舞衣【1】

 舞衣は小中学校時代のクラスメイトで当時は特別仲がいいということはなくて、お互いのことを認識はしているし、会話もするが、その程度だった。ただのクラスメイトの一人だった。


 しかし同窓会で舞衣と会ったときになぜか小説の話で盛り上がり、そのまま急に仲良くなって二人で飲みに行ったりするようになった。


 舞衣は小説好きが高じて自ら小説を書いていた。それを同人誌即売会で頒布したりもしていた。

 書くジャンルはほとんどが恋愛もの。


 読むジャンルはSFやミステリーばかりなのに、いざ自分が書こうとすると恋愛ものしか書けないと嘆いていたのが懐かしい。


 一度、ミステリーでも書いてみなよ。と提言してみたら、その言葉に後押しされてミステリー小説を一作仕上げてきたことがあった。

 しかしその出来はぞっとするほどつまらないもので、それを伝えると彼女は二度とミステリーは書かないと断言して、その後本当に一作もミステリーを書かなかった。


 ミステリー小説を書かなくなって以来、彼女は自分の気持ちが吹っ切れたのか、恋愛もので良作を何作も書きあげ出版社の人間に目をつけられ、同人作家じゃないいっぱしの作家デビューを果たした。

 それなりに話題になって作品が売れだした時に舞衣は不安を吐露した。


「私、昔から恋愛っていうのが本当は分からないんだよね」


 彼女はこの年にして処女で、作品では恋愛ものを書いているが恋愛経験が少なく、作品にリアリティというものが備わっているのかどうかが不安で、そしてそれが世間に知られた時の反応が怖いということだった。


「経験がなくても知識でカバーできることだってあるんじゃないかな」


「そこでカバー出来るよって言いきれないってことは、実際問題カバーするには至らないってことなんじゃない」


 俺は少しでも舞衣の不安を取り除ければと思ってそう言ったのだが、その言葉は彼女の不安と恐怖を大きくするだけだった。


「友哉はどう思う?」


 舞衣は真剣な目で俺を射抜いた。

 その目からはやはり不安や恐怖が滲み出ているのだが、俺はそこに別の感情も含まれているように感じた。

 しかし俺はそれに気付かない振りをした。


「どうって言われてもね。今舞衣が書いてるそのままで一定数の評価は得られている訳だし、そのままの舞衣が書く表現の仕方で続けていけば良いんじゃないのかな。っていいたいところだけど舞衣が求めているのはそんな答えじゃないんだろうね。きっと」


 そう言うと舞衣は頷いてみせた。

 何もいわずに。


「正直に言うと舞衣の作品はフィクションとしての恋愛の域を出ていないよ。それが悪い訳じゃないし手法として間違っている訳でもないんだけど、当然リアリティはそこにはない。それを求めるのなら知識と言葉だけのはったりだけでは到底不可能だろうね。作家でもない俺が言うのは変かもしれないけど、やっぱりリアリティを求めるなら経験ってファクターも確実に必要になってくるんだと思う。同じ言葉を書いても、知識だけの言葉より知識と経験を併せ持った言葉の方が正しくそこに収まっているように思うんだ。昔から文字の羅列をただただ目で追うのが好きで好きでたまらない俺だからそう思うのかもしれないけれどね。内容というか言葉の意味を理解してそこから感情だったりを汲み取ったりするのはよく分からないけれど、言葉が綺麗に収まっているかどうかは分かってるつもりなんだ。舞衣の作品は言葉が正しく収まっていない。歪な言葉を無理矢理枠にはめ込んだ不自然さが表れてしまっているんだ。まああまり当てにしてほしくはないんだけど。俺の意見なんて聞いたところで読者は減るだけだと、そう思うよ」


