桜【2】
桜に会いに行く電車の中で俺は色々なことを思い返したり考えたりしていた。
思考の迷路なんていいものじゃなくて、思考の渦と言った方が的を得ているのではないかと自分では思っているくらいそこからは何も生まれない。
こんなことなら小説の一冊でも持ってきていれば思考の渦に沈んでいくこともなかったな。と思ったが家にある本は昨日すべて売り払ったし、それどころか帰る家すらもうないのだった。
そして思考は奥の方へ。
桜と初めて会ったとき彼女は泣いていた。
彼氏に振られたショックで出会い系サイトに登録して、そのサイトでやり取りした男――当然俺のことだ――とその日の内に会って、その日の内にホテルに行って、これからやることなんて一つしかないだろうって状況になってやっと自分がなにをしようとしているのか自問自答しだして、その結果当初の気持ちに立ち戻ったのか悲しさがひょっこり顔を出してしまい二人とも全裸って状況で桜はわんわん泣いて、仕方ないのでそんな彼女を抱き寄せて空いている方の手で彼女の頭を撫でた。
「元カレはそんなにいい男だったの?」
そんな状況を打開しようと俺は尋ねたのだが、桜はこの問いかけに一層声を大きくして泣いた。鼻水だって出ていたような気がするけれどその辺りの記憶は定かではない。
八つも歳の離れた女の子においおいと泣かれたところで、俺みたいなおっさんがなんと声をかければいいのか正直分かったもんじゃない。
なのでその余計で無神経な問いかけ以降はただ抱きしめてただ頭を撫でて桜が落ち着くのを待った。
桜が完全に泣き止むまでに一時間ちょっとかかったのだが、俺はその間結子のことを考えていて、どうしてなのかは分からないけれど昔から女の子に会っている時に別の女の子のことを考えてしまうこの癖はいつになっても治らない。別に治す気もないのだけど。
その時考えていたのは、いつか見た夢で結子に、「友君、付き合ってよ。私というより友君の方が私を必要としているって本当は自分でも気付いているでしょう? いつまでも自分の気持ちに向き合わない弱いところが友君を駄目にしてるんだって私は知ってるよ」といわれたことだ。
夢っていうのは深層心理だとか鬱積した自分でも分からない感情なんてものが関係していると聞いたことがある。という事は俺は内に秘めた自分でも知らない感情ってところでは誰かに助けを求めていて救いを乞うていてこの目的のない日々からの脱却を願っているのだろうか?
もしそうだとしてもそれを結子に求めることが果たして本当に正しいと言えるのだろうか?
俺が二十四歳の頃に結子は二十七歳でその時俺たちは付き合っていたが、それは救いとは程遠いものであったし目的のない日々からの脱却には繋がらなかった。
ただただ寂しさを一時紛らわし、一時の快楽を得て、現実に生きる人間と一時の繋がりを持ち、俺も現実という場所に生きているのだ。と錯覚させてくれるという意味ではある種俺を救っていたのかもしれないけれど、それはまやかしで錯覚の後には何もなくて俺はただ何もないという事実と単純に向き合って愛を知らない自分がなんなのか考えるそんな作業でしかなかった。
「好きと愛は違うもの?」
夢の中で結子にそう尋ねて俺は目が覚めたのだった。
そして意識を戻すと目の前に桜の顔。
「今、私以外のこと考えてたでしょ。しかも女のこと」
泣き止んだ桜は俺の顔を覗き込んだまま言った。なかなかするどい。
「まあ間違いではないね。否定はしないよ」
「今だけでいいから私のことだけ考えてよ」
「どうだろう。大人になると色々厄介なことが増えて目の前の物事に集中できなかったりするんだよ」
「そんな言い訳いらないから」
桜は俺の口を右手で覆ってしまい何も喋らせない。
そのまま左手で俺の身体を右腕から右肩、胸、腹、尻、右足、また上に戻ってきたと思ったら鎖骨のあたりを舐め始める。俺は静かにベッドに横になり桜の手が俺の右半身を撫でまわしている感覚を味わう。桜は鎖骨のあたりを舐めるのをやめない。
今までにも女の子に身体を舐められたことはあるが桜のこの舌の動きは格別だった。舌使いがうまいという訳じゃない。ただ舌が別の生物のように俺の身体の上を蠢いて唾液で肌を濡らしていく様子と桜の表情の恍惚さが、今までのどの女の子より美しく感じられた。
頭がおかしいといわれるかもしれないが、そこに神が内在していてもおかしくないと感じた。
