結子【3】・桜【4】・舞衣【2】

 アデルタのボールチェアにでも座っているかのような居心地の良さを桜の部屋で感じるつもりが、呼吸が乱れ心拍数は高くなっている。


 桜が心配そうに俺を見ているのは分かるのだが、桜が俺にかける言葉がなんなのか分からない。


「水」


 苦しくなりながらもなんとか絞り出した言葉で桜が瞬時に動く。

 そうだ、桜は看護学部だった。


 桜はメラミン製のコップに水を注いでやってきた。

 俺はその水を飲み下すと息を整える。


「大丈夫?」


 今はまだ大丈夫とはいえない。とてもじゃないが。

 しかし桜の家で、桜の支配下にある場所で、桜を不安にさせたくはないので無理に呼吸を整えるが、心拍数は依然高いままで、なにより無理矢理呼吸を整えようとした分気持ちは落ち着くどころか悪化の一歩を辿る。


 表情を見られないよう俯き加減にしていると、ラベンダーと柑橘系の香りが混ざったような匂いに包まれる。

 そしてふわりと訪れる柔らかい桜の身体の感触と安心感。包み込む桜の静かな吐息。伝わる鼓動。


 それを身体で受け止めていると次第に落ち着いてきた。


 するとなぜか桜と一体になるイメージが止めどなく脳内に流れ込んできて、それを止めることが出来なくなり、次第に自分の存在を見失う。


 自分は桜の部屋の一部となって今ここに存在していながら、存在の主張をしない無機物となっているのではと勘違いする。

 わざわざ部屋にあるテーブルやソファ、テレビ、ベッド、冷蔵庫の存在を確かめながら生活する人間なんていないだろう。


 だからそれに近づいているということは、人間としては至急考慮し、熟考し、解決すべき問題であるはずなのに、居心地の良さからその事態に目を瞑る。

 そして実際にも目を瞑る。


「どう?」

「うん、悪くない」


 これは本心であり真理だ。


「それならよかった」


 実際に見て確認した訳ではないし、見たところで声のトーンだったり雰囲気の話になるので結局憶測でしかないのだが、その時の桜はなんだか寂しそうに思えた。

 もしかすると目を開ければ桜の表情の変化だったりから、それが事実がどうか確認は出来た可能性もある。

 しかし俺は居心地の良さという甘い蜜に溺れてしまい、その中で溺れ続ける事を選んだ。


 きっと桜は寂しくなんてない。


 このタイミングで桜が寂しく感じる事態なんてなにもあるはずがない。


 そう考え、俺は俺を信じた。


 なにより俺はやっとアデルタのボールチェアを見付けたのだ。

 間単に手放したりするものか。


 ――――


 俺が結子と付き合っていた頃、俺は不安定だった。

 生と性を混同して、行為の中に好意を求めては、結局愛を知らない自分がなんなのか考える毎日。


 そんな時に訪れた舞衣の死は、更に俺の心の安定を奪った。

 俺は不安定では済まなくなりこの世との不調和を起こした。


「結子」俺は言った。

「人はどうして悩むんだと思う?」


 結子はしばらく考えてから言った。


「これは私の意見だから、友君に当てはまるかどうかは分からないんだけど、悩むっていうのは自分自身の中にその悩みに対してのちゃんとした答えがなくて、その答えを探し求める為の行動なんじゃないかな。あるいは自己防衛」


 そういって結子は俺の目を見る。


「自己防衛?」


 俺は不思議に思って尋ねる。


「そう。答えは見つかっているけれど、その答えを認めたくない自分自身を正当化させる為に悩んで、わざと誤った答えをそれらしくでっちあげる行動って考え。これは今友君に悩むっていうのがなにか問われて、悩むって事について考えて、初めて考え付いた答えの一つ。どことなく人間らしくない? なんだかんだいっても人間なんて自分が一番かわいいんだし」


 結子は淡々と言う。


「結子」俺は言った。

「どうして俺と付き合ってるの?」


 結子はきょとんとした顔でこちらを見る。

 そして答えた。


「友君が付き合ってくれっていってきたからじゃない」


 これは果たして答えといえるのだろうか。

 俺は自分の存在と同様に、結子も分からなくなる。


 俺は質問を重ねる。


「俺は舞衣の死をどう解釈すればいいのだろう?」


 もううんざりといわんばかりの顔をしながらも結子は答える。


「人が死ぬのに解釈なんて必要ないと思わない? 死ぬ時はただ死ぬの。それだけ。解釈っていうのは生きている人間が死んだ人間に対して、こう言った理由があったから死んだんだねって無理矢理に型へ押し込んでるだけで、答えなんてないのに自分が死の理由を知って満足するためだけの傲慢な行為だと思うけど。言うなれば死者への冒涜。死には死っていう、何よりもしっかりとして、明快な、現実があるんだから余分な装飾は必要ないの。これでだいたい友君がどうすればいいかはもう分かったでしょ?」


