後編

 真っ暗な海に向かって歩く。懐中電灯の明かりは、足下を丸く照らす。その周りは何も見えない。町には外灯が少ないし、浜辺には明かりの類がないのだ。


 海は、私からただただ離れようとしているように見えた。彼を渡さない。そう主張しているように感じた。波を送り、私に警告する。あんたを飲み込んで殺す。そうなりたくないならここから去れ。そんなメッセージを受け取った気がして、わずかにひるんだ。


 でも、私は死にたいし、彼にもう一度自分を示したいのだ。それは願い通りだ。一歩、足を踏み出した。波は、大きくなる。足を濡らし、足首を浸し、ひざを沈め、胸に海水がかかる。私はどんどん海の中に入っていった。水は冷たかった。


 最初は、潮臭さが鼻についた。濡れた服が体に張りつくのも気持ち悪かった。今ではもう気にならない。目的が純粋になっていく。死ぬのだ、死ぬのだ、死ぬのだ。そう思い詰めていくうちに死ぬことすら目的ではなくなっていく。私は何の感情も持たず、首まで海水に浸かった。ふと、頭の中で声が聞こえた。


「あんたが飲むとよ」


 海に入る前の全ての感情が戻ってきた。寒くて、濡れた服が不快で、海水は臭い。死ぬのも怖い。パニックになった。一歩引き、それでも首までの海水はかさを減らさず、私は呼吸を荒くした。怖い。死ぬのは、怖い。


 そのとき、気づけば拳を作っていた手を海から出していて、私はあのときの真珠に気づいた。すがるようにそれを口に入れ、思い切り飲み込んだ。大きな波が、私の頭に被さった。私は海に飲み込まれた。



 誰かが笑っていた。目を開き、辺りを見回す。私は自分の体が発する光に気づいた。その光は周りの岩や魚や海草や貝を、弱く照らしていた。呼吸が楽だった。どう考えてもここは海底なのに、私は魚のように息をしていた。えらが開いているのかと首筋をなぞったが、何もない。冷たい海水を吸い、温かい海水を出すところを見るに、私は肺呼吸をしているらしい。奇妙だ。


 声が出ない。海底だから当たり前なのだが、肺呼吸ができるから不思議に思えた。口を開いて何度も試みていると、また誰かが笑った。


「醜い女」


 はっとして、上のほうを見る。そこには、長いうねった黒髪を水の流れに任せて広げた、青白い肌の美しい女がいた。灰色の瞳は透明で、顔立ちは人間の誰にも似ず、むしろ人間を凌駕したかのような神々しさがあった。目尻が猛禽類のように尖り、それがとても恐ろしい。豊かな乳房を丸出しにし、足はなかった。魚のように尾びれへと繋がっているのだ。女はくるりと私の周りを回り、またくすくすと笑う。


「地上は醜い。この女のように」


 そう言い放つと、魚そのものの動きで勢いよく向かってきた。体当たりされる、と思って構えていると、女は私の横を通り抜け、振り向くと見えなくなっていた。


 女を追う。女が誰なのか、わかっていた。彼の「友人」のゾラ。幼い私を水中に引き込んでもてあそんだ少女の今。美しいが、地上にあるものが欠落している女。


 海底をいくら歩いても、ゾラの姿は見えなかった。気味の悪い漂流物の残骸や、岩や貝が見えるだけだ。体が光っても、魚たちは逃げなかった。特別な光で、私にしか見えないものであるように思う。彼が生きているのは確かだと思ったし、いるとしたらゾラのそばにいるとわかっていたから、強い意志で歩き続けた。


 暗くて大きな穴のようなものが見えた。中を覗こうとすると、陰からゾラと同じように美しい女が三人飛び出し、前に立ちふさがった。三人は笑い、私を囲んで歌いだした。人間の声では出せない発音を、奇妙な高音と低音が極端に混ざり合うメロディーに乗せる。美しい歌だが、頭の中がぐちゃぐちゃになり、頭痛がし、体がふわふわと思い通りにならなくなるので、私を狂わせるための歌だとわかった。拳を振り回し、女たちを追い払う。それから頬をてのひらで叩く。


「地上に戻れ」


 女の一人は言った。ゾラによく似た顔立ちだった。


「私たちは、みつるをそばに置く」


 もう一人が言った。最後の一人は、くすくす笑ってこう言った。


「お前は醜い。醜い女は海にはいない」


 私はまた拳を振り回し、女たちが退避するのを待った。女たちの言葉は私の自信をなくさせ、地上へと帰らせようとする言葉だった。彼女たちの言葉が、真実らしく心に響いたからだ。彼女たちには恐ろしい力がある。


 私はなおも進んだ。女たちは私の手を掴んだが、指紋がないのかつるりと滑った。それに、私の体が熱すぎるらしい。触るのを恐れていた。私を留め置くには歌と言葉しかないのだとわかったから、勇気を持って洞窟に入った。藻が生え、赤や白や桃色の珊瑚や様々な色の貝で飾られた洞窟は、私の体から発する光で照らされた。


 歌が聞こえてきた。高音と低音が交互に流れ、一人の人間から発せられる、男女の声を模した歌のように思えた。私が広い空間に出たときには、歌は終わりかけていた。緩やかになっていき、かすかになり、消えゆこうとしていた。ゾラは歌い続け、彼の体にまとわりついた。彼はポロシャツ姿で床に横たわり、うっとりと彼女を見つめていた。私は猛然と歩きだす。これは彼を海の住人とするための歌だ。そんなことをさせてたまるか。彼に駆け寄り、抱き起こした。彼はゾラの顔ばかり見ている。私は少し遠くから歌い続けるゾラの元へ突進し、手を押しつけて口を塞いだ。ざらついて冷たいゾラの体は、私の手の熱さに火傷したようだった。ゾラは悲鳴を上げ、歌はやんだ。