そこというのは桜の舌のことで、桜は図らずとも神の舌をもつ女の子だったのだ。
そんな風に感じていると知らず俺も桜の身体に手を這わせて、桜の上気する顔をそれとなく見ながら額にキスをしようと唇を寄せた時、桜が不意に鎖骨に這わせた舌を離した。
俺も寄せた唇の動きを止める。
もっと神の舌を感じていたかったのに。
「今更だけど、名前なんて言うの?」
桜はそう言った。
それがなんだかおかしくて俺は笑う。
「なにがおかしいの? 全然分かんないんだけど」
それはそうだろう。
なぜなら俺自身なにがおかしいのか正直わかっていない。
その時にそういうことを聞いてきた桜が妙に律儀というか奇妙に誠実さをもっているように感じて、この場面においてアンバランスに感じたのがおかしかったのかもしれないが果たしてそれが本当に正しいのかは分からない。
本当になにがおかしいのか分からなかったのだ。
「俺だって分からないけど、なんだかおかしいんだよ。そういうのってない?」
「まあ分からなくはないけど。それで名前は?」
「
「へー、私桜。なんかサクラダって苗字だけで少し親近感湧くかも」
「多分漢字が違うと思うけどね。貝の方の櫻だから」
「あっ、そっちね。まあ似たようなもんだよ」
「それもそうか。桜ちゃんは、」
「桜ちゃんは止めて」
なかなか厳しめの表情で桜は俺の言葉を遮った。
「桜ちゃんって言われるの嫌。さーちゃんが良い」
「別に構わないけど。そんなに嫌?」
「前の彼氏がそう呼んでたから」
そんな理由だと別れる度に呼び名が一つずつ減っていってどうしようもなくなる気がするが、まあそれで桜の気がすむなら従おう。
「了解」
そう言うと桜は表情を綻ばせて笑顔を見せた。その表情もまた、この場に相応しくないようなアンバランスな程に輝いて見えるものであったので、俺はまたおかしく思ったがもう笑わない。
それどころかその表情を見れたことに感謝したいような、そんなおかしさもあるものかとなんとなく嬉しく思った。
「友君は良いね。無駄に干渉してこない感じが。結構好きかもそういうの」
「俺もさーちゃんのこと好きだよ。かわいい」
「見た目かよ。それにかわいくないし」
「いやいやかわいいよ」
「ロリコン」
「いちいち否定はしないよ? 面倒だし」
「へへへ。友君やっぱり良いね」
今の会話のどこに良いポイントがあったのかは分からないが、それは俺がおかしいと感じたポイントと同じでなんとなく良いって程度の曖昧で、不確かな感情なんだろう。
「ありがとう」
ふわりと軽い感謝の言葉を口にする。
軽かろうと感謝の言葉は大切なものだ。
たとえそこに感情や本当の感謝の念が入っていなかったとしても。
申し訳ない話ではあるが、その時の俺は、気持ちの八割くらいは桜の神の舌に舐められることと桜を抱くことしか考えていなかった。
桜はなかなか十九歳とは思えない、いや逆に若さ故の好奇心からかもしれないが、何でも試してみようとしてなかなか動物的で実験的なセックスをした。
自分が十九歳の時、ここまで意欲的にセックスが出来ただろうか。と思えるくらい意欲的なセックスをして桜はベッドの上で俺の身体を支配した。
そしてセックス中に桜は、自分の事が好きか。かわいいか。などと何度も聞いてきた。まるで自分の存在を確認するかのように何度も何度も。俺は聞かれる度に好きだよかわいいよと何度も何度も繰り返した。
彼女の存在を確固たるものにする手伝いが少しでも出来ていたら嬉しいと思う。
俺は本当に桜のことが好きだから。
これは嘘じゃない。
セックスを終えてシャワーを浴びていると浴室の外から、「このあと用事なかったら私の家に来ない? 昨日借りた映画が面白かったからもう一回見ようと思うんだけど、よかったら一緒に見ようよ」と桜が提案してきた。
映画は好きだ。
悪くない。
俺と桜は他愛のない話をしながらホテルを出て桜の家に向かった。
道中桜は腕を組んだり手を繋いだりしてきたが、俺たちは恋人じゃないんだからと組んできた手や繋いできた手を振りほどいた。
それでも繰り返し繰り返し彼女は腕を組み手を繋いでくるので、俺は諦めてされるがままにしていた。
桜は元カレのことを忘れたいのだろう。
少しは付き合ってやるのが大人の男ってものなのかもしれない。
そういう風に思ったのだ。