 俺は分からない。

「分かったよ。ありがとう」

 俺は分からない。


 結子の家を後にした俺は、舞衣が死んだ駅のホームに向かった。

 舞衣が死んだ駅の改札口で俺は立ち止まる。


 嫌な汗が背筋を流れる。


 舞衣の声が聞こえる。


「友哉。どうして助けてくれなかったの?」舞衣は喋るのを止めない。


「友哉。どうして助けてくれなかったの?」舞衣は喋るのを止めない。


「友哉。どうして助けてくれなかったの?」舞衣は喋るのを止めない。


「友哉。一緒に死んでくれる?」

 俺は逃げ出した。


 そして振り返る必要なんてないのに、何故か俺は振り返ってしまう。

 しかしそこには何もない。


 そう、何もない。


 俺は静かに目を開ける。

 そこは結子の部屋のベッドの上で隣には結子がいて何事もないように静かに眠っている。俺はただぼんやりと天井を眺めながら、いつからが夢であったのかを考えいつからが現実だったのかを考える。

 そして今が夢かを疑い今が現実かを疑う。今俺が見ている天井の存在も疑っていて当然この部屋の存在も疑う。俺は隣の結子も疑う。自分自身も疑う。疑う先に見える舞衣の存在が今の状況においては一番疑う余地のないものに思えて、俺の頭の中で先程の舞衣の言葉が蘇る。


「一緒に死んでくれる?」


 俺は寝ている結子を激しく揺さぶる。

 結子は身をよじった後に少しだけ目を開けて俺を確認するともう一度目を閉じて嫌そうな声で言う。


「何? まだ朝って訳じゃないでしょ?」


 俺は結子の様子など気にせずに問う。


「結子」俺は言った。

「俺が死んだら、結子は悲しんでくれるかい?」


 結子はなんともない風に言う。


「うん。悲しいよ。でも友君が死んだ悲しみっていうのを、すぐに乗り越えられる気もするかな。私は友君にそこまで依存していないから。それよりも死ぬ覚悟なんてないのに死んだらどうするかなんて質問をしてくる友君の浅はかな考えに私は悲しくなるかな。そんな質問で私との関係に変化なんて起こらないし、友君自身悲しくならない? 悲しいって言うより空しいって言った方が正しいか」


 俺はそんな結子の言い回しが気に入らないので何も答えない。


 そんな俺の様子なんて気にせず、結子はもう一度眠る。

 眠りについた結子の顔をじっくりと眺める。


 閉じた目にかかる睫毛は長く、本数も多い。目は一重ではあるが普段目が小さいという風に思うことはない。それはこの睫毛のお陰だろう。


 俺はその睫毛に触れる。

 睫毛は指に押されて曲がってしまったが、俺の指を離れると、元の位置へとバネの様に勢いよく戻っていく。


 それがなんだか面白くて、俺は何度も繰り返し睫毛に触れる。

 睫毛を何度も触られて不快なのか結子は身をよじる。

 俺はそれが面白くて、また睫毛に触れる。


 さすがに結子も嫌になってきたのか、というか目を瞑ってはいるものの、いつの間にか起きていて、止めて。と俺に言うが、俺はまだ睫毛を触るのを止めない。

 結子はいらいらしているのか指をとんとんとんとんと繰り返しベッドに当て続ける。


 俺はその動きに興奮してしまい、結子の身体に指を這わす。

 結子も最初は面倒くさそうにしていたが、知らず興奮の波が襲ってきたのであろう。結子は自ら快感を欲して身体を心を動かしているように見える。


 そんな中、俺は改めて結子の睫毛に触れてみる。


 先程感じた面白さはもう微塵も感じる事はなかった。


「結子」俺は言った。

「俺たち、付き合ってる意味あるのかな?」


 結子は俺の突然の申し出に目を少し見開いて驚いたような表情をした。


「それって今、言う必要ある?」


 結子は俺の腰の上に乗って自ら動いている最中で、この快楽を妨げる俺の発言を不要に感じているのが手に取るように分かるが、俺は気にせずに言う。


「結子の睫毛にさっき触ってたよね? あれが最初は面白く感じたのに、今は何も感じない。こういう何気ない所作を面白く感じられなくなったらもう終わりだと思うんだ」


 俺の話を俺の腰の上に乗ったまま、腰を動かしながら結子は言う。


「私まだ、気持ちよくなって、ないんだけど」


 俺は目を瞑った。と同時に夢から覚める。


 結子はもう起きていて、ベッドの隣にはいない。俺はベッドから緩慢な動きで起き上がる。


「おはよう」


 結子はそんな俺に気付いたようで、台所から顔を出して言った。


「おはよう」


 俺も返事を返す。


「よく眠れた?」


 さほど興味はなさそうに感じるが結子は会話をしたいのか話を続ける。


 そんな質問を無視するように、俺は俺の考えを言葉にする。


「結子」俺は言った。

「別れてくれないか?」

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