 急に俺の腕をつかんで舞衣は言った。


「それでも私はリアリティが欲しい」


 さきほど目から滲み出ていた不安や恐怖と、もう一つ気付かない振りをしていたそれが俺の方に流れてくるのを止めることは出来なかった。


 それはリアリティの追及であり、この場においては恋愛かセックスの二択あるいはそのどちらもであって、俺はどちらかあるいはどちらもを選択する、もしくはそれらの選択を拒んだ場合の想定をしなければならないのだが、今ここではとてもじゃないが最後の選択を希望することは叶わないと肌に伝わる空気の変化で悟った。


 その頃俺は結子と付き合っていて、付き合ってはいたけどそこには何もなくて、そんな状況で俺はリアリティを教えることにしたつもりだったのだけど、実際にリアリティというものを教えられたのは俺の方だったのかもしれない。


 現実というものを知らない俺にとっては、それも分からないのだけれど。


 部屋の電気を消すと真っ暗になるのだが、時折外を走る車やバイクのライトで部屋が明るくなる瞬間があって、それは時間にするとほんの数秒のことなのだけれどその数秒の間だけ目に映る舞衣は先程までの舞衣とは別人のように見えた。

 彼女は能面のように顔にかかる影の濃淡や角度によって、嬉しそうにも悲しそうにも、ただの無表情にも見受けられた。


 部屋の中で時間は進んでいるのか止まっているのか理解できなかった。

 俺は時間という概念は流動的に思う。

 楽しい時間はすぐに過ぎるのに、辛い時間は長く感じるといったようなことで、日々人間は時間という概念に弄ばれている。


 弄ばれた時間は一体どこに消え去っていくのだろう。


 彼女と過ごした時間はとても長く感じそれは永遠のように思われたが終わりというのは必ず訪れるものであると俺は期待した。しかしその時間はいつまでも続き俺は夢現よろしく白昼夢よろしく意識は朦朧とし今というもの自分という存在舞衣という存在神戸という場所人差し指の伸びすぎた爪ベッドの軋む音誰かの心臓の早すぎる鼓動部屋に差し込む車のヘッドライトの光汗の混ざる匂い枕元に置いた今日買った本から漂う微かなインクの匂い脳裏に浮かぶ結子の顔と今前にいる彼女の顔震える携帯口腔内に広がる他者の唾液と自分の唾液が混じった味そしてその匂い冷蔵庫の稼働音世界に蔓延る五感と五官を刺激するもの全てを内包したこの部屋で曖昧模糊とした状態でいる俺はもうなにがなんだか分からなくなっていて現状把握に努めようとしてもこの状態は完全に脳のキャパシティを超えていて俺はしらずしらず眠ってしまう。


