結子【4】・桜【5】・舞衣【3】
「さっき、私以外のこと考えてたでしょ。しかも女のこと」
しばらく休んでいると、唐突に桜が言った。
以前聞いたような言い回し。
「まあ間違いではないね。否定はしないよ」
これも以前言ったような言い回し。
「私のことだけ考えてよ。お願い」
耳元でそう囁いてから桜は身体をそっと離して御手洗いに向かった。
俺は相変わらず女の子といる時に他の女の子のことを考えてしまう。
これが何に起因していることなのかは分からないが、なにか原因があるのかもしれないと勘ぐってしまう。
本当にこれは毎回のことなのだから。
窓から差し込む光の勢いが少し弱まった気がする。太陽が雲に隠れたのだろうか。
それは桜のテンションと同期しているかのように感じられた。
いつも元気に振る舞う桜。
神の舌をもつ桜。
でも十九歳なのだ。
まだ成人だってしていない。
時折元気がない時があるのだって普通のことなんだ。
特別な存在だと俺が思っているだけで、本当はそこらへんにいる女の子となんら変わらない普通の女の子なのだ。
俺はこの十九歳の少女に何を求めているのだろうか。
あるいは何を求めていないのだろうか。
実は俺は現実ってやつを一つだけ理解しているのだが、その唯一理解している現実というやつは背を向けたくなるような代物で、実際それに背を向けている人間は少なくなくて、それならばと俺は唯一理解している現実から目を背けている。
ほとんどの現実を理解出来ていなくて唯一知っている現実にも背を向けている俺は、この世に存在していないのかもしれなくて結子にそのことを話してみたことがある。
結子は言った。
「それは自分がこの世にいない存在だって思い込んで、責任とかそういった類のものを軽減させる為の手段にしてるんじゃないのかなって私は思うけど。友君が意識してるのか無意識の内にやってるのかは分からないけど、心のどこかで責任とか負担ってものを恐れているんじゃないかな? それは昔の出来事がトラウマになっていたりするのかもしれないし。昔になにか自分のミスで大事になったこととかない? あまりにも気になるようなら一回病院に行ってみてもいいかもと思うけど。まあ結局のところ、これは友君の問題でどうするのかは友君が決めることだから。最後にこれだけは言っといてあげる。友君は存在してる。だから責任だって負担だって軽減されることは何一つないからね」
じゃあああと水が流れる音がして桜が御手洗いから戻ってきた。
俺は桜に目を向ける。
じっとその姿を見つめる。
「なになに? そんな真剣な目でこっち見ないでよ、なんか緊張するじゃん」
少しおどけるように手をぱたぱたと振りながら言った。
「いやちょっと昨日今日で色々考えちゃって」
実際そうだ。
突然に住むところを手放し、自分の所持する荷物の多くを売り払い、まるで自分をこの世界から隔絶させようとしているのではないかと考えたりもしたのだ。
「さーちゃん、俺ってちゃんとこの世に存在しているのかな?」
桜は不思議そうな顔をしてから、先程見せたおどけた雰囲気を小さな身体に仕舞い込んで、どこか寂しそうな表情をして口を開いた。
「ちゃんと存在してるよ」
こちらに近寄ってきて俺の肩に手をそっと添える。
「今だって手を伸ばしたら友君に触れる感触がしっかり私の手に伝わってくるし、手なんか伸ばさなくても、匂いを嗅いだら友君の匂いっていう感覚がちゃんと私の脳を刺激してるんだから」
そういってぎゅっと強く抱きしめてくる。
桜の言葉を借りるなら、その感覚が脳を刺激する。
「他の人がなんていうかは知らないけど、私の世界に友君はちゃんと存在してるって信じてるよ」
「うん、ありがとう」
満足そうに桜が笑うのを感じ、俺は桜を信じた。
自分を信じるということは、自分を信じてくれる人を信じることにも繋がると思ったからだ。
そして自分を信じてくれる人がいるということを知ると人は幸福になれるのかもしれない。
「さーちゃん、好きだよ」
「またまた。こんな時ばっかり」
俺はまだ好きって感情はよく分かっていないが、今までいってきた好きという言葉の中では一番心のこもった好きがいえたと思ったのに、その好きは軽く流されてしまって、しかも相手は十九歳で、そんな事実が少しおかしくて心の中で笑った。
今まで俺に好きといってくれた女の子たちも、今の俺みたいに感じることがあったのかもしれないと申し訳ない気持ちも生まれたが、それより自分が好きという感情を少しは理解出来たのではないかという充足感の方が大きく申し訳ない感情なんてすぐに消え去った。
気付けば窓から差し込む光の勢いがまた強くなっていて、部屋の中を以前より明るく照らし出している。
その光は桜を、そして桜は俺を、俺は俺の信じる力を、優しく包み込んだ。
「まあ、そういわれて嫌な気はしないけどね」
相手は十九歳だけど、こういったことに年齢とかを持ち込むべきではないのだと、今なら思える。
「友君」
今俺の前には桜がいる。
「私も好きだよ」
そう、それだけで十分じゃないか。
帰る家がなくても、帰る場所はちゃんとここにあるんだから。
そんな気持ちでくつろいでいると、不意に、初めて好きと言ったのはいつのことだったかと些細なことが気になり始めた。
