中編
電話は、何度もたくさんの場所にかけた。それでも何も手がかりはなかった。彼の友人に電話をかけても、相手からは「さほど仲良くなかったから知らない」と返ってきた。彼と深いつき合いのあった女たちなどは、「もうかかわり合いになりたくない」と言った。彼の家系が地元で疎まれているというのを実感した。私は、彼が呪われているかのように扱う町の人たちに憎しみを覚えた。私は一年も彼とつき合っているけれど、何も苦しくないし、むしろ幸せだったのに。
彼の勤めていた図書館にも行った。人気のない図書館はひどく古び、周囲の植栽は手入れがされていない。そこで私は彼が以前つき合っていた司書の女性に出くわした。つんと澄ましたその人は、私を見るとかすかに迷惑気な顔をした。
「彼を知らない?」
私の言葉に、彼女は目の前のパソコンに夢中なふりをした。
「行方不明なの。警察にも届け出を出して――」
「あの、図書館ではお静かに願えますか」
女性は眉をひそめた。私は、一気に脱力した。そして、泣きじゃくってしまった。涙があとからあとから出てきて、呼吸もままならない。慌てて出て来た彼女は、「ちょっと」とまた強い言葉を言おうとしたが、急に語勢を緩め、
「本当に知んしゃらんとですね。郷土史のコーナーに、水妖の本があります。それをご覧になったらどがんですか」
と平坦な声で言った。私はどうにか立ち上がり、彼女に案内されるままに郷土史の小さなコーナーに立った。古ぼけた、地味な本ばかりだ。彼女は本を一冊取り出すと、私に渡した。
「あの人もよく読んでいた本です」
そう言ったとき、彼女の瞳の中にかすかな哀れみが差しているのに気づいた。私は本を抱き締め、近くの椅子に座ると、泣きながらそれを読み始めた。
*
彼の祖母は、一軒家に一人で住んでいる。海水と淡水が混ざり合ったような川のすぐそばに、色あせた茶色のトタンで覆われた古い家があり、そこが彼女の家だった。図書館からの帰りに、私はそこを訪れた。
「入りんしゃい」
私の顔を認めると、彼女は厳めしい顔のまま私を中に招いた。広い玄関から中に入り、古い匂いのする廊下を歩き、私は畳の居間に通された。
老人の一人暮らしという感じのする、雑然とした居間だった。古い桐箪笥に、卓袱台、小さなテレビ。積まれた座布団や目覚まし時計や新聞が、あちらこちらに置いてある。掃除は行き届いているようだったが、人から見られることを意識していない部屋だ。
「あの子は、
彼女がいきなりふすまを開いて現れたので、私はどきっとした。お茶を用意していたのかと思いきや、何かを持っている様子はない。
「いいえ」
「そうやろうね。私もそうやろうと思っとった」
どういうことだろうかと、彼女を凝視した。今日の彼女の顔は泣き腫らしてはいなかった。何か恨みに満ちた顔つきしていて、少し怖い。
「奴らが連れていったとよ」
私はどんどん恐ろしくなってきた。彼女は怒りを膨らませ、拳を強く握りしめていた。
「私の父親と夫と息子のことは知っとるかね」
知っている。彼女の父親と夫と息子、つまり彼の曾祖父、祖父、父は漁師で、海難事故で亡くなったのだと彼は言っていた。私がそのことを言うと、彼女は大きく首を振った。
「奴らが連れていったとよ」
「奴らって?」
おびえながら、私は訊いた。彼女の言うことを信じるにしても、信じないにしても、怖い。
「海に住む、女たち。奴らの種族には男がいなくて、人間の男ば連れていく。私の一族は血ば気に入られて、代々ずっと連れて行かれたと。夫は婿養子やあとけ、奪われた。嫁は絶望して早くに死んだ。だあれも何もしてくれん。海難事故だと、言い聞かせる若いもんもいる。年寄りは、私たちを呪われとると言う。皆みんな私たちを避けた。私は誰のことも信じられんようになった」
彼の読んでいた、図書館の本と同じ筋書きだった。本によると、海には水妖が住んでいて、生贄を求めて海の男たちをさらうのだそうだ。とてもではないが、信じられない。でも、私の心はその筋書きに惹きつけられていた。
「彼は、本当に海に住む女に連れて行かれたんですか?」
「そう。子供んときから海であの女と遊んで、いくら注意しても聞かんやった。それでも、近頃女が繁殖期に入ったとやろうね。危険ということがわかってきたらしか。あんたが来てからは一切海に行かんやった。それなのに……」
頭がくらくらした。あの美しい女の子。ゾラという奇妙な名の彼女は私を海に引きずり込みながら笑っていた。幻覚ではなかった? まさか。現実であってたまるか。
「あんたにこれをあげる。これは夫から、新しく男の子が生まれたらその子にあげるように言われたもの。大事に取っとったばってん、あんたにあげる」
彼女は私に白い絹の包みを渡した。そっと開くと、そこには大粒の真珠があった。白く滑らかな肌の真珠には、妖しい美しさがあった。
「これを飲んで、夜こっそりと海に潜りんしゃい。あの子と同じになれるけん。あんたが飲むとよ。あんたが飲んで、あの子を連れ戻すと」
私は布越しに真珠の存在を確かめていた。これを、飲む? 彼女は正気なのだろうか。これはただの真珠ではないのか。
彼女は、深々と頭を下げた。
「お願いします」
*
家に帰ると、部屋は相変わらず無人だった。涙が溢れた。彼を、愛していた。そばにいたかった。それが叶わないのなら、死にたい。
死ぬのなら、あの恐ろしい海で死のう。彼が読んでいた本の内容も、彼の祖母の話もどうでもいい、でも彼が海に行ったというのは本当だと思えた。彼のいる海で死ねば、彼は気づいてくれるだろう。
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