桜【3】

 俺がインターホンを押すと桜はバタバタと走ってきて玄関を開けた。

 ロールアップしてくるぶしが見えるくらいの丈になったダメージジーンズ。

 赤白ボーダーのバスクシャツ。それはよく見るとオーシバルのものだ。

 さすがは大学生、お金はあまりなくても服にはそれなりにお金をかけている。


 髪の毛は後ろで編み込んでいるようだがそのあたりは詳しくないのでなんと表現したらいいのか難しい。というか男なんてだいたい、髪の毛後ろで結っているな。髪の毛下ろしているな。髪の毛お団子にしているな。くらいでしか見分けていない。

 美容師でもない男でそんなに髪の毛についてどうのこうの詳しく説明できるやつなんて、一握りより少ない人数しかいないと思う。


 そういえば玄関を開ける前に鍵を開ける音がしなかった。女の子の一人暮らしなのに不用心だ。


「友君遅い」


 桜は不満そうな声色を作ってはいるけれど表情は笑ったままなのでそこまで怒っている訳ではないのだろう。

「ごめんごめん。はい、お土産」

 俺は道中コンビニで買ったシュークリームとアイスを差し出した。


「わーい、早くあがってあがって」


 桜に促されるままさっと靴を脱いで家にあがる。玄関の鍵は後ろ手でさっと閉めた。


「そういえば、鍵。鍵閉めてなかったよね? 女の子の一人暮らしなんだから用心した方がいいんじゃない?」

「あー、また忘れてた。ついつい」

「気を付けてね。最近物騒だし」

「友君が守ってくれるから大丈夫」


「そんな責任俺にはないよ」


「優しくない。全然優しくない」


 そういいながら俺の手のビニール袋を奪い取って、アイスを冷凍庫に、シュークリームは包装をちぎってすぐに噛り付いた。


 シュークリームは逆さまにして食べると中のクリームがこぼれないと誰かがいっていた気がする。当然桜は逆さまにすることなくそのまま噛り付いたので、クリームが少し溢れそうになった。


 それを舌で舐めとっているさまはどこか煽動的で見惚れてしまう。


 俺は桜の舌の動きがどうしようもなく好きで、もうそれがなくては生きていけないかもしれないとまで思っている。

 この舌の動きを見ると本当にそういう風に感じてしまうのだ。


 桜の舌。


 神の舌。


「どうしたの?」


 桜はそんな俺を不思議そうに眺めている。


「いや、ちょっと見惚れてたというより見蕩れてた」

「そんなに意味変わんないじゃん」


 ベッドに座って笑いながら手で俺を招いているので隣に腰を下ろした。


「それで、私のどこに見惚れて見蕩れてたの?」「舌」即答だ。


「うわ、なんか変態っぽい」

「十九歳に手を出す二十七歳なんて、それだけで変態だよ」

 それっぽいことをそれっぽくいっておく。

「それもそうか」


 シュークリームに再び噛り付く。

 さっき噛んだ後の端の方からクリームが溢れてそれが唇の両端に少し付いた。

 桜はそれを少し官能的――しかし年相応に子どもっぽさも残している――に舐めとって、その姿を俺に見せつけた。


「こういうのが好きなの?」


 悪戯っぽい笑みで言う。


「悪くはないけど、わざとらしさが出てる」

「本当の変態じゃん」


 桜は顔をしかめた。そんなときの桜は本当に子供っぽくて、その子供っぽい姿もまた悪くないと思った。

 そのままシュークリームの残りを口に放り込み咀嚼しようと試みるものの思っていたよりもシュークリームの残りが多かったのか、口いっぱいに溜め込んだシュークリームを口からこぼさないようにするので精一杯でなかなか嚥下するに至らない。


 その様子を俺はただ見ていた。


 そんな姿を見られるのは嫌だったのか桜は顔を背け窓の外を見やる。


 しばらくするとこざっぱりとしたモノの少ない部屋の中で、一番存在感のあるベッドに桜は腰かけ足を伸ばしてぱたぱたとやりだした。

 ぱたぱたと動くその足はすらっと膝下が長くて、ふくらはぎには適度な筋肉をまとい、若さ故にか瑞々しい張りを持っていて綺麗だ。


 この足ならどこへでも行けそうな気がする。

 どこへでも。


 そういえば小学生の低学年の頃に家から離れたところへ、ただただ遠くへ、どこまで行けるのだろうかとひたすら歩いて迷子になったことがあった。

 当時は日本の半分は制覇したつもりでいたけれど小学生それも低学年の足なんてたかが知れていて、実際は大阪にも京都にも岡山にも行けてなかったし、なんなら神戸市内から出てもいなかった。


 結局警察に保護されて、母親が警察署までわざわざ迎えに来た時に「どうしてこんな遠くまで来たの?」と聞かれてごめんなさいと答えたが、あの時俺はなぜ遠くに行きたかったのか明確な理由がいえなかった。


 ただ遠くに行きたかっただけだと思っていた。しかしそんなことはなくて、実際は俺の中にあるなにかがそうさせたんだが小学生低学年の俺にはそれがなにか分からなくて、それは今でも分からなくて、ただあの時感じたもやもやとした気持ちだけが胸の奥の方で堆積していて、その上に二十七歳になるまでに感じたもやもやが更に積み重なり、もう最初に感じたもやもやがなんだったのか思い出そうにも思い出せなくて、更にもやもやとした気持ちが上に覆いかぶさりもう手に負えない俺は結局なにが言いたいのか分からなくなる。というかなにも言いたくなくなる。


 それでも俺はもやもやを蓄積させることを止めない。


 理由なんてないし意味もないけど、こういうのが俺を構成していくはずなんだと信じる。

 自分を信じることを始めたばかりだから、とりあえず下手くそでもいいから自分を信じてみる。


 俺はそれを厭わない。


 なんの根拠もないし、なにも解決していないのに、なんだか清々しい心持ちになっている自分がいる。


 窓から差し込む光がちょうど桜の足を照らしていて、また一段と綺麗に見える。


「いい天気だね。コーヒーでもあれば清々しい朝を演出できそうなくらい」


 本当に清々しい時には余計な装飾なんていらない。それだけあれば十分なんだ。と今この状況でなら俺はいえるけれど、わざわざそんなことを口にして清々しさを無下にするようなことはしない。


 俺は自分が変わっていきつつあるのを実感していた。日差しと桜の足の組み合わせとの因果関係は不明だがそこに俺を変化させる要素になるものがあったのだと思う。

 この変化が良いものなのか悪いものなのかはまだ分からないが、良いものであると信じたい。


 実際に試してみて分かったことだが、信じるというのは意外に気持ちが良い。

 変な表現だとは思うが、世界の中に自分を位置付けているそんな気がする。


 自分を信じていない内は、自分というものがふわふわとした存在であったのに、信じるという行為だけで存在というものが、途端に、確固たるものとして、姿形を作り出したように思えた。


 そう思えた清々しい朝のような昼過ぎ、ものの少ない部屋で隣に座るのは神の舌を持つ女の子桜。


 時間は、無限であるかのように、ゆっくりと流れている。

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