桜の家に着いて家の中にモノというモノがほぼ何もないことにまず驚いた。そのワンルームにはベッド、その横に気持ちばかりの小さなローテーブル、その上に置かれたノートパソコン、壁に掛けられた時計、一人暮らし用の小さな冷蔵庫だけしかなかった。
ゴミ箱や電子レンジすら見当たらない。
「こざっぱりした部屋だね」
俺は思った事をそのまま口にした。
桜は部屋の中をきょろきょろと見渡して「そうかな」と小さな声で言った。
彼女には俺に見えていないものでも見えているのだろうか。
DVDはノートパソコンで見るらしく、その小さな画面で大人二人――桜は年齢的にはまだ未成年だった――が十分満足して見れるとは思わなかったが、案の定身体が密着するあまり若い桜はそれだけで興奮してしまったらしい。
結局映画なんてそっちのけになってベッドで欲望の沼にずぶずぶはまりこんでしまった。
欲望というのは本当に際限がない。
欲望というと下品かもしれない。
神の施し。と言い換えよう。
「友君彼女いないの?」
神は舌にしか宿っていないようだ。
どうでもいい質問。
彼女がいたらどうだっていうんだ? それが俺の一番聞きたいところではあるけれどぐっと飲み込む。
わざわざ角を立てる必要はない。
言葉はさんかくでこころは四角だな。まあるい涙をそっと拭いてくれ。
そんな歌があった気がする。
俺が意図するところと意味は絶対違うだろうけど。
「もう何年もいないよ、俺に彼女なんて」
この後にくる言葉はだいたい想像出来る。
「私と付き合う?」
やっぱりそんなことだろうと思った。
「なんでそうなるんだよ」
恋愛の寂しさを埋めるのは恋愛。
そんな安直な考えなんだろう。
「私のこと好きでしょ?」
「好きだったら誰でも付き合うの?」
少し言い方が冷たかったかもしれないが、俺の気分を下げるようなことを言ったのは桜なんだからこれくらいは我慢してもらおう。って十九歳相手にムキになるのも如何なものかと今の正常な状態なら思うが、この時は本当に気分が下がっていたからそんなこと考えもしなかった。
「そんな訳ないじゃん」
どことなくむすっとした様子で桜は答えた。
「そうでしょ? そういうこと」
「ざーんねん」
本当にそんなこと思ってはいないのだろう。
初めて会っておいおい泣いてセックスして、ちょっと喋ってセックスしてってだけで愛もくそもないはずだ。
そりゃあ少しの情くらいは湧いたけれど、あくまでもそれは情であって愛ではない。愛を知らない俺でも情と愛が別物だってことは分かる。
「さーちゃん俺のことそんなに好きじゃないでしょ?」
「好きだよ。友君は? 私のこと好き?」
「好きだよ」
「はははっ。友君ずるいね」
「何が?」
「それは秘密。っていうか自分で考えて」
どうやら俺は自分で考えるってことをしなければならないらしい。
十九歳の女の子にも三十歳の女の子にもいわれるんだから間違いないだろう。
あの日桜の家で見た映画――結果的に全く見れなかったので自分で再度レンタルした――メメントの主人公レナードは十分しか記憶が保てない前向性健忘になりながらも、メモを書いたり、ポラロイドカメラで出会った人物たちを撮影したり、本当に大事なことは体に墨を入れて記憶を脳ではなく身体に刻み付ける事でハンデを克服しようとする。
そんな状態で思考を巡らせ、そして自分を信じて、妻をレイプした犯人を捜す。
レナードは自分を信じて疑わなかった。
そうすることで考えるということに信頼が付属される。その結果また自分を信じる力が強固になる。
そういうことなら俺はまず自分を、自分という存在を信じ切れていないので、自分を、自分という存在を信じる、そこから始めないといけない。
車内アナウンスで住吉駅にまもなく到着するという放送が流れた。
桜の家の最寄駅だ。
俺は降車する為に座席から腰をあげて扉の前に立った。
さて、自分を信じる為に俺はまず何をする必要があるのだろう。
とりあえずは少し前向きに生きてみようと思う。
前に進むっていうのは自分を信じてないと出来る事じゃない。
エアーが抜けるぷしゅうという音がして電車の扉が開いた。
比較的涼しかった車内とは違う嫌な湿気をまとった空気が顔に当たる。
それを不快に思いながらも、桜に会うのを楽しみにして、なんとか外へ一歩踏み出した。
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