「何をする」


 ゾラは怒り狂い、あの頭がおかしくなるような歌を歌いだした。同時に彼が体を起こし、頭を抱える。私を苦しめる歌は、彼をも苦しめる歌であるようだった。ゾラはそれに気づくと、「みつる!」と声を上げて彼に近寄った。


 彼は正気だった。ゾラを見、あのうっとりとした目つきはしていなかった。私を見る。彼は、私に驚いたようだった。それから岩肌を見つめ、次に、私のほうへと歩きだした。ゾラは叫ぶ。


「地上は醜い、その女のように。地上は苦しい、皆が満を避ける。地上は悲しい、ずっといる場所ではない!」


 それは、彼の気持ちを代弁している言葉のように思えた。同時に、彼の意志を弱める魔の言葉だった。彼は立ち止まり、ゾラを見、とても辛そうな顔をした。後ずさりしようとした彼を見て、私は暖かい空気を吹きかけ、強く抱きしめた。彼は私を見た。彼の体はかなり冷たくなっていて、心臓の音はとてもゆっくりだった。もうほとんど海の住人になっているようだ。私は彼を見つめ続けた。何度も目で訴えかけた。ゾラは、彼を引き留める言葉を並べ立てた。彼はそれを聞くと苦しんだ。


 十分ほど経つと、彼は体を真っ直ぐにした。それからゾラの方へと歩きだした。私は彼を見つめ続けた。言葉が出ないのはとてももどかしかった。彼はゾラの前で頭を下げた。とても人間らしく、体を直角に折った。唇で何かを言う。声は出ない。それを見たゾラはすっと感情を消し、洞窟の奥へと去って行った。彼が私のほうへと歩きだした。彼は私の手を掴み、引っ張って、泳ぎだした。


 三人の女たちがいる。彼女たちは呪いの言葉を吐き続けた。


「お前たちは不幸になる。皆から嫌われる。苦しんで生きて、短命に終わる。子も苦しんで生きるだろう。子々孫々、それは続くだろう。お前たちはたくさんの人間を不幸にする。たくさんの者から憎まれる」


 私たちは耳をふさぎ、女たちを追い払いながら進み続けた。女たちはしばらく私たちにまとわりついてきたが、一人、また一人といなくなり、海は静かになった。


 光を放つ私と彼は、汚れた海水を照らし続けた。魚が泳いでいく。大きな魚も、小さな魚も、私たちの前を横切っていく。彼は動じずに泳いだ。


 あの浜辺にたどり着いたとき、私と彼は肺から海水を自然に吐き出した。無言のまま、私たちは砂浜を歩いた。懐中電灯が、光を放ちながら転がっていた。私はそれを拾い、彼と一緒に町へと向かった。


 アパートの部屋に入り、私たちはあちらこちらをびしょぬれにしながら風呂場に向かった。体を温め、塩水を落とす。私は彼のため、浴槽に湯を張った。彼はそこに入ると、ぶるっと体を震わせた。裸の彼は、とても心許なさそうだった。


 風呂から上がり、私たちはタオルを肩にかけながら話をした。彼はぽつりぽつりと話した。昔からこの小さな町に馴染めなかったこと、孤独だったこと、海の中でゾラと遊ぶことが唯一の楽しみだったこと。


「ゾラは、海の住人になれば幸せになれる、と言った。俺はそれがとても怖かった。人間としての何かを捨ててしまうようで。だから、一年間海から逃げた。お前と生きようと思った。けど、人間の世界はやっぱり苦しくて、逃げた。ゾラはとても美しくなっていた。海で生きることはゾラのようなものだと思った」


 彼は一息ついた。彼の美しい目は徐々に生気を取り戻していた。


「海の住人になった俺の父親や先祖たちは、きっと人間として死んでしまったのだと思う。俺は父親たちを見つけられなかったから。ゾラのような女たちの一部になって、子をなす器官になり、生き続けるんだ。それもいいと思った。だから歌を聴いた。歌を聴くと、とても楽になった。体は冷たくなるし、心と体が別々になる。体と別れるのはいいと思った。けど、お前が来た」


 私を見て、彼は微笑んだ。どきどきしながら彼に近寄り、首に手を巻きつけた。彼はわたしを抱き寄せながら、声だけで続けた。


「お前に求められているのなら、地上で生きようと思った。俺は求められている。そう思っていたら、急に人間らしい気持ちになってきた。だからお前を選んだんだ」


 彼は私を床に横たえた。覆い被さり、口づけをした。深く、何度も。服を脱がし、体を触る。


「愛してる」


 彼の言葉の意味が、ようやくわかった。彼の愛は、私だけでなくこの世界全体に訴えかけられていた。愛の行為は、この世界を確かめるためのものだった。見返りのない愛を、彼は投げ続けていたのだ。


「私も、愛してる」


 今のところ、返すことのできる人は少ない。けれど私だけでも言葉にしようと思った。愛している。ただそれだけの単純な気持ちを。


 彼の動きがとまり、怪訝に思って彼の顔を見た。突然、頬が濡れた感触がした。彼の涙が雫になって落ちたのだった。彼は泣いていた。


 嗚咽を漏らし、彼は私を抱きしめた。








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海底より響く音楽 酒田青 @camel826

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