記憶の糸を手繰ってみる。
それは中学生の頃だったかもしれないし、小学生の頃だったかもしれないし、それより昔幼稚園の頃だったかもしれないが、もうその頃のことなんて全く覚えていなくて俺が覚えている限りで好きという言葉を最初に言ったのは高校生の頃で、それは忘れもしないとてつもなく不埒で下品で最低でつまらない理由だった。
周囲の友達たちに彼女が出来始めて、彼らは若さ故に持て余した性欲を彼女という存在に解き放ち己を解放していて、俺はそんな彼らに取り残されるのを恐れ、クラスの中でも恋に恋するタイプの女の子にいきなり告白をした。
「実は前からずっと君が好きだったんだ。付き合ってくれませんか?」
恋に恋する乙女という俺の見立ては概ね的を射ていたようだ。
彼女は一瞬戸惑いを見せたものの、突然舞い込んだ恋への招待状をみすみす手放すことなんてせずに「いいよ」と小さな声で招待に応じた。
俺はすぐこの女の子と事に至った。
お互いに恋というものを理解していなかったので、彼女は俺がお願いすればなんでも受け入れた。
そのお陰でとても容易に彼女を抱くことが出来た。
これで俺は周囲の友達たちに置いていかれることなく同じラインに立った。
そして俺はそれで満足し彼女と別れた。
どう考えても失礼極まりない行動だったが、学生時代の俺は別に心を痛めることも申し訳ないと思う気持ちも起こらず、彼女が泣くのを煩わしく感じるだけの図々しさと無神経さでもって学生時代を終えた。
この時点で俺は好きという言葉は手段であると知った。
付き合う為の手段としての好き。
好きという言葉には相手を妄信させる力がある。
そこで使う好きは表面上、言葉の上だけのもので構わない。
それはある意味で詐欺師よりも、怪しい宗教団体よりも、質が悪いといえるかもしれない。
そういう手段として俺は好きを使っていたが、俺の知り得る限りでは好きにはもう一つの顔があった。
人を殺す好き。
舞衣だってそれで死んだ一人だが、俺がそれを知ったのは舞衣が死んでからだったし、それを知ったところで俺には舞衣を救うことは出来なかったと思う。
これは舞衣の葬式に出た時に聞いた話で、その時俺は舞衣の死という衝撃からまだ立ち直っていなかったので完全に事実かどうかの確認も取っていないし、今更確認を取ろうとも思わないが、舞衣には好きな男がいたらしい。
その相手は舞衣と俺が再会した同窓会にも出席していた男――名前は知らない――のようだった。
舞衣は好きな男の話なんて一度も俺にしなかったし、恋愛が分からないとまでいっていたが、舞衣は舞衣なりに恋をしていたのだ。
舞衣は好きを持っていたのだ。
しかし彼女は恋愛経験の少なさ故にこの好きを理解しきれずにいた。そして膨らみ続ける感情を抑え切れずなくなって、その同窓会にいた男に思いを伝えた。
どのように伝えたのか俺は知らないが、その男は舞衣の好きを拒絶したらしい。
舞衣は弱かった。
そのダムの放水のように勢いをもった好きという感情を舞衣はコントロール出来なくなって、俺のところに来たようだった。
俺の家に来た前日に舞衣は振られていたのだ。
そして舞衣は俺の家に来て俺とセックスをした。
俺への友情の好意を、恋愛の行為と同一視し、混同し、舞衣はもう一つの大切なものも失ってしまい、この世を見限って死んだ。
つまりそういうことだったんだ。
コントロール出来ない感情によって殺された舞衣。
好きに殺された舞衣。
好きは人間を破滅に追い込む力を携えたものである。
世界に生きる多くの人間がそれを知らずに生きている。
今この瞬間にも好きのせいで死んでいく人間がいると俺は考える。
舞衣もその一人で、そしてそれはマイノリティではなくマジョリティで、俺は不謹慎にも舞衣の葬式の最中にそういう風に話を整理して、俺が舞衣の作家生命を断ったことで舞衣が死んだ訳ではなく好きに殺されたという真実を確かめて安心していた。
よくある話なんだ、これは。
人間が行動すると全ての事象に責任というものが生じてしまうのかもしれないが、俺が責任を感じるべきは作家生命を断ったことであって、舞衣の死について責任を感じるべきなのは同窓会に来ていた男なのだ。
舞衣の死は俺の責任だとばかり思っていたがそんなことはなかったんだ。
俺はこそっと笑った。
隣に座っていた会葬者の男が不快そうに俺を見たが気にはしなかった。
どうせ知らない男だ。
もう会うこともない。
そう懐かしい記憶が蘇ってきた。
そんなことを考えていると俺はなぜか隣にいる桜の顔を見るのが怖くなる。
なぜか会葬者の男の顔が思い浮かぶ。
俺は桜を見る。
そこには桜はいなくて、会葬者の男がこちらを見ている。
舞衣の葬式で見たのと同じ不快そうな顔で。
こちらを見ている。
会葬者の男は口を開いた。
「分かってるんだろ? 舞衣はお前が殺したんだよ」
会葬者の男は煙草の脂で黄色くなった歯を見せつけるようににやりと笑ってみせた。
驚いて声も出なかったが、今改めて見ても目の前にいるのは桜だ。
なぜ桜が会葬者の男に見えたのかは理解出来ないが、紛れも無くそこにいたのは桜ではなく会葬者の男だった。その瞬間においては。
俺はおかしくなっているのだろうか?
