う。

 そしてそれは、桜が舞衣に見えた事にも同様で、桜と舞衣に境界があるのかさえ俺は疑わしく思い始めている。


 桜は病院に行く事を拒否した。そして、俺に病院に行く事を推奨した。

 結子に続いて桜まで。


 俺はもう頭がおかしくなっているのかもしれない。いや、既におかしいのだろう。


 シャワーの音が止まる。


 少し間があって扉の開く音がして、ぺったぺったと湿り気を帯びた足でフローリングを歩く音が俺の背後で止まる。


 俺は振り返る。

 桜――舞衣――が一糸纏わぬ姿で立っていた。


 少し腫れた頬のせいで表情が読み取りにくいが、どことなく恍惚とした表情のように伺える。


「さーちゃん」「色々責任とってね」間髪入れずに言う。


 言いながら身体をゆうるりと倒し上にのしかかってくる。


「大丈夫? やっぱり病院に行った方が」「病院に行くのは友君の方だって」温度を感じない声で言うと力任せに俺を仰向けにする。


 されるがまま仰向けにされて完全に上へ乗られる。


 桜――舞衣――が神の舌で俺の首筋を舐めながら手を動かしてベルトを外す。

 その手つきに無駄な動きはない。


「こんな時にしなくても」「こんな時だから」突然ほとんど怒鳴るように言う桜。


「こんな時だから」桜は続ける。


「しないと好きが分からなくなっちゃう」


 そういう彼女の目からは涙なんて流れていなくて、そこにはただあの日の舞衣と同じ嬉しそうにも悲しそうにもただの無表情にも見える能面のような顔でこちらを見下ろす女がいた。


 好きを確認する為の、慈しみを具象化させる為のセックスを今からする。

 前にもこんなセックスを舞衣としたように思う。


 いや、あれは舞衣だっただろうか?


 そして、これは桜なのだろうか?


 俺の体を這う舌の動きを鋭敏に感じ取り一つ一つに小さくそれでいて相手がしっかりと理解出来るように反応を返すそれは吐息であったり身体の火照りであったり背中の反りであったり相手に食い込む爪であったりするのだがこの反応の一つ一つはもう条件反射のようなものであって俺は実際に彼女と向き合って彼女とセックスをしている訳ではなくてただこれは行為でしかなくてしかし俺は腰を動かし仕事をこなすのはもう男としてというより雄としての本能だけで動いていてここに好きも愛もあるようにはとても感じないのだが今この場においてはそれを伝える必要なんてないのは分かっているし彼女だってきっとここには行為だけがあるという事実に気付いていながら好きや愛を求めるが故に盲目的に行為に没頭することでそういった真実から目を逸らしてどうにか作り物の好きや愛を手に入れようと躍起になっているのではないかなんて思っているのは俺の勝手な妄想で彼女の意見を聞いた訳ではないので本当のところは分からないのだがもし本当にこの行為の中に好きや愛を見ているというならそれはとても滑稽で惨めなように思うがこれも伝える事はしないしこれを伝える事は舞衣とのあの夜も滑稽で惨めなものだと認識しなければならない気がする。


だが俺は舞衣との事については惨めだとも滑稽だとも思っていないのはあの後に舞衣が死んでしまった事で特別視している節があるのかもしれない。


 という事はこの後に桜が死ねばこのただの行為にも特別性が与えられて一つの意味のあるセックスとしての側面が現れるのではないだろうか。


 今俺は何を思った?


 どれくらいの時間が経ったのかは分からないが無意識の内に行為は終わりを迎えていた。

「気持ちよかった?」

「うん」

「好き?」

「うん」

「責任取ってよね?」

「うん」


 俺は桜――舞衣――に手を伸ばす。


 ――――


「舞衣の話って前に一度したよね? いきなりだけど少し俺の話を聞いてもらっていいかな? 舞衣と俺がセックスした次の日に彼女は電車に飛び込んで死んだんだ。その時俺は舞衣のすぐ近くにいて、彼女の死があまりにも唐突過ぎて、その場に崩れ落ちるようにしゃがみこんでその後気付いた時には俺は家にいた。そこまでの記憶はなかった。その記憶は今でも思い出せない。でも、俺は気付いたんだ。俺は舞衣の事が本当は好きだったんだ。自分の気持ちに蓋をして生きていたんだ。どうしてって? 最愛の人が目の前で死んだ時に何も出来なくてただ死んでいく様を呆然と見ていた自分を許せると思うかい? 許せる訳がない。自分の事が許せない。その事実を受け入れてしまったら普通の人間は、普通っていうのは頭がおかしくないって意味で、そう、普通の人間は最愛の人と同じ道程を辿らずにはいられない。つまり死ぬ事。俺はそれから逃げたんだ。舞衣と一緒に逝く事より生きる道を選んだ。何故かって? 単純に死ぬのが怖かったんだ。ずるいと思うかい? そうだろうね。そう言うと思ったよ。でも生きる事だって大切な事だろう? 違うかな? まあそんな事はどうでもいいか。とりあえず俺は舞衣が飛び込んだあの駅のホームに行くよ。怖いからって逃げてばかりいるのにも飽きてきたもんでね。俺が死ぬかって? 分からない。いや多分死なないだろうね。でも、とりあえず駅のホームに立ってみたら少しは何か感じる事があるかもしれないだろう? あと、心の奥から本当に気持ちを込めて言った事がない好きって言葉を伝えなければいけないと思ってる。これは舞衣に直接伝えないといけないだろう? 舞衣は待っていてくれてるかな? 俺の事を。俺の言葉を。話を聞いてくれてありがとう。それじゃあまた」


 ――――


 ぶうわああんと冷蔵庫のモーター音が聞こえる。

 ベッドには横たわる桜と五十万円。

 俺は部屋を後にした。

 後ろ手に扉を閉める。

 音がなるべくならないように。


 そっと。


 来た時も鍵は閉まっていなかったんだからわざわざ閉める必要もないだろう。

 桜の家を出ると俺は駅に向かって歩き出した。


 道中考えていたのは、なぜ俺は一九七〇年にこの世に生を受けていなかったのかということ、それと猫はジンジャーエールを飲んで美味しいと感じるのかということ。


 明るい茶色の毛並みに夕焼けをいっぱいに浴びて、神々しく光る野良猫がさっと俺の前を通る。

 そしてその神々しさを身に纏ったまま振り返り、舌で毛並みを整えるように舐める。


 それはまるで神の舌の様に思えた。


 ふと前を見るとそこにはコンビニ。

 俺は決心した。


 ジンジャーエールでも買ってみよう。


 一気に五十万円も減って薄くなった財布をジーンズの尻ポケットから取り出して駅ではなくコンビニに足を向ける。


 一九七〇年代だったらコンビニなんてなかっただろうし、咄嗟に猫にジンジャーエールを飲ませようなんて思わなかったかもしれない。


 そう思うと今の時代も悪くはない。


 猫はどんな反応をするだろう?


 時刻は夕方六時半。

 夕焼けが俺の影をこの二十四時間のように長く前に伸ばす。

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猫とジンジャーエール 斉賀 朗数 @mmatatabii

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