 そして夢を見る。


 そこは建築中のビルで、一階にいる俺はどうしてだか知らないが、舞衣が最上階にいるのを知っていてそこに向かう。


 必死に階段を上る登る。


 何階まであるか分からない階段を上る。


 登る。


 上りながら、必死になりながらも、もう駄目だということを俺は知っている。

 しかしなにがもう駄目なのかは知らない。


 何階まで上がったか分からないが、相当の階数を上がったところで舞衣の声がする。


「ありがとう」


 マッチの火のように少ない時間で燃焼しきる姿に似た、小さく消え去る程のボリュームではあるが力強い意志を持った声。


 強い意志が宿っているとはいえ、なぜその小さな声が俺に聞こえるのかは分からない。

 舞衣は俺よりもはるか上の階層にいるはずなのだ。


 すっ。と階段ではなく外の空間――どの階にもまだ壁はない――に目を向ける。


 そこに舞衣はいた。


 空から降ってきて下へ落ちていく舞衣。

 舞い上がる事はないのに、何度も落ちていく舞衣。

 何人の舞衣が地表へ落下していったのか。

 俺はその光景を茫然と眺めていた。


 落下する舞衣が、舞衣ではなく能面のような彼女であることに気付いて、俺は動けなかったのだ。


 彼女は俺に怒っているように思えた。


「ごめん許してくれごめんごめん」


 彼女はいまだ落下を続けている。


「ごめんごめんごめんごめんなさい本当に許してくださいごめんなさい」


 俺は何に謝っているんだろうか。

 俺はどうして彼女に謝っているんだろうか。


「ありがとう」「ありがとう」「ありがとう」「ありがとう」「ありがとう」「ありがとう」「ありがとう」


 落下する彼女は同じ言葉を繰り返す。

 感情とは相反するそのありがとうは、なにを意味しているのだろうか。

 彼女は何度落ちていくのだろうか。

 俺は彼女の落下を食い止めてやるべきなのだろうか。


 不意に手の平に痛みを感じて目が覚めた。


 痛みのせいだろう。寝起き特有の気怠さはなくしっかりと覚醒した状態での目覚めだった。痛みは相変わらず残っているが、思いの外悪い気のするものではなかった。


 俺の上にはまだ舞衣がいて腰は動かしたままで、上半身も倒して俺の上に覆いかぶさっている。その状態で俺の右手の平を噛んで泣いていた。


 舞衣はもう作家には戻れないだろうな。とその姿を見て思う。

 俺は一人の人間を実質殺してしまった。


 作家は文章を紡ぐのが生業で、それを手から生み出すのは、パソコンに文字を打ち込むのであろうと当然手書きで文字を書くのであろうと変わりはない。


 その大切な手を、他人のものであろうと泣きながら噛んでいるその姿は、無意識下であろうとも舞衣自身が手に悪意を持ってしまった証明であり、作家が手に悪意を持ってしまった以上もうそこから本当の文章を紡ぐ事は叶わないだろう。


 きっと舞衣だってその事実に気付いてしまっていて、一層感情的に泣き、一層深く手の平に歯を食い込ませた。

 手の平に食い込む歯の隙間から血が滲んでいるのが分かる。


 まだ五感は研ぎ澄まされていて、腰の辺りに嫌な温かさがあるのも分かる。


「私だけっていうのもなんだか悔しいでしょ」


 俺は舞衣に女としての生命を与えたかもしれないが、代償として作家生命を奪ってしまったのを改めて実感した。


 能面のような彼女はそこにはいなかった。

 快楽を貪る女がただいるばかりで、それは知らない女に思えた。

 実際知らない女がそこにいた。

 血の匂いが部屋の中を闊歩する。


 翌日舞衣は死んだ。


 午前七時二十六分到着の電車。

 ゆうるりと身体をホームから倒していって、接近する列車の前に倒れ込んでいった舞衣。

 ぷうあーんと情けなく響く警笛の後にやってきた電車の車輪にじゅぐりゅるりと巻き込まれる身体が一瞬見えたが、その後電車の影に隠れて見えなくなった。


 俺は当初何が起こったのか理解出来ないでいたつもりだったが本当は思考を遮断していただけで分かっていたのだろう。

 なぜならその場に崩れ落ちるようにしゃがみこんでしまっていたのだから。


 後方から女性の悲鳴。ホーム全体のざわつき。誰かが騒ぐ声。心臓の鼓動。耳鳴り。スマホのカメラで写真を撮る音。どこかに電話をかけるサラリーマン。額に滲む汗。体にまとわりつく感じたことのない嫌な空気。口と鼻から漏れる空気の音。


 電車の下にいる舞衣の気配はない。


 気付くと誰かが俺になにかを話しかけているのだが、その声は耳に入るや否や体内で撹拌され、言葉の意味は薄まり、俺の中のどこにも滞留しない。

 前日に俺が感じた、実質一人の人間を殺してしまったという思いを具現化させたかのような事態。


 気付いた時俺は自分の家にいた。

 途中の記憶はない。


 舞衣が死んだ。

 その事実が俺の部屋の中で唯一の現実として居座っていた。


 前日の夜闊歩していた血の匂いが、舞衣の死を地続きの出来事であると再確認させるかのように鼻腔を刺激する。

 俺の存在は容易く打ち消されて霧散しここにはもうなかった。

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