桜が不思議そうにこちらを見るが俺はどうしてもその姿に先程の会葬者の男の影を見てしまう。いるはずのない者の姿を今そこに存在している者より強く感じることに不快さと不可解さを覚えたがそれを桜に伝えたところでなんの答えも得ることは出来ないであろうし桜にも不自然に思われるだろうし俺は何も行動しないただこの気持ちを胸に閉じ込める。俺は正しい俺はおかしくなってなどいない俺は悪くない俺にはなんの責任もない俺は舞衣を殺してなどいない俺は舞衣の期待に応えただけで殺してなどいない俺は悪くない俺はあの夜の情景を思い出す俺の部屋での情事俺の部屋の緊張の糸が張り詰めたような空気俺は間違えていない俺は間違えたのだろうか俺は舞衣の死のなにかしらに影響を与えたのだろうか俺は舞衣の死に恐怖している俺は逃げる。
俺は逃げる。
舞衣から逃げる。
会葬者の男から逃げる。
責任から逃げる。
死から逃げる。
「ちょっと友君大丈夫?」
桜の声がする。
桜の顔を見る。
しかし、そこに桜はいない。
「私本当は死にたくなかった」
そこにいるのは舞衣だ。
なんでこんなことになったのだろう。
俺は自分を信じることを今日学んだ。そしてその信じた自分が今舞衣を見ている。死んだはずの舞衣を見ている。舞衣がゆっくりと口を開く。何をいっているのか聞き取れない。世界から取り残されるような、世界に置いていかれるような、音が自分から乖離していく耳鳴り特有の違和感。違和感から生じる不安。出所の分からない不安に対する警鐘。何度も打ち鳴らされる警鐘。俺の中のどの部分がこの警鐘を鳴らしているのかすら分からないが俺の中のどこかしらかが何かを感じ取っている。それを感じ取っているのは今までの自分なのだろうか。それとも自分を信じるようになった事で信じられた自分なのだろうか。そこには違いがあるのだろうか。俺という人間は俺に変わりない。それなら俺が感じていた変化というものも一時の俺の中の流れというだけであって俺自身が本当に変化したといえるのだろうか。いくら俺が変わったと思っていても本当は何も変わってなどいないのだろうか。変わるとはなんだ。変化とはなんだ。死。それは変わったといえるかもしれない。舞衣は変わった。変わろうと思っていた舞衣は変わった。それは舞衣の意図する変わり方ではなかったかもしれないが、変わったことに違いはない。しかし舞衣は死にたくなかった。変わることを拒否した。変化を拒否した。変わったと思い込んでいる俺が変わりたくないのに変わってしまった舞衣を見る。舞衣は本当にはここにはいない。俺はおかしくなってしまったのだろうか。いつからおかしくなってしまったのだろうか。どこからおかしくなってしまったのだろうか。舞衣は俺をただじっと見ている。ホームから身体をゆうるりと倒していったあの時も舞衣はこんな風に俺を見ていたのだろうか。
思い返していると突然胃の中に溜まって徐々に消化を進めていた目玉焼きとウインナー、サラダ、トースト、コーヒーが食道を迫り上がってくる。
その勢いは俺のコントロール下を完全に離れてしまっていて食道は目玉焼きとウインナー、サラダ、トースト、コーヒーを上へ上へと運搬し続ける。
意図せず口腔内に広がる吐瀉物。
その胃酸の味を感じる暇もなく俺は床にそれをぶちまけた。
床に広がった吐瀉物の中になぜだろう肉片のようなものが見える。
俺には分かる。
それが舞衣の体の一部であるのが分かる。
舞衣の顔や手や胸や腰や尻や足や内蔵の一部であるのが分かる。
そんなことはありえないのにこれは舞衣の一部であると確信が持てる。
俺は再び胃から込み上げるものを感じる。
また舞衣が出てくる。
舞衣が現れる。
「友哉が私を殺したんだよ」
刹那、俺は前にいる舞衣に殴り掛かった。
「俺じゃない」
殴る。
「俺じゃない」
殴る。
「お前が勝手に死んだんだ」
殴る。
「勝手に」
殴る。
「飛びこんだんだ」
「やめて」
前にいたのは吐瀉物と血で汚れて惨めな姿で涙を流す桜だった。
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